第62話 走る地獄、撃つ地獄
休み明けの月曜日が誠の所にもやってきた。
朝の空気は夏らしく朝からギラギラとした朝日に蒸し上げられ、基地のコンクリートはもうすでにムッとする熱気を孕んでいる。週末の静けさが引きずる中、誠は休日中に中古のバイク屋で買った原付スクーターのエンジン音を心地よいリズムだと感じながら司法局実働部隊の本部に向かった。原付は小柄で、誠の体格には少し窮屈だったが、東和宇宙軍の寮暮らしでは無かった『自分で移動する』という選択が彼には心地よかった。
「おはようございます!」
誠は元気よくそう言って機動部隊の詰め所に入った。今日もランに強制されるであろう死の可能性すらありうる狂気の体力強化メニューを考えると憂鬱になりそうになるのは事実だが、そんな顔をしたところであの『魔法少女』が誠の育成方針を変えるなどと言うことは考えられなかったので、誠は多少は回復した体力を振り絞ってから元気を演出して見せた。
声の余韻が木製の机とメタルのロッカーに跳ね返る。朝の詰め所は準備と雑談の交差点だ。誠は深呼吸し、今朝の自分の体調を確かめるように肩を回した。
今日もまた、ランとカウラは出勤済みだったが、かなめはまだ席に着いていなかった。
ランは将棋盤を大きな機動部隊の部隊長の机の中央に置き、その横に置いてある将棋専門誌のページをめくりながら盤上の駒を指で転がしていた。そして誠の声を聞くとむっくりと顔を上げた。彼女の動作はいつだって無駄のないものだ。軍務の合間に遊ぶ将棋の一手にも、訓練者としての眼差しが混じる。
そんな見た目はかわいらしいが目が怖いランがいつ誠に向かって『今日も一日走れ』と言い出すかと思いながら、誠はまだ空席のかなめの正面の自分の席に向かって歩き出した。
「おー、神前来たのか。きっちり土日は休めたか?休める時はきっちり休む。仕事の時はきっちり仕事をする。それが社会人だ。オメーもその事は出来てるみてーでアタシも一安心だ。」
ランはそう言うと机に置いた将棋盤から目を離して誠を見上げた。
誠はそのまっすぐな視線に、『今日もやられるな』と内心で苦笑した。ランの『鍛えることは最善』信条は、彼女の小柄な体躯と相まって不思議な威圧感を作る。そしていつもならそのまま部屋の隅に立てかけてある竹刀に向かって歩いて行って、『早く着替えて来い!走るぞ』と言い出すのがこれまでのランの行動パターンだった。
「クバルカ中佐、また今日もランニングですか?さすがにそれは無いですよね?お願いです、無いって言ってください!確かにこの二日の休みで筋肉痛で動けないというほどでは無いですけど、まだ体中の筋肉が突っ張って痛いんですよ。こんな生活がこのまま金曜日まで続くようなら、僕は本当に死んじゃいますよ」
明らかに嫌そうな誠を見ると、ランの表情が曇る。
ランの曇りは短かった。むしろ誠の『甘え』を見透かして楽しんでいるようにも見える。部隊内では、嫌がる新人にいかにして『やる気』を植え付けるかが教育を任された鬼教官であるランの腕の見せ所なのだ。むしろそんな誠の口答えなどはどこ吹く風でニヤリと笑ってすべてを飲み込んだという顔をして座ったままでいるランの姿が誠には明らかに不気味に見えた。こういう人がすべてを飲み込んだという時の理解のほどが自分の望んだ理解とはまるでかけ離れたものであることが多いことはまだ23歳の誠でも十分理解できている事だった。
「なんだよ、その弱気な態度は。そんなんじゃ世の中やっていけねーぞ。その様子だとまだいつまで学生気分を引きずっていると言う証拠だな。アタシは社会人のあるべき死に方は過労死だと思ってる。そこまで社員を徹底的にこき使わねえと資本主義社会では企業と言うものは生きていけねーんだ。オメーは東和宇宙軍と言うお役所に入ったつもりでサボり放題だと思っているみてーだが、アタシみたいにそんな企業の人間ともよく付き合いのある人間には部下は過労死させて一人前という民間企業並みの部下育成方針が根深くしみ込んでいるんだ。オメーは徹底的に鍛えるって言っただろ?そんな後ろ向きの姿勢でどーする?とりあえずオメーは走ることだけ考えていればいーんだ!体力が続く限り走れば過労死しねー体力がつく!この過程で過労死する時はオメーはそこまでの人間だったと言うことだ!アタシが見込んだ男がそんなもやしのはずがねー!新人育成に限って言えば、労働法なんざ足かせだ!あれは完成品の大人を守るためのもんで、これから人間になる途中の新人に適用するもんじゃねえ!新人ってのはな、壊れる寸前まで追い込まれて、そこで初めて自分の本当の限界を知るんだよ!」
はっきりと完全に善意からそう言い切るランに誠は苦笑いを浮かべた。
「まあ、走るほかにもうちにはすることがある。今日は何か西園寺が何か考えているらしい。私にも声をかけてきた。まあ、西園寺が考えそうな我々がするべきことは一つしか私には思いつかないがな」
キーボードをたたきながら、カウラはそう言った。
カウラはいつも冷静だが、目の奥に小さな好奇心が宿る。実務の論理だけでなく、人を見る目がある。今日は何を持ってくるのか、という期待がその一言に含まれていた。
「西園寺さんが?西園寺さんと言えばやっぱり銃ですか?あの人のすることで任務に関係することは他に思いつかないんですが……あの人が仕事ですることでクバルカ中佐が手を出さないこととなると導き出される答えはそれしか思いつかないんで……」
誠の頭に浮かぶのは『かなめと言えば銃』である。
かなめの銃への執着は、彼女の性格と職能が重なった象徴だと誠は思っていた。銃は単なる道具ではなく、かなめにとっては手入れと練習を通して自我を表現する媒介でもある。
走らなくていい。
その言葉だけなら救いだった。
だが、代わりに出てきたのがかなめの火器訓練だと知った瞬間、誠は理解した。
地獄は一種類ではない。
足で死ぬか、的に当たらなくて精神を殺されるか。
今日は後者の日なのだ。
誠には射撃に致命的な苦手意識があった。
走る苦しさは体力でどうにかなる。
だが射撃だけは、努力しても照準そのものが噛み合わない感覚があった。
誠は利き目が安定しなかった。
右目で狙っているつもりなのに、途中で左目に意識が移る。
左で合わせようとすると、今度は右目が勝手に標的を拾う。
結果、照準と意識が微妙にずれ続ける。
「それも仕事のうちだ。うちは『特殊部隊』だからな。当然、銃器の扱いも一般の部隊のそれ以上のものを要求される。当然の話じゃないのか?」
顔もむけずにカウラはそう言った。
「『特殊部隊』ですか?」
誠はカウラがいつもの『特殊な部隊』ではなく、『特殊部隊』と言う所がなぜか気になった。
「そうだ、『特殊部隊』だからだ。射撃は逃げられない。貴様の弱点だからな」
言葉の違いに引っかかるのは好奇心の表れだ。カウラが『特殊部隊』と平然と言うとき、それは職分としての重みを持つ。誠はその語感に、自分がただの体力自慢の『雑用係』ではないことを感じた。
「よう!おはよう!」
詰め所の扉が開くと相変わらず実働部隊の半そでの夏の司法局の制服の袖を肩までまくり上げた姿のかなめが部屋に闖入してきた。
入ってきた瞬間のかなめにはいつも刃物のようなエッジがある。だが、その刃は危険というよりも生き物のエネルギーに近い。
「西園寺さん。やたら元気そうですね?銃の訓練をするんですか?そんなに銃が好きなんですか?」
誠は厭味ったらしくそう言いながら笑顔のまぶしいかなめを見つめていた。
かなめの仕草は軽口だが、次第に来る訓練を楽しみにしている様もある。誠はそんな空気の中で、今日の自分の立ち位置を再確認する。
「え?ああ、そうだな。アタシにとって銃は精神安定剤みたいなもんだからな。ちゃんとオメエの銃は選んどいたから。カウラ、アメリアを連れてこい。アイツは今月まだ火器訓練してねえだろ?アイツのサボり癖は火器訓練を担当しているアタシとしても面倒なんだ。連れて来い!」
誠の前で腕組みをしながらかなめはそう言うとそのまま自分の席に着いた。
かなめの席についても脇のホルスターの中の銃に時々手をやっていた。訓練用具の管理と銃の選定……これらは彼女にとって儀式であり、安心を作る仕事だ。銃を選ぶときのかなめの表情は少し柔らかくなる。
「それじゃあ呼んでくる。アメリアの奴。成人向けゲームばかり作っていて、本来するべき仕事にはまったく興味がねえ困った奴だからな。あのような女が少佐で部長で運用艦の艦長であるという事実は隊としては恥じるべきことなのかもしれないな」
そう言って機動部隊詰め所を出て行った。
カウラの言い方には瞬時の隙も無い。アメリアの多趣味ぶりも、この部隊の色を作るエッセンスだ。誠は「人間の多様さ」がここでは武器になることを知っている。
「それじゃあ、行くか!神前!気合い入れて行けよ!」
かなめは机の引き出しから銃の弾の箱をいくつか手に持つとそのままバッグに入れて立ち上がった。
弾の箱は金属的な重みを持ち、手に取るだけで気持ちが引き締まる。かなめはその重みを尊重する人だ。銃と弾薬は彼女の『儀式』の一部でもある。
「神前。先に行ってろ。アタシは準備してから行くから。銃は準備が大切なんだ。ちゃんと動かねえと銃はただの錘以下の存在だ。テメエの銃には錘にはなって欲しくねえからな」
銃について語るかなめは笑顔だった。
笑顔の裏にある厳しさ。かなめは銃を尊重する者に対してのみ優しくなる。誠はその優しさを信頼の印として受け取ろうとする。
「分かりました。ちゃんと準備します。僕は射撃が下手なんでその点はお察しください」
誠はそう答えるとそのまま射場に向けて歩き出した。
「射撃か……苦手なんだよな……」
誠は諦めたように自分自身に向けてそうつぶやくのをかなめは聞き逃さなかった。
言葉は小石のように場に落ち、かなめはその波紋を敏感に拾う。射撃に苦手意識を持つ者に対して、彼女は鍛えるだけでなく、原因を見つけて手を差し伸べるタイプだ。
「まったく軍人が射撃下手なんて……オメエにあんな『力』が無ければ即お払い箱なんだがな」
かなめはぽつりとつぶやく。事実、誠には射撃の才能が欠如していた。
かなめのその言葉だけが、その後ろを歩く誠の廊下の向こうまでついてきた。
誠は利き目が右だったり左だったりするため、右目で狙いをつけようとして左目に焦点を当てたり、逆にしてみたりとともかく狙いをつけるのが苦手だった。
視線と矢印のような関係が整わない。両眼の協調が取りにくいという生理的な原因は、誠にとって不本意な壁だ。だが彼は諦めない。遼州人の忍耐がここで生きてくる。
「両目で狙える照準器って……無いのかな……まあ、有っても僕には使いこなせそうに無いけど……」
腕組みをして誠は機動部隊詰め所から廊下に歩み出た。
自分の身体のこと、内に秘められたこの『特殊な部隊』に来て初めて知った『法術』の素養についての疑問が、彼の歩みを静かに速める。答えはすぐには出ない。




