第11話 五円玉と舎弟契約
「お前さんは真面目そうだから断るかと思えば素直に飲むとはねえ……それに飲みっぷりも良い。これまでのいけ好かない連中とは違うな。それに俺も自慢のバイクを褒められて悪い気はしねえよ。オメエを気に入ったよ俺は」
島田の声は太く、汗ばんだ素手で握られたアルミ缶が『キュッ』と音を立てる。捻られた缶はみるみる潰れていき、金属の薄い皺が光を反射した。誠はその光景を、どこか現実味を失ったように眺める。自分があの変な髪のねーちゃん達の中でも一番デカいおばさんに気に入られたのに続きまた『変なの』に気に入られたらしい……そんな事実を、どう受け止めていいのか分からなかった。
だが暑さと油気に満ちたこの空間は、逃げ場を与えない。クーラーボックスの冷気と、バイクの鉄の匂い、男たちの笑い声、工具箱が金属音を立てるたびに誠の脳は情報を整理する。『この人は何者か』『言葉の裏にある意図は何か』などと考える余裕は今のこの奇妙な『特殊な部隊』の個性的なメンバーたちに当てられて思考停止している誠には無かった。考えるほどに喉が渇き、誠は残りのビールを一気に飲み干した。液体が胃に落ちると、わずかに肩の力が抜けるような気がした。
島田は缶を握りつぶすと、笑いながら別の缶を取り出す。そして再びクーラーボックスに手をツッコんで新しい缶を取り出す。
「今度俺が飲むのは缶チューハイ。好みで言えばレモン系が良いね。これとビールとちゃんぽんで飲む。ああ、いいねえ……まさに生きてるって感じがしてくるよ……そう思わねえか?なあ?」
いかにも仕事中の飲酒に慣れたように見えるその仕草は、威勢の良さと場馴れした余裕を同時に示す。誠は思う。ここが『整備班』という共同体であり、島田はその中心にどっしり座る島田の姿からして暴走族で言う『ヘッド』のような人物だと。いや、この慣れた島田の態度からして実際の島田は暴走族の『ヘッド』をしていたのだろう。
実際、誠がいた東和国防軍でもエリート集団として知られる東和宇宙軍にはそういうタイプはいなかったが、たまに交流イベントで出会った東和陸軍や東和海軍の兵士達は、多くが暴走族崩れで『今は軍人やってます』という感じの人物だったことを思い出した。
「缶ビール一本ぐらいなら僕も見逃しますけど……一応、今は勤務中ですよね?そんなに飲んで大丈夫なんですか?」
誠の問いに、島田は肩をすくめる。そこには心配するなと言うような誠に対する島田なりの思いやりのようなものが見えた。
「そんな事新米のお前が気にすることじゃねえな、それは。オメエの飲酒が問題になったら先輩の俺に勧められたと言えば司法局の連中は、まただと言ってみて見ぬふり。世の中そんなもんだって」
その開き直った理屈は、妙に説得力がある。島田は職場の温度を知り尽くしている。上が黙認すること、黙認の中で育つ連帯、そうした『空気』を利用して生きる術を心得ている。
誠はふと、自分が今いるこの場所が、外から想像するほど荒れてはいないのだと気づく。荒れているけれども、整備班なりの秩序がある。工具の置き場所、缶の並べ方、バイクの磨き方……細部に職人のこだわりが息づいているのだ。
ここはまさに技術屋の技術屋による技術屋の為の王国なのだと。奥では、若い整備兵が黙々とエンジンのボルトを締め、別の男が油まみれの手で図面をめくっている。誰も島田に命令されなくても、勝手にそれぞれの持ち場で動いていた。
島田はクーラーボックスから瓶を取り出すと、誠に向かって投げた。受け取った瓶は白っぽい液体が透けて、ラベルには見慣れない文字。誠は一歩後ずさりして迷う。
「オメエも飲めよ……その面。飲み足りねえんだろ?遠慮すんな」
純粋に好意でそう言って来る島田に誠は困ったような笑みを浮かべることしかできなかった。
「嫌ですよ……僕はそれほど酒は強く無いんで……」
誠のそんな一瞬の躊躇を見逃さずに、島田が笑う。
「おい、俺の好意を無にする気か?俺は先輩。オメエは後輩。先輩の言うことが絶対。これがうちのルール。文句あんのか?」
言い方は乱暴だが、その口振りには『面倒を見る』というヤンキーらしい一度言った言葉には責任を持つという覚悟が滲んでいる。誠は抵抗する気力が薄れ、ラベルの英字をぼんやり眺めながら栓を抜いた。
「これなんですか?こんな酒初めて見ますけど……本当に酒ですよね?変なものが入ってたりしないですよね?」
誠はとりあえずラベルに書いてあるアルファベットが何語か考えながら見つめていた。
コップを持っていないので口を付け、柑橘香のする強いアルコールが舌に跳ねた。刺激が鋭く、喉を通るたびに誠の頬が熱くなる。だが、それと同時に胸の中にどこか安堵の火種が灯るのを感じる。
「お前さんの上司の西園寺かなめ中尉殿が大好きなラムのカクテルだ。モヒートだと。それをあのメカ姉ちゃんにそれを見せると、ラムという物は……と一々酒トークが始まって俺のチョイスが悪いだのなんだのうんちくがうるせえんだ。だから俺がそいつを渡したなんて言うなよ。自分の好きなものは徹底的にこだわるからな。あのメカ姉ちゃんの自分勝手にはうちの整備班の野郎共も迷惑ばっかかけられてるんだ。それに少しでも気に入らねえと脇に下げた銃を取り出して『射殺する!』とか怒鳴りつけて来るんだぜ?やってられるかよ。銃を振り回したり酒やたばこのうんちくを勉強することに頭を使うんならもっと機体を丁寧に扱ってくれってんだ」
島田の言葉は軽口に聞こえるが、細部は実に節がある。彼は仲間の性癖も、機体の癖も、整備班の『癖』も知り尽くしている。誠は瓶の口から鼻に抜ける香りを吸い込み、思わず顔をしかめたが、そのざらついた刺激が不思議と覚醒を促す。これはただの酒ではない……ここで生きていくための『契約書』のように感じられた。
「飲めよ。うまいから。これまで来た俺を不愉快にしただけだった馬鹿パイロットどもとは違うんだろ?飲めよ」
島田の言葉に勧められて、誠は一口飲んでみた。柑橘類の味のさわやかさと強いアルコールが誠の口の中に広がった。
「これ、一口飲みましたけど、結構アルコール度高いでしょ?」
強いアルコール臭が口の中に広がる。誠は困った顔を作ってチューハイを飲む島田に顔を向ける。
「高いんじゃない?俺は飲んだことねえからわかんねえや。あのメカ姉ちゃんは飲みに行くとそれの原酒を割らずに飲んでるぞ……しかも行くたびに一本や二本平気な顔をして空けるんだ。いくらサイボーグの肝臓の機能が自慢だからってやりすぎだろうが」
島田は無責任にそう言うと、地面に飲みかけのチューハイを置いた。
「話は仕事の話になるが……おい、神前……オメエは機械は好きか……」
さっきまでただの飲んだくれにしか見えなかった男が、急に『現場の教師』の顔になる。その落差に、少しだけ背筋が伸びた。真面目な顔をした島田は自慢のバイクに手を伸ばし、そのピカピカのタンクを撫でる。金属の冷たさ、磨き上げた塗装の照り返し、細かい傷に込められた手入れの歴史。誠は幼い頃に触れた木の剣の感触とそれに手を添える誠に剣を教えた母の手の温度を思い出した。木刀と工具。モノは違えど同じ人が道具として作り出したもの。木刀は勝負に勝つためのもの、工具は何かを作るためのもの。その違いは有れど同じ道具としてしか今の誠には思えない。だがここにいる人間たちは、理屈を手に汗と油で還元していた。どちらも同じ『ものづくり』の両面なのだと、誠は漠然と理解する。
「嫌いじゃないですよ。メカニカルなものが好きなんで……趣味は戦車のプラモづくりですから。あの武骨な感じが何とも癖になるんですよ」
とりあえず話題を合わせようと誠はそう言った。
事実ではあるので、その言葉に疚しさは感じなかった。
「そうか!好きか!しかも戦車好きか?メカも派手な華奢で機動性重視の戦闘機じゃなくて戦車か!まさにうち向きだな!やっぱ良いわ、オメエ。ますます気に入った。うちのあの三人の女のパイロットでメカを理解しようとしているのは、あの偉大なるクバルカの姐御だけだからな。他の二人は駄目駄目だ。『兵器は動いてなんぼ』って頭しかねえから一回乗って降りたら仕事はお終いだと勘違いしてる。シュツルム・パンツァーは使い捨ての機械じゃねえんだよ!もし何度も出撃が必要な作戦だったらどうすんだよ?次の出撃の時までに俺達に前回と同じスペックを出すように調整しろって?そんなことできる訳ねえじゃねえか!どんな兵器にも消耗部品ってもんが有るんだ!その消耗を最小限に抑えて最高の戦果を挙げて何度とない出撃でも同じ性能を引き出す戦いが出来てこそのエースだろ?クバルカの姐御はそこまで考えて操縦してる……まあ、あの二人にそんなこと期待するだけ無駄かもしれねえがな。その点オメエは違うみてえだな。機械が好きなら機械が消耗部品の塊だってことくらい理解できるだろ?」
急に機械の話になると島田は能弁になった。
「そうですね。飛行戦車は可動部品が少ないですからそうでも無いですけど、人型兵器のシュツルム・パンツァーは腕や足があるわけですから当然関節もあるわけで、そこが動けば当然その度に可動部分に負荷がかかって消耗するのは当たり前ですからね。当然その部分でのトラブルが発生する可能性がある。シュツルム・パンツァーが戦場に出現してからも地球圏の国のほとんどや遼州圏のゲルパルトではそのシュツルム・パンツァーの可動部品が多いことによる信頼性の低さから最低限の整備で確実に動く飛行戦車を優先して採用しているか、そもそもシュツルム・パンツァーの開発研究自体を行っていませんし。そんなことパイロットなら知ってて当然の話だと思うんですけど……」
誠は操縦は下手だが東和共和国では理系の単科大学では私学最高学府の呼び声の高い東都理科大理工学部を出たことくらいが自慢だったので座学でのシュツルム・パンツァーの兵器としての特性を学ぶ授業を受けるのは乗り物酔いでヘロヘロになる操縦訓練に比べてはるかに好きだった。
「オメエ、さすが理科大出てるだけあってシュツルム・パンツァーの短所がよく見えてるじゃねえか。良いねえ、オメエさん機械や兵器の何たるかを分かってるよ。そしてその機械が好きと来てる。好きか嫌いか。これって人生で結構大事なことなんだぜ……好きか……そうか、好きなんだな」
そう言って島田は満足げにうなずき、自分のバイクのシートをなでる。
「大学もそれで選んだんで。機械と……そして化学にも興味があったんでそちらの方を同時に学べる学科で僕の学力で届くのが理科大だったんで。僕は文系科目がダメダメで……確かにそう言う学科は東大や東工大にも有るんですけど国立大学は国語とか社会とか勉強しなきゃいけないんで僕には無理です」
確かにそれも事実だった。何かわからないが、何かを作りたい。その為に必要な機械、化学のことを学べる学科に入りたい。その為に東都理科大だとそう言う学科があるので、それなりに勉強して合格した。文系知識ゼロの誠には端から共通一次試験で国語や誠の選択した日本史のある国立大学など夢のまた夢だった。
それもまた事実だった。
「そうか、オメエは理科大だったな……あそこは『自然科学のすべてが学べる総合科学大学』というのがコンセプトでいろいろ学科がそろってるからな。俺も入試の時にはあこがれて願書を買ったがあの偏差値じゃ俺にはとても手が出ねえ。そんな俺の入った電大は名前の通り電気系の学科は色々あるが、機械系となると……少ないんだ学科が。しかも俺が受けた授業は『とりあえず機械系の授業もやってますよ』くらいのやる気のなさっぷり。やっぱり技術と言ったら機械だろ!電気だってそれを通す銅線を通すのに工具を使うだろ?工具だって立派な機械だ。メカこそ理系の華なんだよ!そんな授業なんて出るのもばかばかしくて大学はほとんど行かずに喧嘩とナンパしかしてなかった」
『この人は、僕の知っている高校時代や大学時代に出会ったどの『優等生』とも種類が違う……『破天荒なヤンキー』って実在するんだ』
誠はそんなことを考えつつ島田を見つめた。だが、目の前のバイクの仕上げだけは、どの教授の理路整然とした授業内容よりも説得力があった。
「ああ、その目は俺の卒業は偽装だって疑ってる顔だな?東和の大学なんてどこでも悪知恵を使えばいくらでも卒業できるの!卒業できたのは試験は替え玉を立てたからな。レポートは遊び仲間の別の理系の大学の奴に書かせて提出した。それと卒業研究の実験研究では教授と飲み会で仲良くなってその時教授が漏らした弱みを使ってゆすったら単位をくれたから……オメエもその手を使えば全成績A判定の成績証明書が手に入るぞ」
上機嫌の島田は得意げに自分では常識と思っているらしいが誠には信じられない大学時代を得意げに語った。瓶の『モヒート』の味は癖になるものだった。それ以上に島田の大学生活の異常性に誠はあっけに取られてまじまじと島田を見つめた。
その様子が気に食わなかったようで島田は顎をしゃくるようにして誠を見上げた。島田の目が急に殺気を帯びたものに変わった。
「今、少し俺のこと馬鹿にしてる?俺の方が偏差値高いとか思ってる?ろくでもない大学生なんか大卒を名乗る資格はねえとか思ってる?東都理科大……一流大学だもんな……その点俺の電大。一応、『中堅理系四大学』とか持ち上げられてるけど、要するに世の中は俺達電大生を見下してるんだろ。一流メーカーでは学歴フィルターで落とされる大学だからな、うちは。……確かに理科大出てればメーカーの技術部門なら履歴書で落とされることは絶対にねえし」
島田が真顔で問い詰める。誠は咄嗟に首を振る。誠の中にある人見知り体質がこういう場面で誤解されることを恐れていた。だが島田はそんな理屈を楽しむ風情もある。彼はつなぎの後ろのポケットから小銭入れを取り出し、五円玉をぴかっと光らせて誠の掌に置いた。
「違います!そんな目してないです!」
瓶のモヒートを飲み終わった誠は、そう言いながら空いた缶を地面に置いた。
「じゃあ……」
そう言いながら、島田は良いことを思いついたという顔で誠を見つめて来る。
「なんです?」
その島田の表情に嫌な予感がする誠を無視して島田はは立ち上がってそのままバイクに近づいていく。
「その様子だと……何か言いたいことがあるんじゃないですか?」
「ちょっと待ってろ、タバコだ」
そう言って島田はバイクの前輪の前に置いてあった缶を手に取る。
「タバコじゃないんですか?」
その缶を眺めて手に取って見回している島田に誠は声を掛ける。
「缶ピー。缶に入ってるタバコ。ほら」
そう言って島田は白いものを取り出した。タバコが身近なものではない誠にもその白く細長い物体はタバコにしか見えなかった。
島田はそれを口にくわえると、別のポケットから取り出したジッポーでタバコに火をつけた。そして満足そうに一服するとことに笑顔で歩み寄ってきた。
ニコニコ笑いながら近づいてくる島田を見て、誠は直感で悪いことが起きるようなそんな雰囲気を感じた。
「ここに五円玉あるじゃん」
そう言って島田は誠に見えるように五円玉を出して誠の前に取り出した。
「ええ、確かに五円玉ですね」
自然と誠は手を伸ばす。島田は当然のようにそれを誠の手の中央に置いた。
「五円やる。それでスパゲティー・ナポリタンを作れ。時間は五秒やる。それで作って俺に食わせろ」
突然、島田は意味不明な注文をがなり立てた。島田にとってはそれは当たり前の初対面の目下の人間に対するヤンキー式の『テスト』をぶつけてきた。
誠は島田の発した言葉の意味が理解できずにただこう言うしかなかった。
「そんなの無理ですよー!どうやったらそんなことできるんですか!」
明らかに困り果てている誠に島田はタバコの煙を吹きかけた。
「やり方?そんなもん自分で考えろよ。理科大出てるんだろ?やってもみねえのに、あきらめるな!やりゃあできるんだよ!なんでも……じゃあ数えるぞ。五秒で作れ。1,2、3……」
島田は右手を出して指を折って数えていく。
「できないですよ!どこの大学を出ていようが関係ないです!そんなこと!それとその笑顔!できないと島田先輩は僕に何をするんですか!」
誠は半泣きで叫ぶ。
島田はその表情に満足したように話を続けた。
「そんなもん、決まってるだろ?俺がタバコを吸っててこう言ったら……そして、その願いがかなえられない時は当然……根性焼き」
そう言って島田は咥えていたタバコを手に取る。
「根性焼き……聞いたことはありますが……何をどうするか……」
誠はどうせ島田のことだから、ろくでもないことをするとは想像しているが、確認のためにそう尋ねた。
「さっきの五円玉を渡したのと同じ要領でこのタバコを手のひらに押し付ける。それが根性焼き」
島田はそう言うと悪党の笑顔を浮かべながら誠を見つめた。
「それは単なるいじめですよ!ここはそんな暴力が許される職場なんですか!そんなこと聞いてないですよ!」
もう目の前の不良そのものの島田にはこうしてジェスチャーで伝えなければ理解できない。
その思いから誠は大げさに両腕を振り回しながら叫んだ。
「俺の好意がいじめ?そう見えてるようじゃあのランの姐御のしごきには耐えられそうにねえな。それにこれは嘘。ビビった?そんなのやるわけないじゃん。気に入ったって言ってんだろ?俺は気に入った人間は多少は殴るけど根性焼きはしねえの。これまで来たものの言い方を知らねえパイロットには全員やったけど」
そう言ってニヤリと笑うと、島田は誠に背を向けた。
「島田先輩!酷いですよ!これじゃあいじめです!いたずらにしても度が過ぎます!それとこれまでの人には全員根性焼きをやったんですか?よく問題になりませんでしたね!」
誠は本気で怒りながら、歩いてバイクに向かう島田の背中に向けて抗議した。
「なあに、お前を気に入ったのは本当。これはちょっとしたいたずら。ただ、俺の機嫌を損ねたらその悪戯が本当になる。それだけの話だ。ただ、俺のいたずらはどうにも度が過ぎるって偉大なるクバルカの姐御からいわれるよ。まあそうなんだろうな」
島田は再び屈託のない笑みで誠を見つめた。
誠は心の中で、ここに身を置く以上、覚悟を決める必要があると感じた。島田の言葉は過剰に荒く、時に脅しめいた冗談を含むが、その根底には『面倒を見る』という揺るがぬ誓いがあった。
セミの鳴き声に交じってサイレンの音が響いた。
「昼か……弁当はあるか?出入り口で大野に会ったろ?アイツも野球部の急増キャッチャーだからって気が付かねえ奴だなあて……今度うちのエースになるかも知れねえ奴が来たって言うのに俺に案内してくるくらいのアイディアも湧かねえ。だからいつまでたってもカウラさんのシンカーが捕れねえんだ。キャッチングの基礎が出来てるアメリアさんは捕れるぞ……まああの人は『四番・サード』でしか試合に出ないって言い張ってるから仕方のねえ話なんだけどな」
立ち上がった島田はそう言ってにやりと笑う。
「持ってきてないですけど……コンビニとかは?あと、野球部とかあるんですか?この部隊には」
誠の問いに島田はあきれ果てたという表情をした。
「そんなもん工場の外まで行かなきゃねえよ。まあ、今日は仕出しの弁当が余るはずだから。そいつを食ってけ。それと野球部はある。俺はそこのエースで一番打者だ。先頭打者ホームランの記録はうちのリーグでは俺が持ってんだ。まあ、オメエはパワーが命の三番か五番打者向きだから競うのも無駄か」
島田はそう言うと本部の建物に向けて歩き始めた。
「どうもすみません」
「なに謝ってんだよ。オメエはこれまで来た人を見た目で判断する軽薄な馬鹿とは違うんだ。何しろ俺の舎弟になるんだからな!」
そう言って誠の肩を叩く島田を見て、誠は少し嫌な予感がした。
「あのー……僕の扱いは舎弟なんですか?」
彼が『舎弟』と呼んだ瞬間、誠の身体に小さな震えが走る。舎弟……古臭くて泥臭い言葉だ。
「なんだ、呼び方が気に入らないのか?じゃあ、パシリ、丁稚、下請け。この三つから選ばせてやる。俺って優しいだろ?どれがいい?」
島田はいかにも子供のような笑顔を誠に向けてそう言って来る。
「舎弟、パシリ、丁稚、下請け……どれも嫌ですけど」
誠が弱々しく言うと、島田は豪快に笑い、誠の肩を乱暴に叩いた。
「不満なのか?俺の舎弟になれるのは整備班以外ではオメエが初めてなんだぞ?そんな名誉をあずかれるんだ、感謝しな。なあに、新人なんて社会に出たらみんなやらされるんだよ、パシリをさ。だから、次の新人が来るまではオメエが一番下のパシリ。さっきの西もオメエの先輩だから。ちゃんと顔を立てろよ。それが社会のルールだ。そして俺が決めたルール。俺が決めたルールは舎弟のオメエにとっては絶対なんだ。覚えとけ。代わりにこっちは約束してやるよ。お前が本気で機体と向き合うなら、俺達はこれからどんな無茶な出動があってオメエが機体を他の技術屋だったら見放すくらいにぶっ壊しても直してやる。舎弟には、それぐらいの面倒は見てやるさ」
言葉は乱暴だが、その語尾には頼もしさがある。誠は自分がこれからどんな日々に巻き込まれるか、まだ具体的には分からない。だが島田の太い手が自分の肩に乗るたび、どこか確かな『居場所』が生まれるのを感じた。外の世界は冷淡だが、ここには熱がある。油で汚れたタオルの匂い、工具箱の勝手な並び、焼けた金属の匂い……それらが誠の新しい日常の布地になるのだろう。
真夏、駐車場の白い砂利に反射する熱気は耐えがたいほどのものだったが今の誠には不快には感じられなかった。就活で何十社と断られたときには、一度も感じられなかった種類の『熱』だ。この『熱』は失ってはならないもの……誠にはその確信だけはあった。




