第87話 子どもの正義と大人の事後処理
夕暮れの光が隊本部のガラス越しに差し込み、机の上の書類や灰皿を薄く照らしていた。外では通勤帰りの人波が街灯に溶ける時間だ。『特殊な部隊』の隊長室は狭く、生活臭と作戦資料の匂いが混じり合う。誠は車を降りた瞬間から、体中の筋肉が抜け落ちたように重く、空気の一つひとつが鈍く感じられた。扉を開ける前に深く息を吐き、今起きた出来事が本当に終わったのかどうか確かめるように自分の手を見た。
初めての戦闘に憔悴しきった誠は、いつものカウラの『スカイラインGT-R』で本部に帰った。
リアウィンドウに映るネオンがゆっくりと揺れ、誠はその揺らぎに自分の鼓動を重ねた。助手席でカウラが無言でハンドルを握っている。彼女の横顔はいつもより少し硬く、車内のかなめが意地でも流す彼女が持ち込んだカセットの『中島みゆきベスト』を流していた。
隊に到着した誠はそのまま休むことも許されずに『特殊な部隊』の隊長室に呼び出された。
隊長室のドアには幾つもの名札の跡が残り、時間と共に磨かれて凹んだカギ穴があった。中に入ると、いつもの匂い、古いタバコとインクと金属の調和がした。壁に掛けられた地図には、過去の作戦の赤い印が残り、誠はそれが自分の小さな世界の、見えない境界線のように思えた。その赤い印のどれかに、今日の自分の戦闘もいつか加わるのだと思うと、誠は息苦しくなった。
隊長室に入った誠は、『駄目人間』である嵯峨の正面にランと並んで立たされた。
ランの姿はいつもと変わらないが、今夜はその目の奥にわずかな疲労が見え隠れした。ランは表情を崩さず、誠の震える手元を注意深く見つめている。嵯峨は机に肘をつき、古雑誌の角を指でなぞるようにしている。外で聞こえた銃声はもうここまで届かないが、その余韻が室内の空気をまだ震わせていた。
嵯峨の机の上には相変わらず風俗情報誌とギャンブル関係と思われる雑誌が恥ずかしげもなく置かれていた。
それらの雑誌は嵯峨の趣味というだけでなく、彼の『距離の取り方』を象徴している。派手で俗っぽい表紙は、重苦しい会話のバッファーとなり、緊張を和らげる役目を果たしているのかもしれない。誠はその上に散らばる角の丸まったページを見ながら、自分がまだ子どもに見えることを自覚した。
以前の自己紹介の言葉『四十六歳、バツイチ』。
軽薄に聞こえるその言葉の奥に、誠は今になって、生き残ってきた人間特有の壁のようなものを感じていた。
嵯峨は、ぎしぎしと音を立てる隊長の椅子に背を預け、頭の後ろで両手を組んで二人を見つめていた。
彼の姿勢は無防備でありながら、同時に指揮官としてのゆるぎない重みを帯びている。長年の経験で身につけた誠のような若者を油断させる『余裕』は、言葉にしない統制力として室内に広がる。ランはその横で軽く頷き、誠に一瞬だけ優しい視線を投げた。
「神前。突然で悪いけど、今回は、地球圏マフィアに対する薬物密輸容疑に対する東都警察からの依頼による『囮捜査』ってことで話が付いたから。あそこは前から東和警察にマークされてたからな……親切な俺達があの人達がもたもたしてるから片をつけてやった。そんなところだ」
嵯峨の言葉は平然としているが、一語一語には計算が混じる。誠にはその計算が『不都合を消すための煙幕』に見え、胸の中で反発が燃え上がる。だが、ここは隊長室であり、口論は結果を複雑にするだけだ。誠はそれを理解しようとしながらも、なかなか納得できない自分を感じた。
唐突な嵯峨の言葉に誠は言葉を失った。
誠は反論したかった。
だが、嵯峨の言葉の中にある計算の冷たさが、正しいかどうかとは別に、現実としてそこにあることだけは分かってしまった。
それが何より悔しかった。
言葉を失うということは、自分の世界が別の解釈で塗り替えられる瞬間だ。外で鳴る風の音がいつもより大きく、遠い。誰かがページをめくる音さえ耳に痛い。
あれは『囮捜査』などでは無く明らかに自分を狙った拉致事件としか誠には認識できなかった。
「まー、落としどころとしてはそんなもんじゃねーかな?アタシとしてもその方が色々と都合がいーわな。アタシが鍛えた部下がやくざとも呼べねーただの犯罪者集団に拉致られたなんて気分がわりーや。実際に神前があの機体に乗って出る時は神前の『素質』を相手が知らねーほーがアタシも楽だし。今、うちの方から神前の『素性』を認めたとなると後々面倒なことになる」
ランの口調は軽く、だがその軽さは誠の心に刺さる。ランは誠の近くに立ち、時折ポケットを弄る仕草で場を和らげようとする。だが誠の目に映る彼女の振る舞いには、確かな統制と冷たさがあった。隊のまとめ役としての負担が、無言の圧になって伝わってくる。
ランは嵯峨の決定をさもそうなることを望んでいるかのようにそう言った。
ランの言葉は『共同戦線』のサインでもある。上司同士の合意は現場を平静化させる効用があるが、若者の心に棘を残す。誠はその棘を引き抜けずにいる自分を責めた。
二人の上司のまるで打ち合わせていたかのような会話に誠は握った利き手の左手に力を込めた。
誠の左手は小さく震え、指の間に血の引いた感覚がある。戦闘は終わったが、身体はまだ戦闘モードだ。手の震えは恐怖の名残であり、同時に怒りの予兆でもある。彼はそれを抑えようとしたが、胸の裡にある正義感が熱を帯びてくる。
生協で銃を突き付けられた恐怖、監禁部屋で一人っきりになった時の不安、そして自分のためとはいえその殺戮マシーンと化したかなめを前にした時の違和感が一瞬でフラッシュバックするが嵯峨とランの中ではそれらは全て『無かったこと』だと処理されている。
そんな目の前に見た事実を隠蔽してでも組織を守ろうとする『狡い大人』を誠は初めて目の当たりにした。
「囮捜査? それって嘘じゃないですか!僕は、一方的に拉致されたんですけど!あれは地球人の遼州人への人権侵害以外のなにものでもないですよ!隊長!あなたには遼州人の誇りってものが無いんですか!」
誠の言葉は震えているが、その芯はブレない。若さの正義は粗削りで痛いが、純粋だ。ランと嵯峨はその言葉を聞き流すように見せるが、室内の空気は確かに動いた。嵯峨の目が一瞬だけ細くなる。彼は過去に見た同じような目を思い出しながら、誠の叫びを内側で消化しようとしている。
部隊長自らの捏造に誠は思わず反発した。
反発は成長の第一歩でもある。だが反発はまた、孤立を招く危険もはらむ。誠は自分の声が、組織の壁の向こうに届くかどうかも知らないまま叫んだ。ランの表情は変わらないが、その眉の端がほんのわずかに下がった。
これは拉致事件である。
拉致という言葉が口に出された瞬間、現場だった風景が再生される。狭い階段、冷たい金属の手すり、そして誠の耳元に響いた笑い声。過去のイメージが一つずつ積み重なり、自分の存在が剥き出しになっていく感覚は、いつまでも消えない。
その事件の当事者である自分は地球圏を告発する権利がある。
だが『権利』と『現実』は違う。誠の心には正義と恐怖、そして帰属の悩みが渦巻いている。彼は自分の声が世界を動かすと信じたい一方で、実際には小さな歯車に過ぎないことを本能的に感じていた。
誠はカウラの運転する『スカイラインGTR』の中でそれだけを考えていただけに嵯峨の言うことには承服しかねた。
「遼州人の誇り?遼州人の特徴と言えば『どんなに美男美女でもお金がないとモテない』ことだよね?モテないことは、そんなに誇りにならないよ?俺は地球人の国の『甲武国』でその事を十分に知ってモテるように努力したから。だから俺は『モテて』結婚できたの。それにまさか『特殊部隊』の隊員が民間人に過ぎないマフィアの下部組織に何の抵抗もせずに拉致されましたなんて……そんな恥ずかしい話うちから言い出すわけにはいかないよ?うちはね、遼州同盟司法局直属の実力部隊と言う触れ込みの『特殊な部隊』なの。マフィアの三下にまんまと攫われましたなんてかっこ悪くてさ、俺も言えなかったんだよ」
嵯峨の言葉は冗談まじりだが、その背後には国家と体裁を守る必然がある。遼州圏の『立ち位置』は脆く、地球との摩擦は最小限に抑える必要がある。嵯峨はそうした政治的リアリティを誠に叩き込むために、あえて皮肉を含めた説明をしたのだ。
そう言うと嵯峨は静かに誠に目を向けた。
嵯峨のふざけて誠の誇りを踏みにじる口調に誠の怒りの炎は更に燃え上がった。そしてどこまでも自分の保身を図ろうとしているようにしか見えない嵯峨とランに心底軽蔑の視線を送った。
これまで自分を理解してくれていると思っていたランがあっさりと嵯峨の言葉に同調するような姿勢を見せたことも誠にはそもそもこの部隊に自分がいる意味が分からなくなってきていた。
目が合う瞬間、誠は自分が老獪な嵯峨に比べてあくまで何も知らない若造であることを思い知らされる。嵯峨の目は戯れと厳しさ、そしてどこか憐れみを帯びている。彼は誠を『試す』ように見つめ、誠はその視線の重さに耐えながらも言葉を探す。
「でもそれって嘘じゃないですか!事実と違うじゃないですか!後で問題とかにはならないんですか!」
問題になるか否かは、しばしば権力によって決まる。誠はまだその『現実』を実感できていない。ランは椅子にもたれ、嵯峨の言葉を補強するために静かにうなずいた。
普段は穏やかな誠が顔を真っ赤にして抗議をするが、嵯峨は軽く手を挙げてそれを制した。
手を挙げられた瞬間、誠は子どもに戻る。彼の言葉はそこで一旦静まるが、炭火の下でくすぶる小さな炎のように消えるわけではない。いつかまた燃え上がるだろうことを、誠自身も感じていた。
「あのね、事をこれ以上大きくして何が楽しいの?被害者はお前さん一人で、お前さんは俺の部下だ。穏便に話を済ませることのどこに不満があるの?お前さんもこれから東都警察とか外務省とか色々お役所をこれから一週間不眠不休で巡って事情聴取される生活を送りたいわけ?そもそも遼州同盟と地球は国交が無いんだよね。これで遼州人が目の敵にしている地球人のマフィアが『特殊な部隊』の隊員の秘密を握ってどこかの政府の依頼で拉致ったなんてことになったら……最悪戦争だよ?国家同士の問題になった時、お前さん一人で責任を取れるの?」
嵯峨の言葉に誠は絶句した。
地球人は、言葉より先に核戦争を始める。
少なくとも誠は、そう教わって育ってきた。
そんな相手と誠は相対する自信はなかった。
そんな誠の心を見抜いたように嵯峨は言葉を続けた。
「そもそも言語は話すけどそこに戦争を始めるきっかけしか見ていない地球人に言葉尻を取られて、お前さん一人の命の為に東和共和国を巻き込んだ『第三次遼州大戦』でも起こせばお前さんは満足するの?まったく……お前さんのちっぽけな誇りよりも宇宙の平和が大事なの。それが『武装警察』のお仕事なの。分かったかな?お前さんと同じくらいの年の時、俺も『自分がこの世界で何かできる』とか餓鬼の考えそうな夢を見てたもんだよ……でも世の中はそうはいかないんだ。声を上げればなんとかなる?そんなの聞く人が居ればの話だが、その聞く人だって自分の利益しか考えていないのが世の中という物なんだ。個人の身勝手な正義感なんてロードローラーで轢き潰すように簡単にぺちゃんこにしてしまう。それが世の中なの。それが現実。いい勉強になったろ?」
ロードローラーの比喩は嵯峨らしい荒々しさだが、その言葉の陰には重たい現実がある。誠は自分の小さな世界が、その巨大な機構の歯車で押し潰される恐怖を初めて理解した。だが同時に、嵯峨のその言い方が彼を守ろうとしているのだと気づくのに時間はかからなかった。
冷静に、押し殺すような口調で嵯峨はそう言った。
その冷静さに安心を覚える者もいる。ランはその方針を受け入れているように見えるが、誠は違った。彼は目に映る真実を無理やり覆い隠すことに抵抗を感じていた。だが今は、上官の決定が優先される瞬間だ。
今の誠に言葉に出来る思いは何一つなかった。最初から当てにしていなかった嵯峨はともかく信じていたランにすら裏切られた。その事実が誠の心に重くのしかかって言葉が一言も出てこなかった。
誠は唇を噛んだ。
嵯峨の言葉に何も言い返せない自分が、一番悔しかった。




