第7話 隊長室の埃と罠
ランの部隊部屋からゆっくりと歩いた先に、窓の小さなドアが並ぶ廊下があった。扉ひとつごとに小さな札がぶら下がっている。紙の札には手書きの文字があり、年季の入った机や資料棚と同じように、ここが長く使われてきた場所だと告げていた。さして大きくはない廊下だが、空調の風が時折誠の首元を冷やし、紙の匂いと古いコンクリートの匂いが混じり合う。
ランはそのうちの一枚の札の前で立ち止まった。札には太い文字で『隊長室』とある。誠は自分に言い聞かせるように、声をかけるでもなくその札を口に出した。外見では普通の札と変わらない。だがランの肩に力が入っているのが誠には見て取れた。
「『隊長室』か……」
ランは手の動きを止め、扉にそっと手を触れた。ランの顔が微妙に歪みノックするか否か、一瞬ためらいが走る。彼女の小柄な背中に、いつもは見せない不満と怒りがちらりと滲んだ。
「言っとく。ひでーものをこれからオメーは見ることになる……それだけは覚悟しておけ」
ランの声は低く、怒りが籠もっていた。誠は困惑する。何がひどいのか、まだわからない。だがランは言葉を続ける。
「入るのが嫌なら構わねー。そのままオメーの実家までアタシの車で送ってやる。それも人生だ。だが、そーなればまたパイロットが辞めたということでアタシの責任問題になる。一応、アタシが隊長の面倒見てるし、あの男は責任逃れの天才だから面倒ごとは全部アタシが被ってるんだ。だから後で何かあったら『嵯峨惟基が悪い』で通してくれ。そーすれば今回はあの男も言い逃れは出来ねー。頼むわ」
ランの顔には本気の嫌悪が浮かんでいる。誠は目を丸くした。そこまで言わせる相手とは、どれほどひどい人物なのだろうか。
扉を押して中に入ると、誠はまず大きな机の存在感に圧倒された。机の向こうに、これからの当事者……嵯峨惟基特務大佐が座っている。彼は椅子にもたれ、ピンク色の表紙の雑誌のようなものを弄りながら、タブレットを指で弾いている。動きはだらしなく、寝ぼけたような目で室内を眺めていた。
「おい、『駄目人間』」
ランは一言で切り捨てた。
その呼び方に、誠は一瞬言葉を失った。一応は目の前の嵯峨は司法局実働部隊の隊長であり、上司である。だが、ランから見れば嵯峨こそがランの倫理基準をはるかに下回るレベルの『駄目人間』なのだろう。誠は慎重にランを見返す。彼女は小柄だが、目つきには強さがあった。幼い見た目と裏腹に、立場を守るためなら容赦しない器が宿っている。
嵯峨は雑誌を片手に、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「ああ、ラン。別にそんなこと言われても俺は気にしないよ。『駄目人間』……いいじゃんそれで。俺はそうあることを少しも恥ずかしいと思ったことが無いから別に気になんかならないよ。それに俺って有能で仕事が早く終わっちゃうもんだからすること無いんだから仕方ないじゃないの。時間は有限だよ、有効に使わなくちゃ。金があればなあ……三万円じゃこうして俺の趣味の風俗店の情報誌買ってチェックするのが関の山だよ……ああ、お金があればなあ……」
そんな二人の会話を聞きながら隊長室の扉が開いた瞬間から、誠の頭の中で何かがひっくり返ったままだった。湿った空気が押し寄せ、埃の粒子が動いているのが見えるようだった。机の上には書類の山が崩れたまま吹きだまりのように積まれ、日本茶の茶渋の輪が何枚も紙の端に広がっている。椅子の背にはシワだらけの上着が投げ出され、床には靴底の黒い汚れが帯状に伸びていた。壁の鎧は妙にほこりを被り、管弦楽器のような琵琶は弦の錆で色がくすんでいる。窓際の植木は水を切られて葉が垂れ、鉢皿に茶色い水たまりができていた。匂いは古い紙と汗、油の混じった濁った匂いだ……誠が普段、掃除と整理整頓に誇りを持っているなら、これは暴力に等しい。
誠は、埃を吸い込むだけで自分の中の何かまで汚れていくような錯覚を覚えた。
まず最初に、誠はその『汚さ』に何も感じない嵯峨に対して怒りが込み上げてきた。母の道場で床を磨いたときの感触が、手のひらに鮮烈に蘇る。竹の打ち込み音、布巾をきつく絞るあの音、拭き上がった木の光沢。それらは誠にとって清潔さの証であり、礼儀の一部だ。ここには礼儀も、最低限の手入れも、気配りもない。誰かが生きている痕跡と同時に、放置された怠慢が濃縮されている。
『なんだこれは。人が生活してる場所の空気じゃない。ここで仕事をしているというだけで、器が小さく見える。汚れを見て見ぬふりする奴は、器だけでなく中身もそれに釣られているんだ』
これまでの対人恐怖症じみた誠の胸の内で、言葉が連打される。嵯峨の座る椅子の背もたれに視線が落ちると、そこにこびりついた汚れや、ポケットに押し込まれたレシートの先端が見えた。身だしなみと空間の管理ができない人間が、他人の人生に手を突っ込むことなど許せない……誠の軽蔑は、理屈ではなく体の底から湧き上がる生理的な反応だった。
『人は整理の有無でその人間の思考の有り様が透けて見える。書類を順に並べられない奴は、自分の言葉も整えられない。約束も守れない。責任を転がすのが上手いだけの詐術師だ』
誠は口に出せない上司への不満にはらわたを煮えくり返らせていた。そんな誠を一瞥すると嵯峨は明らかに予想通りの反応だというようにニヤリと笑ってゆっくりと雑誌を置き、軽く頭を下げる。謝罪の言葉が出るときの顔は、どこか軽薄で、反省の色は薄かった。誠はそれを見て、気持ちがますます冷たくなるのを感じた。
嵯峨はそんなあきれ果てた表情の誠をまるでその内面まで理解しきって満足したというような笑みを浮かべた後、急に立ち上がってゴミだらけの大きな隊長の机に突っ伏して頭を下げた。
「ごめんなさい。全部私がやりました。神前の人生をぶっ壊したのは私です。東和宇宙軍のパイロットコースもごり押しで通しました。ですから、ごめんなさい。許してください……許してくれるよね?神前は優しいってお前さんの母さんから聞いてるよ?だからね?お願い、許してくれるよね?」
感情の色が剥げ落ちていくように、嵯峨の口先だけの謝罪が痩せて見える。
『謝るのは簡単だ。言葉は紙の上のインクのように擦れば消せる。この男には頭を下げるなどという行為は息を吸うようなものなのだろう。この部屋を見ればこの男の精神そのものが分かる。これだけ整理整頓とも掃除とも無縁な男は……信じるに値しない。汚れは取り除かなければ戻らない。お前がしたことの尻拭いも、言葉だけじゃ済まないだろう?』
その謝罪を聞きながら、誠の中では嵯峨への軽蔑が言葉になって反芻される。母の剣道場で見せられたあの男の笑顔、煙草の吸い方、妙に若々しい物腰……あれがとりあえず関係を保つに足りるとこの男が思った母へのただの演技だったことが確信に変わる。演技の背後にあるのは計算された策略と、ずる賢さだ。
『この男はずるい人間だ。本当に謝るつもりがあるなら、まずここをきれいにしてから言え。口だけの謝罪は灰に同じだ。お前が撒いた混乱は、誰かが掃き清めないと消えないんだ』
誠は机の端に目を向け、散らばる小物や空箱、使いかけのペンの山を見た。どれもが居心地の悪い乱雑さを訴えている。綺麗に並べられた軍用ノートと、乱雑に積まれた娯楽誌が隣り合う不協和音。秩序と無秩序が同じテーブルに居合わせ、誠の神経を逆撫でる。
『整理整頓は礼だ。自分の周りを整えることが、自分を整えることでもある。母さんはいつもそう言ってた。ここにあるのは、単に無頓着という以上のものだ……放棄だ。自分の人生を他人任せにしているという証拠だ』
ランは誠の反応を横目で確認していた。
「まあ……神前を嵌めたのは事実だしな。まあ、そんな罠にかかる神前が馬鹿なだけだと言えばそれまでだけどな」
ランは誠の引きつるこめかみを見て小さく嘲るように笑った。誠はその笑いにも腹立たしさを覚える。ランが見ているのはこの空間の『味』ではなく、誠という若者の反応だ。嵯峨のやり方が誠をここに『埋めた』ことへの言い訳を、ランは既に知っているのだろう。
『嵯峨。母さんの知り合いだって?剣道場に来て、薄笑いで煙草を吹かしていた男。あのときの喋り方、目の泳ぎ、愛想の良さ……全部計算のにおいがした。今、そのにおいが部屋いっぱいにこびりついてる。人を手玉に取る術師が使った油の匂いだ』
誠の内心は暴風のように荒れ狂う。考えれば考えるほど、嵯峨の所作の一つ一つが軽蔑に値する証拠に見えてくる。すべては演出だ。上品な言葉、気取った物腰、そういったものは信用に値しない。信用すべきは行為だ……拭われた机、磨かれた床、戻された本の背表紙。それらがない限り、謝罪も儀式の一部に過ぎない。
そんな誠を見ても嵯峨はただ頭を下げてそれで済んだというように隊長の椅子にふんぞり返って誠を珍しい生き物でも見るような目で見つめてきた。
そんな態度がさらに誠の神経を逆なでした。
『謝って終わりにする奴にろくな未来はない。やったことの始末を自分でつけられない人間が、どうして他人の運命を弄べる? 嵯峨、お前はただの方便使いに過ぎない。醜い器で大きく見せているだけだ』
誠は深く息を吐いた。胸の中の苛立ちが、少しずつ冷静さに変わる。軽蔑は怒りを孕み、怒りは判断を促す。誠は自分がここに残るか去るかを決める責務を持っている……掃除好きで、整理整頓の美徳を体現する彼には、混乱を放置することが耐え難いのだ。だが同時に、誰かがこの場所を守るという選択をしたい気持ちも芽生えている。
怒りで顔を赤らめながら誠は姿勢を正し、ネクタイに軽く手をやる。ランは横目で誠の表情を確かめると、面白げに肩をすくめた。嵯峨はタブレットを机に置き、白目の下で笑ったように見える。
「ああ、その目……全責任が俺にあるような感じに見えるけど……そんなに俺だって暇なんじゃないんだ。今は暇だけど。お前さんを罠にかけたのはここの全員が分担してやったんだ。別に俺一人じゃないよ。俺はそうするように、より効果的にお前さんの進路をすべて潰してここに来るしかないように仕組んだだけ。まあ、そう考えれば責任は俺にあるというわけか……お前さんが怒るのも当然かもね……でも怒っても疲れるだけだよ。もっと前向きに、今自分が置かれた現状の中で自分に何ができるか考える。賢い人間ならそう言う方法を考えるもんじゃないのかな?」
……嵯峨の声は薄く、どこか満足げだった。
「まあ、ここまで着ちゃった自分の間抜けぶり。それを回想した事ってお前さんにはあるのかな?まずさあ、就職活動で受けたインターン五社。一社もメーカーが入ってないから、これは潰しとこうってことで、これを全部潰した」
まるで自分の功績を誇るかのような嵯峨の態度に誠は怒りを新たにした。しかし、そんな誠の表情をまるで無視して嵯峨は得意げに話を続ける。
「お前さんは東都理科大の理工を出てるんでしょ?一流の理系の大学を出てその知識も才能もある。それだったら技術屋に専念してメーカーで技術を磨かなきゃ意味がないんじゃないのかなあって俺なりに気を使ってあげたの。確かに地球の戦争に介入して物資の調達なんかで巨額の富を稼いでいる商社なんて行っても技術が陳腐化したらすぐお払い箱だよ?」
嵯峨はまるで自分のした行為が『善意の慈善行為』であるかのように得意げに語った。
「うちの隊でそんな人生を捨てにかかってる馬鹿であるお前さんを救う希望者を募ったら地球人の血を引く女性の勇者たち……ああ、アメリア……コイツは次にお前さんが合う運航部の部長なんだけど……そいつの部下達が電話やらネットでお前さんのあることないこと書き込んで人事関係者に曝したらわけ。そんな事をしたら清廉潔白で性的倫理感の高い遼州人の国である東和共和国に本社を置く企業の人事担当者なら全員手を引くわな。情報戦は戦争の基本と言うのが俺の主義でね。それが見事にはまったわけだ。俺のこの隊の任期はあと3年半でね。その後はアメリアにこの『特殊な部隊』の隊長を譲ろうと思ってる。アイツはIQ250だから。それぐらいのことはできるんじゃないの?」
誠は思い出した。
大学三年から始まる企業のインターン。
担当者が次第に誠を汚物扱いするようになり、最終的にはすべてが立ち消えになった。
「そんなことしても、お前さんを欲しいという酔狂な会社があるの。二社役員面接まで行ったとこ、あったよね。そこにトドメを刺したのが、隣の人格者の幼女。俺からしてもナイスキャスティングだったと思うよ」
そう言って嵯峨はランを指さす。誠は嵯峨の指の指すままに隣のちっちゃいランに目を向けた。
『この人……この嵯峨とか言う隊長を『脳ピンク』とか『駄目人間』とか言う割にしっかりその策略に加担していたのか?言ってることとやってることが矛盾してるぞ……さっきまでの人が良さそうに見えたのは嘘だったのか?』
ランは急に表情を消した顔で誠を見上げた。
誠は怒りに震えながら、かわいらしいランをにらみつける。
「確かにオメーの進路のトドメを刺したのはアタシだ。オメーが幼女にしか欲情しないド変態で、その嗜好を実行したことを演技と妄想でしゃべったら、落ちるわな、ふつー。あと、どちらも成果主義が売りの会社だから英語できなきゃ管理職になれねーぞ。オメーの語学力じゃ絶対無理!定年まで係長か主任で終わるのは嫌だろ?だから潰した。思いやりが溢れてるだろ?アタシ。『魔法少女』としてはそう言う客層をキープしておく必要があるわけだ」
そう言ってしてやったりと言うように笑った。
『こいつ等全員悪党だ!そして!今更『魔法少女』ってなんだ!さっきあれだけ僕の魔法少女アニメ好きを否定してたよな!それがここに来て自分が『魔法少女』って言いやがった!コイツ本当に魔法が使えるんじゃないか!だから永遠の幼女なのか!やっぱりこの人が目の前の嵯峨なんて言うこ悪党を超えた一番の『人外』なんじゃないか?』
誠の心の中はそんな思いで満たされた。
しかし、十年前の内戦から姿が変わっていないということはランが『魔法少女』なのかもしれないという気分になっていた。
「クバルカ中佐は『魔法少女』というのは比喩ですか?噓ですよね?そんなの実在しませんからね?さっき『魔法少女』や『アメコミヒーロー』の出来ることは変身以外は全部できるって言ってましたけど……そんなのあり得ませんよ」
誠はとりあえずこの場で疑問をぶつけて見せたくてそう言った。
「さっき言ってたアタシが出来る事か?ここだけの話だが、アレは全部事実だ。そんな事がすべてできるアタシは地球人から見たら立派な『魔法少女』なのかもしれねえな……でもそんなことはオメエの配属とは関係ねーや。それはアタシの軍人としての戦闘能力の問題。今の話題はオメーの馬鹿な進路を選んだという話だろ?話を逸らすんじゃねーよ」
ランは自分が『魔法少女』であることをあっさりと認めながら次の話題へと誠を導いた。
その告白が誠の怒りの炎に油を注ぐ。怒りは理性を溶かすほどの勢いで周囲を赤く染めるが、誠は自分を抑えようともがいた。冷静であろうとする彼の内部で、短い決意が芽生える。汚れた現実に対してただ叫ぶだけでなく、手を動かして変化を起こすこと。誠の性分はそれを許さなかった。
『おい、嵯峨。言葉だけでなく、行動で示せ。ここを片付ける。それで多少はお前等の言葉の軽さを和らげることができるかもしれない。少なくとも、ここを掃除する間はお前の言葉は空虚に響かないだろう……この部屋に漂う埃が貴様の本性を現している』
誠は小さな、だが堅い決意を胸に抱いた。机の上の一枚を手に取り、折れ曲がった角を整える。コーヒーの茶渋が染みついた紙をそっと脇に寄せ、埃を払う。ランが何か口をはさんだが、誠は聞き流して作業を続けた。行為は静かだが確かな抵抗だ。乱雑な部屋に秩序を呼び戻す最初の動き。誠はそれが自分に課された小さな『儀式』だと理解していた。
『もしここに残るなら、まずは片付ける。埃を払い、紙を整える。空気を入れ替え、匂いを消す。そうすれば、この場所がただの怠慢の温床でなくなる。人が変わるかどうかは、後のことだ』
その決意は静かなものだったが堅かった。誠は自然と指先に力を入れる。ランが何か言いかけたが、誠の耳には届かない。視界の片隅で嵯峨が煙草の灰を落とす。灰は小さな黒点となって机の表面に落ち、散り、消えることなく横たわる。誠は手を伸ばして、その灰を自分のナプキンでそっと払いたくなる衝動を抑えた。
『まずはここを掃除する。きれいにすることから始める。それが僕のやり方だ』
誠の中の整理欲が、無秩序に立ち向かう小さな盾となった。目の前の嵯峨という人物は消えやしない。だが、空間を変えれば、人の見え方も変わる。誠はそう信じていた。そして、軽蔑は純粋な感情であり、行動へと変わるべき怒りでもあるのだ……それを証明するために、彼は胸の内に小さな火を灯した。
「神前よ、なんでそんな怖い顔で俺を見るの?ここには酸素もある。そして望めば水も飲めるしカップ麺を作るためのお湯まである。地球みたいな放射能汚染とも無縁なんだ。それをなんでそんなに怒るの?放射能は寿命を縮めるけど埃はアレルギーで医者に通わなきゃいけないだけで死なないよ」
嵯峨はまるで反省をする様子もなくそう言い切った。
「それにまあ、過ぎちゃったことはどうしようもないよね。お前さんも今ある現実を受け止めなよ。それにお前さんはうちにとってそんな非道なことまでしてほしい人材だったんだよ?そこのところは胸を張ってもいいんじゃないかな?待ってたんだ、誠。お前の『才能』をここで使わせてもらう。お前がどんなに頼りなくても、使い道はある……って言って欲しいでしょ?じゃあ、言ってあげる」
嵯峨の口ぶりは軽薄だ。だが誠は、言葉の端にある一種の誠実さの兆しを見逃さなかった。人を手元に置く者は、時に目的を持っている。だがその目的が善か悪かは、彼のこれからの行動で決まる。
誠は深く息を吸った。選択の重みが、胸の奥でじわりと広がる。嵯峨は冷たく――だがどこかで慈しむように、誠を見つめる。ここにいる人間たちは手段を選ばぬこともあるが、同時に仲間を守る気概を持っていると示す。
「でも、俺は人を策に嵌めるのは好きでもその人間には選択肢ぐらい与えるぐらいの善意は持ち合わせているの。決めるのはお前だ。悩めばいい。期限はない。だが、うちの一員として試されることは確かだ……これにはお前さんの意思意外にこの『特殊な部隊』の隊員のすべての意思が関わってくる。俺も隊長としてそれを尊重したい。でも、こんな目に遭わせてまでお前さんをここに引き込んだお前さんの意思も尊重したい……で……どうなの?」
嵯峨の口調は柔らかくなった。タバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吐く。窓の外、差し込む光が室内の埃を浮かび上がらせる。誠はその微かな時間の流れの中で、自分が何を選ぶべきか、静かに問いかける。
九に嵯峨の表情が引き締まって誠を真正面から見つめた。嵯峨にとって、人を罠にかけるのは仕事であり遊びであり、同時に『選ばせる』ことでもある。誠からも嵯峨のその信念が見て取ることができた。
「まあいいや、とりあえずそのお前さんを受け入れるにあたり協力した人間達にあいさつするのが最初にお前さんのするべきことなんだろうね。その連中を見て、そしてそいつ等に気に入られてそれでも嫌だというのなら出ていけばいい。それじゃあそのお前さんを引き込むにあたって全力を尽くしてくれた『特殊な部隊』の面々に挨拶をしないとね。ここの部屋の真下に『運航部』っていう『変な髪の色』をしたねーちゃん達がいるから、アイツ等はさっき言ったアメリアの部下でお前さんをたいそう気に入ってるみたいなんだ。そこに挨拶へ行ってくれば?連中も連中なりの『歓迎』をしてくれると思うから……楽しんできてね♪」
嵯峨はそう言うと、手を振って誠を促した。誠は隊長室を後にする足に力を込める。部屋を出ると、廊下の空気が少し涼しく感じられた。外の世界は騒がしく、日常は続く。誠の胸の中では、新しい選択肢の種が芽吹き始めていた。




