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遼州戦記 司法局実働部隊の戦い 別名『特殊な部隊』の初陣  作者: 橋本 直
第七章 『特殊な部隊』の異常な日常

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第23話 魔法少女と過労死ライン

 朝の空気は既に夏らしい熱気を帯び始め、寮の周囲からは体操のラジオ体操のように隊員たちの低い声がこだましている。下士官寮から本部へ向かう小道に、朝露を跳ね上げる靴音が規則正しく続いた。誠はパーラの車のドアから身を乗り出すと、深呼吸を一つして背筋を伸ばした。


「おはようございます!」


 返ってきたのは、やややかましくも気の良い声。声の主は、詰め所の入り口で書類をめくる誰かかもしれない。誠は笑顔をつくり、朝の空気に自分を溶かすように返答した。


 部隊の本部までパーラに送ってもらった誠は、せめてこの『特殊な部隊』に飲み込まれないためには『元気』だけが必要だと悟りきって元気よくそうあいさつした。


 本部の廊下は古い照明が淡くともり、机の上には昨日の書類がまだ散らばっている。今日も一日、無駄に焦らず、しかし流されずにやってみよう……そう自分に言い聞かせると、胸の内の緊張が少しほどけた。


 そんな誠の机の上になぜか大きめの箱が置いてあった。


 箱はダンボールで、端に宛名もない。湿った紙の匂いがかすかにし、誠は首をかしげた。箱は大きめだが軽く、開ける前の期待と不安が程よく混ざる。ここでは『なぜ?』がいつも多い。


「なんです?これ……こんなもん頼んだ覚えは無いんですけど……支給品ですか?この『特殊な部隊』の」


 周囲の目を気にしつつも誠は箱を軽く抱え上げ、肩越しにカウラを見る。カウラは端末の光に目を向けながら、いつもの冷静さで静かに首を横に振った。


「それは隊の支給品ではない。なんでも終業後、クバルカ中佐が昨日の夜に貴様の家に挨拶に行ったときにその箱を受け取ったそうだ。クバルカ中佐が言うには今後日常的に神前には必要になるものらしい。お母さんに感謝するんだな。まあ、肉親と言うものは私には関係ないが」


 カウラの言葉に、誠の胸の針が少しだけ動いた。母のこと。全寮制の私立高校の体育教師であり滅多に家に帰らない父に代わって誠の実家の留守を守る剣道師範の母の腕と気遣い……そうした個人的な記憶が箱の重みを増す。カウラの無粋な付け足しはいつもの皮肉だが、誠はその裏にある親切を見逃さない。


 カウラは興味なさそうにそれだけ言うとそのまま端末のキーボードをたたき続けた。


「母さんからか……何だろう?それとクバルカ中佐が隊で必要なものって……ちょっと思いつかないな……」


 箱のテープを剥がす指の所作は、朝の儀式のようだ。誠は手元のガムテープをゆっくりと裂き、箱を開けた。包みの布地からは使い慣れた匂いが漂い、瞬間的に高校時代の夏の記憶が口の端に戻ってきた。


 私立の全寮制の高校の武道教師をしている父のいない誠の実家には、道場を守る剣道師範の母が一人で住んでいた。


 母が縫った生地の縫い目を思い出し、誠は思わず笑った。

 

 誠はそのまま上のガムテープをはがして中をのぞき見た。中には古びた包みが入っていた。


 布をほどくと、時間の匂いがぷうんと立ち上がった。高校ジャージの色褪せ、スパイクのかかとの摩耗。どれもが、高校時代の匂いを携えている。


「ジャージ……とスパイク。にしか見えないよな……クバルカ中佐に急に渡すぐらいだからすぐに必要になるものなのかな?何に使うんだろう?」


 誠は首をかしげつつも、どこかほっとする気分だった。古いジャージは重ね着すれば通勤にも使えるし、スパイクはグラウンドでの足取りを思い出させる。戦闘機の操縦席とグラウンドは遠いが、足腰の強さは共通だ。


 懐かしさと当惑が混じった顔で誠は箱を抱え、そのとき背後から小さな気配がした。振り向くと、ランが小さく胸を張って立っている。彼女の眼はいつもの鋭さで、しかし朝陽のせいかどこか嬉しそうだ。


「クバルカ中佐。あれからうちの実家まで行ったんですか?結構遠いのに……それになんでこれをわざわざ?母が用意してたんですか?それだったら宅急便か何かで事前に送ってもらえばよかったじゃないですか。何か部隊でジャージとスパイクが必要になることがあるんですか?走ることと部隊の運用になんか関係が有るんですか?」


 誠の自然な疑問に、ランは満面の笑みを崩さず、むしろちっちゃな胸の前で腕を組んで誠を見つめて笑っている。彼女のかわいらしい口から発せられる言葉には時に狂気じみた熱意が混じっているが、どこか純粋で羨ましい部分もある。誠はその熱気に圧倒される。


 誠は懐かしいジャージを見て困惑しながら笑顔のランにそう尋ねた。


「ああ、別にオメーが気にする事じゃねーんだ。これから息子さんの命を預かる人間として当然のあいさつに行ったまでの話だ。オメーを東和宇宙軍の本部に迎えに行くのより距離は近いんだから大した話じゃねー。そん時、オメーについてオメーの母ちゃんと色々話してな。その時、母ちゃんにも聞いたが、オメーは体力だけが自慢だろ?なんと言ってもその筋では知られるほどの野球部のエースだったんだ。当然だよな」


 ランの目は真剣そのもので、ところどころ子供じみた誇張が混ざる。誠は突拍子もない命令の前に笑うしかなかったが、その笑顔はわずかに引きつっている。母の縫った縫い目と、ランの言葉が、妙なところで一本の線につながった気がして……誠は少しだけ背筋を伸ばした。


「僕……体力だけって……確かにパイロットとしては三流以下ですし、文系知識が無いから事務仕事とかはできそうに無いですが……体力だけなんてひどい言い方は無いんじゃないんですか?」


 誠が自嘲気味に弁明すると、ランは満面の鬼教官スマイルをさらに大きくした。彼女の幼女のそれとは思えない鋭い視線には『体育会系』染みた情熱の炎が燃えていた。それに巻き込まれると抗えない。


「いーじゃねーか。体力が自慢……事実ならばそれこそ誇るべきことだ。それにこいつがあれば今日一日走っていても大丈夫だろ?だからオメーの母ちゃんにこれからのアタシのオメーの教育方針を説明して動きやすい服装を用意してもらったんだ。うちは予算が無いからそんなもんを支給するような金はねーからな。そんな金があればうちの廊下の切れてる蛍光灯の一つでも交換して―」


 ランの説明は実務的で合理的に聞こえるが、その論理の飛躍は明白だ。『オメーは体力自慢だから走れ!』という筋道がまっすぐ過ぎる。誠は困惑するが、母の用意したものが誰かの目的に使われるのは、どこか誇らしくもある。


「へ?一日中走る?それがここでの僕の仕事なんですか?」


 誠の問いにランの顔が歓喜で輝いた。小柄な体からは想像できないエネルギー量だ。曇り空でも彼女の目は晴れ渡り、まるでこれから行われる『儀式』を心待ちにしているかのようだ。


「そーだ!新入りのオメーの仕事は一日中走る事!それ以外の仕事なんざ何もねー!まず、パイロットは体力勝負!当然、その基本は下半身にあり!とりあえず走れ!何があっても走れ!テメーは今日一日走り続けろ!なんならうちのグラウンドは照明があるから夜通し走ってもいいぞ!意識がある限り走れ!良いから走れ!ともかく走れ!オメーにはそれしかねーんだからそれを信じて走れ!」


 ランの口調は軍神の檄のようだ。機動部隊の詰め所に居る他の女子二人、カウラはただ目の前の端末に何かを入力する作業に集中しており、かなめはと言えば相変わらず銃の分解整備をしているだけだった。


「クバルカ中佐……なんで僕だけが一日中走らないと……それって不公平なんじゃないですか?」


 誠は同じパイロットでありながら全く動く様子の無い二人の女上司を盗み見ながらそう言おうとした。


「おい、神前。新入りのくせに生意気だな。アタシ等にも付き合って走れとか言うのか?なんでそんな面倒なことをアタシ等がしなきゃなんねえんだ?カウラは『ラスト・バタリオン』だ。体力的に遺伝子操作を受けていないテメエとは素材が違う鍛えるまでも無くオメーより早く走れる。そして、アタシはサイボーグだ。アタシの身体の生体部品は無理をさせればそれだけ消耗する……それとも何か?オメエがその部品代を私費で立て替えてくれるのか?」


 銃のバレルをのぞきこみながらかなめは突き放すようにそう言い放った。


 誠は一瞬逃げ出したくなったが、母を思うと二の足を踏む。


「走る……そんな前近代的なトレーニングなんて……トレーニングルームとか無いん……でしょうね、ここにはそんな予算は無さそうですし……でもそんなに走ったらいくら僕でも気絶しちゃいますよ」


 誠の心配はもっともだ。だがランはそれをあざ笑うかのように目を細める。彼女にとって『気絶』は鍛錬の一過程に過ぎず、起こした後のリカバリまでも含めて計算に入っている気配がある。


 いきなりの命令に困惑し、二人の女上司から見放されて呆然としている誠の顔をランは厳しい目つきでにらみつけた。


「アタシは『体育会系』の鬼教官なんだ!アタシがうちの隊長をしている『駄目人間』の捕虜だった時代に『駄目人間』に観せられた映画があってな。ベトナム戦争でアメリカ海兵隊の新兵をしごき倒す、あの『帽子がトレードマーク』の軍曹が出てくるやつだ。そいつの新人教育の方針には、アタシも感銘を受けたんだよ!そいつはそいつの善意を逆恨みしたデブの落ちこぼれに射殺されたが、オメーの体力があればその心配もねーし、そもそも『魔法少女』であるアタシにオメーがアタシをいくら逆恨みしてもアタシに勝てるわけがねー!だからアタシはあの軍曹の教育方針でオメーを鍛えると決めた!さっさと着替えてこい!アタシがぶっ叩いて鍛えてやる!根性見せろ!ガッツだ!ガッツ!社会人に必要なのはまず体力!それをアタシが叩き込んでやる!気絶だ?そんなもん水でもぶっかけて起こせばいい!とにかく走れ!」


 ランの声は機動部隊の詰め所に反響した。誠はその場で戸惑いながらも、母の用意した着古したジャージと古いスパイクを手に部屋を出て男子更衣室を目指した。


 誠は思った。ここは『特殊な部隊』である。


 始終こんな調子ならあの5人でなくとも誰もが一週間で出ていくだろうと。


 しかし、昨日の月島屋での飲み会でランが誠が知らないその見た目から『魔法少女』と呼びたくなる存在である『法術師』と呼ばれる超人的な能力の持主であり、とてつもない力があると知ってしまった誠は怖くて言い出せずに、そのまま誰もいない男子更衣室でジャージに着替えると本部棟を出て整備班長の島田と出会った駐車場の反対側にあるグラウンドに飛び出した。


 

 

 ……それから8時間後。その小さな身長に合わせて切り詰めた短い竹刀を持ったランの見守る前で走り始めると、筋肉は高校時代までの毎日続いた体力強化の日々を思い出した。空を切る足音が、誠の中の少年を呼び覚ます。敵意とも悪戯ともつかないランの期待満ちた視線を浴びつつ、誠は小さく息を吐いて応える。


 夏の長い日も夕暮れに染まり、まもなく終業時間を迎えようとしている。


 夕焼けが地面にオレンジの布を掛ける頃、誠はまだ一人、グラウンドを回っていた。昼間の熱気は落ち着き、冷たい風が汗ばんだ肌をなでる。誠は俯瞰で自分を見ることを覚えつつある。ここにいる自分は、以前の自分と少し違う。無理をせずに長く走れることを喜べるようになった。


 誠が走り始めるのを確認したあと姿を消していたランは朝食を彼女が許す時間に出てきて食事の間誠を休ませて、食事を済ませた誠に走るのを命じて再び本部棟に姿を消した。そして夕方近くになって、ランは確認した。


 誠が、ランが去った食後もずっと走り続けていたことを。

 

 朝渡した高校時代のジャージを着て、今もグラウンドを走る誠の姿を見て、ランは満足げにうなずいた。


 午前中は誠一人が走るだけだったが、昼食を済ませた午後になると部隊全員の体力強化のためにランニングが課せられていた。その体力トレーニングメニューを提案したのもあの『魔法少女』ランだと一人の整備班員が誠にこぼした。


 グラウンドには隊員の雑多な姿があった。


 そんな部隊の隊員達の中、体力は人並み以上な誠は圧倒的なスピードで他の『特殊な部隊』の他の隊員を引き離して疾走していた。


 昼休みや午前と午後に弁当を食べる間に会った10分の休憩時間を除いて、もう5時間も誠は走り続けていた。


 5時間という数字は重い。普通なら失速して当たり前だが、誠の足は一定の拍子を刻み続ける。母のしつけと野球部の鍛錬が、今ここで役に立っている。


 その後に続くのは午後から嫌々このランの提案による地獄のトレーニングに参加した『戦闘用人造人間(ラスト・バタリオン)』で唯一この『特殊な部隊』のカラーに毒されなかったパーラ・ラビロフ中尉が続いた。


 パーラはリズムを乱さない。作られた存在であれ、人は己の節度を守る。彼女の走りは美しく、誠はときおりその背中を見ながら自分の判断を確かめる。


 考えてみれば、午前中からランニングを続けてきた誠がパーラの前を走っていることがある意味、誠のタフさを示しているとは言えた。


 高校を卒業してから5年のブランクがあるとはいえ、そのタフさは見守るランを十分に満足させるレベルのモノだった。


 ランは短い足取りで誠に近づくと、満足そうに腕を組みなおし、誇らしげにうなずいている。その様子は小さな将軍が満足しているかのようだ。


 一方、他の『特殊な部隊』の隊員の過半数は歩いていた。


 彼らの歩調は任務の一部か、あるいは逃げのテクニックか。いずれにせよ、誠がひた走る姿は彼らにとって見ものになっている。


 彼らにとって午後に課せられる退屈なランニングは『面倒』そのものなのである。


 パーラと同じ『ラスト・バタリオン』であるはずのアメリアがその先頭を『馬鹿歌』を歌いながら歩いている。アメリアの表情には自分がランの言いつけに反してトレーニングの時間にただ暇つぶしに『馬鹿歌』を歌いながら歩いていることに対する罪悪感はみじんもなかった。


 アメリアの歌の歌詞はとても人前で女性が口にするものとは思えないほどの卑猥極まりない内容で、もしこれがテレビ放送されることにでもなったならばその番組はその歌詞が電波に乗った瞬間終了すること確実な内容のものだった。その周りで終業までの時間を潰すために歩いているアメリアの部下の運航部の『ラスト・バタリオン』の女子隊員達の中にはそれを楽しんでいる者もいる。誠はアメリアの『馬鹿歌』の珍妙な歌詞に笑いをこらえつつ、自分がその輪に入らないことを再確認した。


 その隣ではヤンキーの島田が自慢げに話す姿を見てサラが爆笑していた。


 島田の大げさな身振りは、日常の中の小さな劇場を作る。誠はその舞台を観客として楽しむ余裕を少しずつ持ち始めている。


 さらにその後ろには島田の『手下』の技術部員が続く。


 彼等がそこにいる原因は島田の前を歩くと、彼に何をされるかわからないからである。


 ランがグラウンドの中央を見ると、残りの女子と技術部の将校達が誠の走る姿を見守るばかりでグラウンドの中央で寝そべって談笑を繰り広げるばかりでそもそも歩くことすらしていなかった。


 誠はそんな中をひたすら走り続けていた。


「なんだ、神前もちゃんとトレーニングしてるじゃねーか……良い傾向だ」


 小さな上司、クバルカ・ラン中佐はどうやら隊では彼女のトレードマークらしい短い竹刀を手に走る誠を満足げに眺めつつそう言った。


 誠はランの視線が誠にしか向いておらず、他のどう見てもサボって終業時間までの時間を潰しているだけの隊員達は眼中にないことにすぐに気付いた。


 つまり、ランにとって新人の誠だけ走っていれば、あとはどうでもいいのである。他の隊員がいくらサボっていようがランの関心では無かった。


 理不尽だとは思う。でも、『選ばれて』目をつけられているのもまた事実だと、誠は薄々理解し始めていた。


 ランは誠を見つめ、その眼差しには褒め言葉よりも使命感が宿る。誠はその視線を受け止め、ゆっくりと呼吸を整える。


 一人、誠に付き合って軽いジョギング程度の速度で走っていたパーラはグラウンドに現れたランの姿を見つけると、いつものランの『新人のみ徹底教育モード』を理解しているので、まじめにランニングをした自分を恥じた。


 パーラの恥じらいは純粋さの裏返しだ。彼女は真面目に走ったことを、自分の小さな反乱のように思っている。誠はそれに気づいて微笑む。


「神前!元気だな!まだ走れるか?あと5時間ぐらい走るか?走れるな?走ってもいいぞ!その為の夜間照明だ!ちゃんと深夜までオメーが壊れるまで走らせてやる!」


 満足げな笑みを浮かべながらランは短い竹刀を手に大声で誠に話しかける。


 ランの笑顔は、いつもどこか子供じみているが、その裏には鍛錬への深い信仰がある。誠はその熱量を測りながら、声を絞る。


「……クバルカ中佐……僕は長距離はちょっと自信があるので……でも10時間も走るなんて……テレビのチャリティー番組のランナーだって番組の間はタクシーで移動してるって聞いてますよ……」


 小さなランの前で誠は息を切らしながらそう言ってほほ笑んだ。


 彼の笑顔は『負けない』を示す優しい抵抗だ。ランはそれを理解せず、真剣にさらに輪を広げる。


「ああ、あんなのはイカサマだから気にすんな。そーだな。そのマジでテレビの24時間マラソンが出来る人並み外れた体力は認めてやる。その体力があればどこでも生きていける。『作業員』として……テレビのあの企画に選ばれたタレントも『作業員』をやるのがちょうどいーんだ。アタシがアイツ等のギャグが面白いと感じたことは一度もねーからアイツ等には『作業員』以外務まらねーのは確実だ」


 ランの前まで来て立ち止まって肩で息をする誠向けて、ランは誠の全く望まない評価を下した。


「僕、『作業員』になるために大学を出たわけじゃないんですけど……それにあの人達はCMとか出て稼いでるから『作業員』をして生活費を稼ぐ必要は無いと思うんですけど……それより……もう終わりにしません?さすがの僕でも明日が心配なんで」


 ようやく息が落ち着いてきた誠はそう言ってパーラに視線をやった。


 長いランニングは思考を研ぎ澄ます。誠は自分の選択を改めて問い直し、しかし逃げる決意はまだない。ここで学ぶことも多いと、彼は小さく納得する。


 パーラも誠が立ち止まったのを確認すると同じように軽く息を弾ませながらとりあえず立ち止まった。


「クバルカ中佐、私は……水分補給してきます」


 パーラはランにそう言って立ち去った。


 パーラの去り際のまなざしは、誠を託すようで温かい。彼女は『逃げるか残るか』は当人が決めると信じている節がある。誠はその信頼を胸に、また少しだけ走り続ける。


 パーラは誠を『偉大なる中佐殿』と呼ばれるクバルカ・ラン中佐にこれから始まるランの大説教の『生贄(いけにえ)』として差し出した。


 これから始まるであろう誠に対する説教に巻き込まれることだけは避けたい。


 パーラの後姿にそう書いてあるのを誠は見逃さなかった。結局、人間は自分がかわいいのである。


 観察力のある誠は、場の力学を読むのが上手くなっている。誰が何を守り、誰が何を諦めているのか。そうした小さな読み取りが、彼の生き残り戦略でもある。


 その短い竹刀を持った小学校低学年と言った体形のランに対して、大男である誠がすまなそうにしている様ははたから見れば異様に見える。


 足の長さも体格も対照的な二人の並びは、奇妙なコントラストを作る。だがそれはここならではの秩序で、周囲はそれを当然のように受け入れている。


 しかし、ランの鋭い眼光ににらまれた誠はまさに『蛇に睨まれた蛙』と言える状態だった。


「神前。何周走った?言ってみろ」


 『偉大なる中佐殿』はそう言って誠を睨みつけた。瞳は情熱に燃えていた。


 ランの質問は単純だが、その裏にある意図は大きい。誠はついつい目を泳がせてしまう。


「50周くらいですけど……もっと走らないとといけないんでしょうか?……さすがに初日にこんなに走ったら身体が壊れると思うんですけど……」


 仕方がないので誠はそう言った。一周、400メートルのグラウンドである。


 当然二十キロ以上走ったわけである。


 誠の努力は数字としては見事だ。だがランの目には常に『まだ足りない』という尺度がある。彼女の尺度は常人の想像を軽く超えるのだ。


「50周……アタシが期待したレベルじゃねーな!午後の終業時間まであと一時間ある。その間、ずっと走り続けろ!テメーにはそれを出来る体力がある!うちで必要としている力が有る!走れ!ああ、残業と言うことで走り続ける許可が欲しいか?ならくれてやる!最低5時間は走れ!そんぐらい走れて当然だ!」


 ランの目は完全に『体育会系』そのものだった。


 狂気を帯びたランの言葉を聞いた誠は助けを求めようと、誠は背後にやってきた、『特殊な部隊』の隊員達に視線を走らせた。


 しかし、ランが出てきたところで『馬鹿歌』を止めて普通のアニソンを歌うことにしていたアメリアを始め、全隊員が誠の投げかけるSOSの視線からわざとらしく目を逸らした。


 群像の中で、誠はいつも独りではないが、瞬間的には孤立する。


「頑張ってね!誠ちゃん」


 過激な性表現が問題になり打ち切りになったことで話題になった学園ラブコメアニメのエンディングを歌い終えたアメリアは余裕の表情で自分に火の粉が回ってこないように警戒している調子で誠にそう言った。


 アメリアの声は甘く、だが救いではない。彼女はいたずら心で世界を彩る魔女のようだ。誠はその言葉をお守りのように受け止める。


 他の明らかにランの標的にならないことを理由に楽をしている先輩隊員達は完全に自分は楽をしておいて誠だけを『鍛える』と言うことで意見が一致しているようだった。


「そうだ、神前。走れ!飽きたら『うさぎ跳び』。それが飽きたら『千本ノック』。タイヤを引いて足腰を鍛えるのもアリだ!午後10時以降は深夜割増が残業手当に乗るぞ!その後は筋トレだな!腹筋1千回!ベンチプレスも施設は島田に用意させた!いくらでも鍛えられる!死ぬまで鍛えろ!」


 ランの提案はどんどんエスカレートする。誠は心の中で冷や汗をかきつつも、母のジャージの袖口をぎゅっと握る。母の手が、その緩やかな力を彼にくれる。


「そんなことしたら僕の身体でも壊れちゃいますよ!これってパワハラですよね?逃げて良いですか?逃げないと僕死んじゃいますよ!」


 高校時代にも腰に悪いと禁止されていた『うさぎ跳び』を勧めてくるランが『精神至上主義』の高校野球の監督の『孫娘』に見えてきて誠はたじろいだ。


「あのなー神前。これがいわゆる『社会人になる』と言うことなんだ。普通のサラリーマンは夜の終電で帰り、始電で出勤して休日も同じペースで365日働いてるってアタシは聞いてるぞ?それが世の中なんだ!多少勉強ができるだけの『モヤシ』には書類仕事しかねーんだ。真の戦いの世界は『根性』、『気配り』、そして『体力』。この3つがあればいーんだ!他の事はアタシ等幹部が考える!オメーはただ走ることだけに集中しろ!他の事は何も考えるな!」


 そう言ってランはグッと右手を握りしめて誠に差し伸べた。


 ランの固い握りは、挑発と救いの両方を含む。誠はその手を見つめ、小さく息を呑む。抱えるべきものを抱きながら、彼はまた一歩を踏み出す。


「結局……僕って……逃げたい……正直、逃げたい……」


 誠はランに聞こえないように小声でそうつぶやいた。


 しかしつぶやきは夏の蒸し暑い熱気を孕んだ風にさらわれ、遠くの犬の鳴き声にかき消される。逃げたい気持ちは誰にだってある。だがそれをどこに置くかが、その人の人生を決める。


「いーじゃねーか!オメーにはたぐいまれなる『体力』と言う宝石が眠っている!それを磨け!鍛えろ!その先に道は開ける!普通の人間には眠っていない超能力だ!まさにスーパーヒーローになった気分だろ?走れ!ただひたすら走れ!過労死?そんなもん自分がもやしだから死んだだけだろ?そんなのアタシは認めねー!24時間365日働き続けてこそ真の人間!それが出来ねー人間は今すぐ死ね!」


 そういう人間ばかりだからあっちこっちの戦争が終わらないんじゃないか……とは、さすがに口には出さなかった。トレードマークの短い竹刀を手にしてのランの狂気の励ましに誠はただあきれ果てた後、仕方なくランニングを再開した。


 ランの言うところの『超能力』は、誠にとっては日常の一部に過ぎない。足るを知る者は、自らの持ち味を誇ることを躊躇しない。誠は小さく笑いながら、しかし真剣にペースを守る。


「とんでもないところに来ちゃったみたいだな……逃げたいよ……母さん……本当に殺されるよ……『魔法少女』に……」


 誠はそうつぶやくとランの説得をあきらめて再び走り始めた。


 夕闇が迫るグラウンドで、誠の影が長く伸びる。母のジャージは擦り切れているが、その布地は彼を励まし続ける。ここで走ることが、いつか何かにつながるのか……それはわからない。だが今、彼は確かな一歩を刻み続けている。

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