第41話 手癖と情け——二人が戻る場所
普段は滅多に鳴ることのない機動部隊詰め所の電話が鳴った。
蛍光灯がかすかに唸り、古い空調が低い風を吐く。壁際の配線ダクトの上には『持ち出し厳禁』と赤マジックで書かれた予備バッテリーが雑に積まれている。コーヒーと潤滑油の匂い、消毒用アルコールの匂いが層になって漂っていた。
下っ端である自覚のある誠が、黄ばみの残る受話器をすぐに取る。カールコードが腕時計に絡まり、あわてて解きながら肩で受け直した。
「はい!司法局実働部隊!」
とりあえず最低でも元気だけは周りの女性陣に見せつけようと、誠は受話器に向けて元気よく叫んだ。
奥の長机では、ペーパーカップの山と整備マニュアルの紙束。その隙間で将棋盤が据えられ、角が香袋の上に置きっぱなしになっている。
『あのー、こちら千要県警豊川警察署刑事課なんですけどね……』
誠の叫びにうんざりしたような調子で、中年男性の声が鼓膜をくすぐる。背後で書類をめくる音、どこかの署内放送のチャイムが遠くかすれていた。
「豊川署?警察ですか?」
突然の千要県警からの電話にうろたえながら誠は答え、受話器を少し遠ざけて息を整える。指先が汗で滑った。
『そちらにクバルカ・ランさんと言う方が居られると思うのですが……いつもの件だと話していただければ分かると思うんですが……お話しできます?』
遠慮がちな声に、誠はハッとして視線を上げる。
機動部隊長の机……文鎮代わりのレンチで端を押さえられた覚書の前で、ちっちゃい中佐殿が将棋盤をにらんでいた。半袖の肘をぼりぼり掻きながら足先は椅子の支柱に乗せてぶらぶらしている。
「神前。……ああ、また豊川署か?代われ。どーせいつもの件だ……あの馬鹿、またやりやがった……あの癖は何時になったら治るんだよ……まったく」
まるで相手が分かっているかのようなランの態度に誠は不思議に思って首をひねった。誠は内線転送のボタンを押し、受話器に手を添えたまま後ずさった。『あの馬鹿』……ランの面倒くさそうな口ぶりからすると、どうやら例の整備班長のヤンキー島田が何かしでかしたらしい。
壁のホワイトボードには『今週の反省:勝手にサーバー室でカップ麺を食べない(※前科2)』と誰かの筆致で書かれ、端に『責任者:島田』と落書きされていた。
「また……島田だよ……いい加減ランの姐御に迷惑かけるのやめてくんねえかな……あとで当たり散らされるアタシ等の身にもなってみろってんだ!」
かなめは頼まれた報告書作成などせず、膝に布を広げて銃を磨きながら、ため息の代わりに乾いた笑いを零した。スライドの金属音が小気味よく、詰め所の空気を区切る。
「確かにな。それにしても、アイツには学習能力と言うものが無いのか?今度は何をしたんだ?どうせろくでもないことをしたんだろ。いつもの事ながら呆れ果てるしかないな。島田は部下の連中に『豊川署に出入りしている蕎麦屋のメニューは制覇した』なんて自慢しているが……そんなことは自慢にはならないな。ただ自分は犯罪者予備軍だと証明しているだけの話だ」
カウラは端末の画面から目を離さず、キーを軽く叩きながら呟く。緑髪の先が肩で揺れ、軍用マグの湯気が彼女の頬を曇らせる。
「島田先輩……警察に知り合いでもいるんですか?それとろくでもない事って……あの人何をしてるんです?いくらヤンキーだからってそんな毎度毎度警察のお世話になることはしないでしょ。それに蕎麦屋のメニューを制覇するほど取調室と隊を往復してたら仕事になんないじゃないですか。そんな『犯罪者』を飼っておいて司法局の本局は何も言ってこないんですか?うちの看板は一応『武装警察』ですし」
誠の間抜けな問いに、二人はほぼ同時に大きくため息をついた。ため息のエコーが、蛍光灯の唸りに溶ける。
「まあ、知り合いがいるというか……島田の野郎には『私有財産』という概念がねえんだ。それにこれまで『逮捕』は何回もされてるが一度も起訴されていねえから『犯罪者』じゃねえらしいや。弁護士の叔父貴がそう言ってるんだからそうなんだろ」
かなめはスライドを抜き、照星の向こうを覗く。手元の整備マットには綿棒とオイルの染み。言葉は投げやりだが、手つきはやたら丁寧だ。
「『私有財産』と言う概念が無い?それってどういう意味なんですか?」
誠は、言葉の意味を咀嚼しきれずにオウム返しする。
受話器のフックを押す指がまだ落ち着かない。
「アイツは『必要なものは必要な人が使って当然』という考え方しかできないんだ。だからアイツにとっては『窃盗』は犯罪という認識はない。島田の手癖の悪さは一級品だからな……『窃盗』が犯罪でないという法律がある国の存在を私は知らないがそう言う国にアイツが住む以外にアイツがいつの日か本当に『犯罪者』にならない方法は無いな」
カウラは端末のスクロールを止めず、いつもの速度で事務を進める。机の端には『島田貸出中』と書かれたドライバーセット……もちろん無断借用の証拠札だ。
「それって万引きでもしたんですか?まあ、ヤンキーですからね。でもあの人ももう大人でしょ?中学生や高校生の不良でもあるまいしそんな事ばかりしてるわけないですよね?でも本当にそんなに年がら年中逮捕されてたら仕事にならないでしょ?ああ、確かに僕がここに来てから整備班は仕事らしい仕事をしていないですからね。でも、もし出動が有って、その準備とか機体の整備とかで人員が必要な時に島田先輩が居なかったらそうするつもりなんですか?班長代理の人とか……居るんですか?僕は聞いたことが無いですよ」
誠の声が一段上ずる。
詰め所の隅、乾いた観葉植物の鉢に差さったネームプレートには『水/金曜』と手書き。水やり役の欄には『島田』の名が四角で囲って何度も塗りつぶされている。
「確かに島田が月に一度は窃盗で逮捕されているのは事実だが、隊が出来た時は週に一度だから逮捕される頻度はかなり減っている。事実、今回の逮捕は二か月ぶりで私としてもよく島田が我慢していたと感心していたところだ。なんでも本人が言うには万引きは止めたから逮捕される回数が激減したらしいが……バイクとか自動車とかをだな……必要があると自分で使ってしまうんだ」
とんでもない文言を、カウラは淡々と整備記録の読み上げみたいな調子で言う。
コーヒーメーカーが『ぽちゃん』と一滴を落とした。
「バイク?自動車?そんなものを必要だからって盗んだって言うんですか?完全に犯罪ですよ!それ!うちは一応武装『警察』ですよね?警察官がそんなことして許されるんですか?いくら起訴されなかったからと言ってもそんないつ犯罪者になってもおかしくない人がなんで隊にいるんですか?ここもお役所だからほっといたら何をするか分からない人は何か理由をつけて解雇するんじゃないんですか?あの人まだ懲戒免職になって無いですよね?今朝も寮でサラさんと一緒にプリン食ってましたよ?」
誠の語尾は上がりっぱなし。机の端の『割れたマグ(島田)』が視界に入り、余計に頭が痛くなる。
「アイツはバイクや自動車に関する盗みは『正義感』からやっているそうなんだと。『違法駐車は犯罪だ。だからそれを盗むのは犯罪じゃねえ』ってのが島田の理屈らしいや。だから違法駐車のバイクや自動車なんか世の中のためにならねえから『移動してやった』と言って……」
かなめが言葉を置く間。
誠は呆然とした。天井のパネルの継ぎ目を見上げ、現実逃避の角度で首を傾ける。
「……え、つまり『持ち主が困っているバイクを助けてあげた』くらいのノリなんですか?でもそれは『移動』とはふつう言わないですよね?普通は警察官がちゃんと写真を撮ってレッカー車で決まった保管場所に運んで取り締まる行為を『移動』って呼ぶんですよね?違います?」
あまりに誠の常識とはかけ離れた島田の正義感に誠の口から出てくる言葉はそれしかなかった。
「島田の馬鹿にそんな当たり前の理屈を理解する能力があるはずがない。しかも、島田はご丁寧にその場所に警察がレッカー移動したときよろしくメモ書きで寮の電話番号を残してそこまで連絡しろとその場所に張り付けて寮まで乗って行ってしまうんだ。まあ、盗んだ相手も最初は警察にレッカー移動されたと思うが電話をかけると島田が出るから当然問題になって盗んだ盗まないで揉めてそれがいつものことだと分かっている警察が電話中の島田を逮捕する。島田も慣れてるから抵抗もせずにそれについて行ってさっき言ったように取調室で何が食べたいかを注文する。そしていつものことだからすでに半分島田が起こす自動車窃盗事件専門担当となっている定年間近の刑事課の巡査部長の同じ人物がすぐこうして豊川署から電話が入る仕組みになってる。いつも通りの手順と言って良い」
平然と言うカウラ。誠は天を仰ぎ、心の中で誰かに『ここは普通の世界じゃない』と通報した。
「そしてその度にクバルカ中佐が身元引受人として出向くことになる。島田のピッキング技術とアナログ式量子コンピュータ内蔵ポケコンを駆使したロック解除はプロ級だからな……どんな車だろうが簡単に盗むことが出来る。島田なら軍の施設に置いてある飛行戦車やシュツルム・パンツァーでも盗みかねない」
カウラは島田の『技能』を、まるで人事評価コメントのように並べる。机の引き出しから『施設鍵一覧(閲覧注意)』のラミネートが少し顔をのぞかせ、誠はそっと閉めた。
「そんなわけないじゃないですか……軍の施設でしょ?まず侵入ができないんじゃない……ああ、司法局の身分証とかを使えば入れますね。でも、さすがに実機を盗むなんて……」
さすがの誠も、脳が拒否反応を起こす。
「ああ、実際に1回盗んだことあるぞ。基地への侵入の手口は神前の言う通りだ。そこから先の機体の保管されてる施設に侵入した手口はアタシ等は『特殊部隊』だからそれ向けの訓練は受けてるから簡単なことだ。アタシだってこの前オメエを救出した時に屋上から簡単にあのチンピラ共のアジトに侵入して見せたじゃねえか。島田にも同じことくらい簡単にできる。なんでも島田がその理由としてランの姐御に言ったのは東和陸軍にランの姐御があれほど貶してた07式が配備されたことが今でも気に入らねえらしくて、『05式にコンペで勝った機体の性能を見てやる』と言ってここまで乗って来た。ああ、アイツはパイロット教育も受けているからな。たいていのシュツルム・パンツァーの操縦はできる。だからコックピットに侵入して機体を起動することさえできればここまで07式を乗ってくることなんて簡単だろうな……まあ、アタシも気になってアイツに実際に05式に勝ったという07式を操縦した感想を聞いたが、今でも05式に勝った理由が分からねえということだ。アタシも一度アイツに07式の起動方法を教わって盗んでみようかとも思うが、また降格を食らうと面倒だから止めてる」
さらっとかなめにより追加される『実話』に誠は愕然とした。
誠の理解は天井のパネルよりもさらに外側へ飛び出した。
「あのー、操縦が出来るとかそう言う問題じゃないと思うんですけど……それと西園寺さんも島田先輩の真似はしないでくださいね?」
論点がすべて吹き飛ぶ。
詰め所の壁の端、A4用紙『無断運転・無断起動・無断離陸:厳禁!』の『無断』の字だけがマジックで太く書き直されているのが目に入る。
「でもこれまで聞いた話は全部『窃盗』以外の何物でもないですよね?普通そんなことを社会人がすれば職を失いますよね?なんでうちではそれが許されるんですか?」
自分でも分かっている。ここで常識を持ち出すこと自体が無謀だと。だが言わずにいられない。
だがかなめもカウラもそんな疑問を持って自分達を見つめて来る誠をまるで不思議な生き物を見るような目で見つめて来るだけだった。
「おう、じゃあ豊川署に行ってくるわ!あの馬鹿の世話をするのも後見人であるアタシの責任だ。これでちょっと焼きを入れてやれば、アイツもしばらくは大人しくしてるだろう……たぶん半年は逮捕されないという記録を打ち立てろと言うつもりだ」
警察官との会話を終えたランが、椅子から飛び降りるみたいに軽い音で立ち上がる。名札のクリップがシャツに当たって小さく鳴った。誠は半年逮捕されないことが記録と呼ばれる『武装警察官』がこの世に存在することに宇宙の広さを思い知った。
「まあ、あんな素行不良のヤンキーは普通の会社ならとっくに解雇だとアタシも思うよ。でもうちは『特殊な部隊』なんだ。今のところは叔父貴……隊長の嵯峨が千要県警との間に入って何とかなってるが……でもこれまではそれでうやむやになって来たが相手が相手だったらそのうち本当に起訴されるぞ、アイツ。そうなったらいくら叔父貴でもどうしようもねえぞ」
かなめの言葉に、ランは肩だけすくめて、詰め所を出て行く。ドアのハンドルには『引く(※押すな)』のガムテープ表示。ランは毎回逆に押して、毎回一度つっかえる。
「そんなにしょっちゅう盗むんですか?盗むんですよね……二か月逮捕されなかったのが記録の人ですから。半年逮捕されないことが目標の人ですから」
誠は、この一連が『日常対応』として処理されていく速度に、逆に不安を覚えながら尋ねた。
「バイクはこれまで二回、自動車は三回だ。他にも税関や水道局と揉めて逮捕されたこともある。毎回、隊長の口添えと中佐の『機転』で何とかなってるが……」
税関?水道局?脳内に疑問符が乱舞する。誠は話題をしぼることにした。いちばん危険そうな単語に。
「『機転』?どんな『機転』を利かせれば窃盗事件を揉み消せるんですか?それと税関とか水道局と揉めて逮捕されるってあの人何をしたんですか?」
カウラの言うランや嵯峨の『機転』が想像もつかず、誠は首をひねる。それと同時に税関や水道局と逮捕されるような揉めごとの内容が想像もつかなかった。
かなめの口元だけが、いたずらの前の猫みたいに持ち上がった。
「ああ、ランの姐御の『機転』か?そりゃあランの姐御は任侠映画脳の持主だからな。島田が上手そうに蕎麦や丼物を食ってる取調室に怒髪天を突くような形相をして怒鳴り込むなり飯を食ってる島田の髪をひっつかんで引き起こして、そのままぶん殴ったり蹴ったりして『またアタシの顔に泥を塗ったな!落とし前をつけろ!』とか言って鉈を借りようとするんだ」
かなめはようやく銃のセッティングに納得がいったのか、ホルスターに収めながら言う。
詰め所の隅に『模造刀(展示用)』の札がぶら下がったケースがあり、誠は思わず距離を取った。
「なんだかほとんどヤクザ映画のノリですね……でも……クバルカ中佐は鉈なんて借りて何をするんです?取調室から脱走でもしようと言うんですか?」
誠の声に、かなめは『違う違う』と手を振る。指にはガンオイルの光っている。
「悪事に対する落とし前を付けるために小指を落とすんだと。『けじめをつけろ!小指出せ!』とか『今回は手首で勘弁してやる!』とか言って大芝居を打つと県警の連中も姐御のあまりの迫力に負けて大体そのまま釈放になるわけだ。豊川署の年季の入った刑事たちも慣れたもんで、もはや茶をすすりながらその大芝居を眺めているだけだからその場にいる被害者が仲裁に入るのがいつものパターンだ。それに被害者の方は被害者の方で、元々違法駐車で警察に見つかったら高いレッカー代や違反金を取られるところだからちゃんと車が無事でしかもランの姐御が頭を下げてガソリン車だったら満タンにして返すんだそうだ。その分金が浮くし、ガソリンまで入れてくれるから意地でも起訴するって言う被害者が居ねえんだ。豊川署の連中も慣れてるからすぐに寮の駐車場に取りに行くわけだが、車やバイクには傷1つついていねえんだからそっちの方が得だって訳。だから島田は今でも娑婆に居るの。分かったか?」
かなめは腕組みでうなずき、机の端の『小道具(芝居用)』と書かれたプラ箱をつま先で押し込んだ。中身は白い包帯と赤インク。……本当にやる気満々のセットである。
「そんな事情があったとは……島田先輩がクバルカ中佐の下でしか働けない理由が分かりました。でも大変ですね、クバルカ中佐」
誠は、ランの『尻拭い』の量を想像して肩が重くなる。
詰め所の掲示板には『対外折衝:本日 ラン/嵯峨(別件)』『手土産:どら焼き×2』と走り書きが見えた。
「そうだろ?まあ、職場はどこでもそうかもしれないけど、うちは特に一種の『生態系』を形成しているんだ。一人欠けても機能しない。ちなみにクバルカ中佐も……」
カウラが指で空中に見えない相関図を描く。
誠はその指先を目で追いながら、嫌な予感に喉が鳴った。
「クバルカ中佐が何を?中佐の場合はあの人は『人外魔法少女』だから人でも殺すんですか?うちは『殺人許可書』があるってこの前言ってましたよね……もはやそこまで行くと、うちは社会の敵……犯罪者集団じゃないですか!」
『殺人許可書』の語感だけで胃が縮む。
かなめは肩をすくめ、片眉を上げる。
「ああ、そんな物騒なはなしじゃねえよ。ランの姐御は被害者の方、あれ……『特殊詐欺』ってあるじゃん」
かなめの声色がほんの少し柔らぐ。誠は胸をなで下ろしつつも、別種の不安が首をもたげる。
「家族に成りすましたりするアレですか?誰があんなのに引っかかるんですか?お年寄りでもあるまいし」
驚きが先に立つ。
カウラは机の引き出しから書類を抜き、クリップで挟み直しながら短く笑った。
「普通はそうだな。でも、中佐のおつむは……『義理と人情の2ビットコンピュータ』だから引っかかるんだな、これが」
かなめの口元に皮肉が宿る。
壁の『着信設定:登録外拒否(解除禁止)』の紙が目に入る。署名欄には嵯峨のサイン、二重線で強調。
「『義理と人情の2ビットコンピュータ』?なんですそれ?」
誠は思わず身を乗り出し、椅子のキャスターがギッと鳴る。
「電話で人情がらみの泣き落としとかされると一発で騙されるんだ。家族に成りすまして会社の金をなくしたなんて言うのは一コロだな。妊婦を車で轢いただの言う電話がかかってくるとこれもまた一発だ……自分は家族もいないのにな。『現場では敵に情けをかけるな!』とかいつも抜かしてるくせに、自分のこととなると人情だけで動いて騙される……あそこまで行くとコンピュータと言うよりアメーバーレベルの頭脳だな……ああ、アメーバーには頭脳はねえか」
かなめは人差し指でこめかみをトン、と叩く。
誠は想像図を脳内に描こうとして、すぐに破り捨てた。矛盾の像がでかすぎる。
「それって……単なる『馬鹿』ってことですよね……中佐が見た目通りの8歳女児だったとしても自分に家族がいるかどうかは言えると思うんですけど……」
言ってから、しまったと思う。けれど言葉は戻らない。
かなめは肩をすくめただけだった。
「ランの姐御に言わせると『義理』と『人情』の間で悩むのが人間なんだと。だから姐御の携帯には登録した番号以外着信拒否する設定になってんだ……他にも叔父貴が色々と手をまわして何とか特殊詐欺の被害にあわない工夫をしてるわけ。だから姐御も叔父貴の部下しか務まらねえの。以前勤めてた東和陸軍のシュツルム・パンツァー教導部隊では、何度か特殊詐欺で多額の借金を抱えたことがあった。そのたびに、寮でガス管くわえて自殺しようとしてたところを見つかって大騒ぎになったし」
『冗談』の域を超える固有名詞の列が誠の脳を埋め尽くす。
誠の背筋を冷たいものが走る。詰め所の空調音が急に遠くなった。
「どんな詐欺にあったんです?そのガス自殺未遂の時は」
声が自然と小さくなる。
かなめは苦笑いの角度を少しだけ和らげた。
「例えば……『あなたの甥っ子が誘拐されました』とかだな」
もうかなめはこれがランの定番のネタだと割り切ったような明るい笑顔を浮かべてそう言った。
「甥っ子いないですよね!?あの人、身よりは一切いないって聞いてますよ?なんでそんなのに引っかかるんですか?」
「それがな……『甥がいるかもしれない!』って、疑うこともなく身代金を払おうとしてたんだよ」
誠は、笑い話にしていいのかどうか分からず、ただ喉の奥が苦くなるのを自覚していた。誠は頭を抱え、机に額を軽くぶつけた。ホワイトボードの『連絡網(家族)』の欄が空白のままなのが、急に胸に刺さる。
「そんなもんですか……しかし、特殊詐欺被害の借金でガス自殺って……怖いですね、特殊詐欺」
言葉にすればするほど、喉の奥が苦くなる。
ランの意外な弱点は、彼女が嵯峨の保護の下でしか生きていけない理由と直結しているのだと、誠はようやく繋げた。
壁の相関図……{隊長:嵯峨/機動:カウラ・かなめ・ラン/整備:島田……}……の下に、小さく走り書きがある。『※誰かが誰かの欠点を覆う。全員で1ユニット。』誰の字だろう。癖のない、真面目な字だ。
誠は、そこに自分の名前がまだ括弧付きで書かれているのを見て、なんとも言えない居心地の悪さと、少しの安堵を覚えた。誠はこの会話の流れを思い出して、ふとつぶやいた。
「つまり……この部隊って、まともな人間がいたら逆に機能しないんですね?そんな話を聞いていたら僕もまた逃げたくなってきましたよ……この前とは別の理由で」
それを聞いたかなめが笑う。乾いた、けれど少しだけ救いのある笑い。
「そういうことだな。ウチは『社会不適合者の寄せ集め』なんだよ。だからそれをお互いかばいあって不条理な世の中と戦っていかなきゃなんねえんだ。そう言うアタシも銃の不法所持の疑いでしょっちゅう任意聴取は受けてるから人の子とは言えねえんだ」
かなめは苦笑いを浮かべてホルスターから銃を取り出してまじまじと眺めた。蛍光灯が一度ちらつき、空調が息を吐く。
電話はもう鳴っていない。将棋盤の角はまだ香袋の上。カップの底でコーヒーが冷え、詰め所の匂いがいつも通りに戻っていく。
『生態系』は今日も正常に機能している。誰も正常ではない、という前提で。




