熱
システム開発で無くても雑学は地味に便利だったりする。
「秋熱病だね、果物を食べて寝てるしかないよ」
「…」
姉さんが辛そうにうなづいてる。
というよりかなり辛い。姉さんの感情は普段から動きが少ないから、私が気づかない事も多いけど、今ばかりはどうあっても分かる。
辛い、泣きそう、ある種の諦め。
そんな感覚で埋め尽くされてるのだから、辛いのなんて間違えようも無い。
「姉さん大丈夫?」
「…大丈夫ですよ。とりあえず寝せて下さい」
「…うん」
普段私が話しかけたら、嬉しさや優しい気持ちを浮かべてつき合ってくれる姉さんの反応が素っ気ない。
気持ちも変わらず沈んだままで、却って私の方も悲しくなってしまう。
いや…いまは駄目。絶対にそう思っちゃ駄目だ。
私の気持ちを感じ取ってもっと辛くなるに決まってる。
「あ、あー…ごお嬢さんはこの部屋にいない方がいい」
「エィリもこっちに来なさい。ニス、イィリの事は任せた」
「はい…イィリエス様の事は承りました」
ニスさんも姉さんをかなり心配そうにしてる。
「別室で話したい事があります、すみませんが皆さんついて来てもらえますかね?」
「…ああ、分かった。エィリも来るといい」
来るといい?こんな状態の姉さんを残して?
普段から滅多に顔もあわせないお父様が?
「こんな姉さんを置いて行く程大切な事?」
正直苛立ってるのが自分でも分かる。
こんな言い方が自分の口から出た事には少し驚くけど、それ以上にどんどん思ってる事が出て来てしまう。
「そのイィリの事を聞くんだ、いいから移動を…」
「こんなに辛そうなんだよ?聞かせたく無いから移動するんだよね?」
「…」
「無駄だよ、私でも話の流れで分かるもの。姉さんが気づいてない筈ない」
姉さんが視界の隅で困った様な顔で頷いてるのが見えるし。
「なら尚更エィリはここに居るな。お前まで罹ったらイィリに、クィルにどんな顔すればいい?」
「え…あぁ勿論聞こえてますよ。エィリ、今はここに居ちゃ駄目ですよ…」
「…」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
数刻前、王都アルフィドにあるお父様の屋敷に着いた位からこうなる気配があった様に思う。
「お嬢様?イィリお嬢様?」
「ん…はい」
馬車から降りる時、馬車が止まった事に姉さんは気づかなかった。
その時は夜通し揺られて、私の事まで気遣ったのだから余程疲れてたんだと思った。
姉さんも『だるい』と感じていたし、私も疲れてた。
ニスさんに起こされるのも仕方ないと思ったし、別段それを疑問にも思わなかった。
日が出始めた頃だったし、皆も気にせず早めに屋敷に入ったのは覚えてる。
「…すみません、先に寝せてください」
屋敷に入って、そこの人たち全員との挨拶が終わった後、朝食の用意が始まる前に姉さんはそう宣言した。
「お嬢様、やはり馬車でお疲れに?」
「そんな気がします。私は平気だと思ってたのですが、やっぱり疲れてはいたみたいです」
「…姉さん大丈夫?」
今思えばこの時既に病気だったのかも知れない。
暗くて良く分からなかったけど、姉さんの顔は既に赤かった気がする。
「ええ、大丈夫ですよ。休んでればすぐに回復する筈です。そしたら夜にでも散歩しましょう、エィリ」
「うん」
「でしたら旦那様に伝えてきます。そしたら部屋へ行きましょう」
「うん、ニスさんお願い。私も姉さんと寝たいけど…」
「わかりました。旦那様にお伝えしておきます」
姉さんがだるさを感じてたのは分かってたけど、寝たい、休めば回復すると言った姉さんの言葉から、本当に疲れてたんだと思った。
実際私もかなり疲れてたし、ご飯が出ても食べれる気がしなかった。
一緒に部屋に案内され、荷物だけ置いてベッドに転がった。
見慣れない天井とか、部屋の壁、調度品に黒いカーペットの敷かれた足下とか、慣れない物は沢山あったけど、姉さんも私もそんな物を気にする余裕は無かった。
気づけば姉さんはうつ伏せで寝息を立ててたし、私も何の感想も出てこなかった。
ともかく柔らかいベッドで揺られる事なく寝られるのが嬉しいと思った。
それから大体二刻くらい、私と姉さんは向かい合って寝てた。
その時見た夢はとても酷いものだったと思う。良く覚えてないけど。
目が覚めて最初に見たのは、走り込みをした後みたいに汗を流してうなされる姉さんの姿だった。
「ニスさん!ニスさん!」
私はそれを見て焦ってニスさんを探した。
幸いにしてニスさんは直に見つかり、姉さんの様子を伝えると、直にお医者さんの手配をすませてくれた。
私はその間ずっとうろうろしてた。何ができるのか全く分からないのだから仕方ない。
そして冒頭のやり取りに戻る。
「秋熱病……私は聞いた事無い。ニスさんは何か知ってる?」
「…はい。とても高い熱が出る病気です。私も以前かかった事があって、その時は死にかけました。
ただ、普通は一度しか罹らない病気ですがエィリお嬢様はまだ…」
「うん、分かった。姉さんをお願い」
流石に出て行けとは言いにくいみたいだった。
ただ黙っていても心配になるだけな気がする。
居続ける事はできないが、何もせず心配だけするのもおかしな話だ。
姉さんなら間違いなくこういう時は行動を起こす。なら私は何ができるんだろう?
『不安に思うのは良く知らないからで、遠ざけるだけでは何の解決にもなりません』
言われた気がする位クリアに頭の中で再生できてしまった姉さんの言葉。
勉強を教わりだした時に時折言ってたことだ。
「ニスさん。私、何かできないか調べて来るわ」
「はい、何かいい方法が見つかったら教えてください」
「うん、こういうの何とかしようと思ったのは私だけじゃ無い筈だし」
とりあえず最初はどこからあたってみるべきなんだろう?
『最初に思い浮かぶのは本を探す事、幸いこの屋敷にはいろんな分野の本が置いてありそう』
『誰かに聞く?知っていればこれが一番効率がいい』
『王都なら病院もある筈。そこに行って聞いてみるというのも手かも知れない』
『本を探すところから考えると、とても時間がかかる』
『お父様ならお医者さんから話も行ってる筈だし、聞いてみる価値はあるかもしれない』
『関連しそうな本を誰かに見繕ってもらえば時間が短縮できそう』
『病院のお医者さんなら専門家だし何か知っているかもしれない。でもそれくらいなら姉さんを連れて行った方が早い』
思いつくままに挙げてみたけど、結果は『屋敷の誰かに関連しそうな本を探してもらう』『お父様と話して何か得られないか確認する』『見繕ってもらった本を調べる』が一番間 接的な時間がかからなそう。
病院に行く位なら夜に姉さんを連れて行ってもらった方がいい。
お父様の所へ行けば誰か居るかな?とりあえず移動しよう。
「…姉さん起きたら採点してもらおうかな…」
これが正解かどうかは分からないけど、姉さんならまだ他の案を出すかもしれない。
話す前には整理しないといけないかも?私の考え方は色々な考えがそれぞれ動き回る。だからそのまま伝えても理解されない事も多い。
姉さんは『並列処理』と言ってたけど意味は知らない。
「?どうしたエィリ」
考え事をしながら歩いたら直にお父様の部屋まで着いてた。
クロフィドの家よりもだいぶ小さい気もする。
廊下で会ったのは少し驚いたけど、丁度部屋に戻るところだったみたい。
「姉さんの病気の事でお願いと質問があるの」
「そうか、どっちを先にしたい?」
会った直後は驚いた様子だったけど、すぐに真剣な顔になった。
ちょっと安心する。お父様も姉さんは気にかけてるんだ。
「じゃぁ、お願いから。秋熱病に関わる本を見繕って欲しいかな。誰かに頼める?」
「ああ、勿論だ。聞いてたな?」
お父様が後ろを振り返ると、お父様と同じ位の年齢のおじちゃんが立ってた。
いつの間に居たのか分からない。
「はい。持ってくるのは構いませんが、お嬢様に読めますかな?」
「杞憂だ」
「…はい。お探し致しますので暫しお待ちを」
足音の一つも立てないとか気味が悪いけど、、、
おじちゃんは執事か何かかな?
「それで質問だけど…」
「いや、待てエィリ。それは長くなるか?」
「…多分」
「なら、部屋に入ってしよう。ずっと立ってるのも辛い」
「私は平気」
「私が辛いんだよ。私も歳だからな」
部屋に入って中を見渡してはみたけど、ここがお父様の私室?ここだけでも本が結構置いてある。
これだけあれば医学書の一つもあるかと思ったけど、ほとんどタイトルに年号だけ書かれてる。
記録とかそういった物なのかも知れない。
「でだ、聞きたい事は何だい?」
「秋熱病の原因、直し方か、有効な方法」
「…エィリ、知ってたら私がイィリの所に行くと思うんだが?」
「うん、知ってる。でも私なら抜け道を見つけるかも知れない」
「いや……はぁ…、そうだな。お前たちならそうかも知れない」
お父様があきれた様にため息を吐く。
姉さんと同じ様に見られるには自信は無いけど、今は気にしてもしょうがない。
「…」
「一応、知ってるだけの事は話そう…といっても、本に載ってるものしか無いが…」
『秋熱病』は、とにかく高熱が出る病気らしい。実際、姉さんの額はお風呂で上気せた様に熱く、時折苦しそうに声が漏れる。
危ないのはやっぱり熱で、熱が続くと少しづつ体力を失っていくのが問題だって言ってる。
一番危ないのが初日と二日目、つまり今日と明日。そこを超えると治ってくという話だった。
熱が高すぎると、助かっても失明したり難聴になったりする事もあったらしい。
話の途中、執事が本を持ってきてくれたけど、中はお父様の話とそんなに変わらない。
「わかった。ありがとうお父様」
「…あまりたいした事ができなくてすまんな…安静にするしかないんだ」
この国の学者でこの程度?
「お医者さんは何て?」
「いや、だから安静に…」
「そうじゃなくて姉さんをどう見たって話」
「…」
お父様の暗い表情で何となく分かった。
本にもあったけど子供では助からない事が多いと書いてあった。
それを疑う訳じゃないけど、ただお医者さんもお父様も姉さんを甘く見過ぎ。
魔力の強い生き物は生命力が強いというのが姉さんの見つけた事。
周りの人よりよっぽど魔力の強い私と姉さんがそうそう死ぬなんて事はない。
「そう……なら私はもっと何か探すわ」
「ああ、すまないな」
「お嬢様、イィリお嬢様とは別室をご用意させていただきますので…」
執事のおじちゃんが何か言ってるけど、正直聞く気にならない。
もうここには用はない。これからどうすべきだろう?
「…ふん」
部屋を出て戸を閉じるとため息が出る。
お父様も本も『頭を冷やして寝てろ』だけだ。姉さんが苦しんでるのに『それしかない』の言葉にイラッっと来る。
私はまだ諦めない。
『〜しかない』は諦めて考える事を止めた人の言葉だと姉さんは良く言う。
…あれ?
姉さんが最後にそれを聞いて苛立った時、何か無かった?
その時姉さんはコップの水を冷やさなかった?ただの水で冷やすより良いよね?
姉さんは普段から見つけた物はメモを作って、表に出すのは確証が出来た時だけだ。
であれば、冷却の章術も姉さんのメモに何か記述がある筈。
「…でも即興で何の記述も無い気もする。姉さんならやりかねない…」
章術の作成、合成は基本的に数字と記号の組み合わせで、私はその方法を習ってる。
だから余計に想像したくない状況がありありと浮かんでしまう。
つまり手記には何の記載もなく、私がその計算をして作らなければならないという事。
姉さんの変態じみた計算力ならそれ位の事はやってのけそうで怖い。
自分でも辟易した表情になってる自覚はある。
ニスさんが断念し、お父様が数十分悩む数式を私に解けと言われたら辟易するのは仕方ないと思う。
「……ニスさん、居る?」
部屋の前まで来てニスさんに声をかける。
「エィリお嬢様?」
「ニスさん、姉さんの荷物持ってきてくれる?」
「…はい。…何か分かりました?」
「どうすればいいかは分かった。姉さんの書いたレポートと、道具ならどうにかできるかも知れない」
ニスさんが姉さんのトランクを持って戸を開ける。
翌々見ると結構大きい。さっきの執事のおじさんに持ってもらうんだったと少し後悔…。
言っても仕方ないし、魔力で力を強くして無理矢理持とう。
「ニスさん。姉さんの様子は?」
「ずっと寝てます。時折うなされてて大分辛そうではあるのですが…」
「熱は?」
「結構あります。私のときよりは大分いいのですが、ちょっと心配…」
やっぱりその位なんだ?
きっとお父様も姉さんの年齢と病気の名前で相当脅されたんだと思う。
脅されて心配になる位なら姉さん看てればいいのに…。
考えててもしょうがないかな?まずは私に割り当てられた部屋へ行こう。
今すぐにでも荷物を開けて中を改めたいけど、まずはやる事を確認してからだ。
その間に姉さんが書いたメモに冷却、少なくとも水を冷やせる章術があるかも知れない。紋章のメモが無くてもヒントはある筈。
他に良さそうな物があったら何でも使う。
「姉さんのメモ…」
部屋に入って姉さんのトランクを開けると、幸いに直にメモが見つかった。
几帳面に全部折り畳まれて、種類ごとにまとめてある。
色々気になるものもあるけど、まずはメモ。
「…ゴム…ガス…アルコール消毒…」
姉さんの字で良く分からない単語が多く羅列され、それぞれ生成法や特性が書かれている。
種類も多種多様で、一体姉さんは何がしたいのか読み取れない。
取りあえず分かるのは、この紙の束に凄い価値がありそうだという事位。
でも今はどうでもいい。
「何…?これ…?」
半分位読んだ所に1枚だけ『全く読めない』メモがあった。
難しいかどうかも分からない。見た事も無い丸みのある文字とカクカクした文字の組み合わせ。
暗号?にしては使う文字の種類が多すぎる。
この国の文字は43種類。姉さんの数字と記号を含めても60位しかない。でもここで使われている文字は100を間違いなく超えてる。
姉さんがそうして隠したい物ってなに?
ううん、今は気にしてもしょうがない。
「…?」
数枚の紙をめくっていって見つけたのは『沈痛解熱剤』と書かれたものとその作り方。
『検証中』と書いてあってその下には実験記録が色々書かれてる。
『ナガキ』の樹皮を煎じて作る薬で、服用して二刻(約3時間)位で痛みが押さえられたと書いてある。
「私が聞いてないって事はまだ確証まで取れてない?でもこの記録は痛み止めとしては試した後っぽいし…」
私も腹痛位あるけど、こんなに早く薬が効いた記憶なんて無い。
痛み止めの部分しか試してないのに、『解熱』って言ってる位だから、何か確信があるのかも知れない。
こんな事なら最初から姉さんの荷物を調べておくべきだったかも知れない。
いつもの通り、新発見のものだと思うけど…
とりあえずこの名前(サリシンと書いてある)の付け方は改めて欲しい。意味が分からない。
荷物に入ってた白く小さな紙の包みに入ってるって書いてある。
「これっ!」
トランクの中にはそれと分かる小さな紙の袋が複数ある。
小さく折り畳まれた紙の袋だ。
再度メモに目を向けると、この小さな袋一つ分で1回分の想定らしい。
その隣の『関連項目』に『解熱』の項目があったので読み進めてみる。
「…リンパ節?」
首や脇の下を冷やす方がいいとか書いてある。頭を冷やすのは気持ちがいいだけって…。
水を冷やした章術も見つけた。書いてあるのは計算式だけど…図で書けばいいのに。
うん、姉さんてそういう人だ。諦めて解こう。
一緒に銀の針金も姉さんの荷物に入ってた。
姉さんの荷物を調べるのが最初ならもっと早く解決できたかもしれない。
−−−−−−−−−−−−
「……」
「……ええと…どうでしょう?」
日が開けて早朝。
朝食時に問診に来た医者と弟子はイィリの姿を見るなり固まった。
それもそのはずだ。そこで見たものは元気とは言えないまでも体を起こし、少し赤い程度の顔でニスと一緒に朝食を齧る重病人であるべき少女だったのだ。
秋熱病のピークが発症の初日目から二日目で絶賛期間内の時間帯。普通なら起きて食事を平然と摂るなんて事はできない。
医者もこの年齢では丁度今くらいの時間が山ではないか、もしかしたら死んでいるかもと想像していた位なのだが、蓋を開けてみればご覧の有様である。
それでも来たのだから診察くらいしろとどうにか動かし、診察を終えたのがつい先ほどだ。
「いや…いやいやいや!ありえないだろ!?」
「何がでしょう?」
少女が不思議そうに首を傾げる。
この青年も『秋熱病の患者である』という知識が無ければ、熱で紅潮した驚くほど白い少女のその色彩に驚く所だったかも知れない。
「普通なら今頃意識も朦朧として死ぬかもしれないという状態の筈なんだ!先生、こんな事ってあり得r…!!」
言い終わる前にこの青年の頭に拳骨が落ちる。
患者を前に取り乱すのは医者としてやってはいけない事の一つだ。
当然拳骨を見舞ったこの医師もそこはわきまえている。
「…騒がしくしてすまないねお嬢さん、まだ経験も随分浅いんだ。許してやってくれないかな?」
錯乱している弟子の男はまだ17歳。現実世界で高校生程度では、まだやんちゃする奴は居るにはいる。
この世界では成人扱いではあるが、医師としてはヒヨッコな彼に常識外の状況を理解しろというのは酷かも知れない。
なにせこの医師が『重症化すること』を事前にライオールに覚悟するよう伝えた翌朝がこの有様である。
しかし、この医師の判断は本来正しい。
この病気そのものはそうした危険性の高い病の一つだったのだから、覚悟はしてしかるべきなのだ。
「これが驚くのもある意味仕方無いんだ。
この病気で今のお嬢さんのよう回復するのは早くて三日目の夜、普通なら四日目になる。
一体どんな魔法を使ったのか教えてくれないだろうか?」
子供に言い聞かせる様に…実際子供だが、白髪まじりのヒゲにぎこちない微笑みを浮かべて問いかける。
挙動がぎこちないのは、この少女、見た目こそ少女以外の何者でもない癖に、言動や振る舞いが明らかに大人なのである。
子供特有の落ち着きの無さも無ければ、感情的にもならない。
「検証中の薬を使ったんですよ」
「!?」
まだだるい位の熱はある物の、ハキハキと言葉を紡ぐ娘とその言動が全く理解できず、医師は頭を抱えて考え込んでいる。
弟子も一緒で、ニスが心の中で『師弟で似るのは医術も一緒か』と呟いたのは別の話。
エィリが昨晩見つけて来たイィリの研究資料、『サリシン』がその新薬。
柳に近い植物が持つこの成分は、体内で『サリチル酸』に分解され、高い解熱と沈痛作用を起こす。
このサリチル酸を弱毒化し、より効率的に固めて薬としたのがご存知バフ○リンであり、主成分のアス○リン(登録商標の為伏せております)である。
「賭けにはなってしまいましたけどね…。
そう言えばこの薬、まだお父様に報告していませんでした。
ニスさん、お父様には後で知らせておいて下さい」
「…はい、承りましたお嬢様」
割といつも通りに話しかけるイィリに対して、落ち込むニス。
単純に考えれば熱に対して最高の薬とも思えるサリシンだが、熱が出始めた段階でイィリが使わなかったのにも勿論理由がある。
人間が人間の形をしており、血の色も赤ければ、内蔵の構成も殆ど変わらない。
だが、ここは地球ではなく魔力なんて未知の物もあれば、植生が似ていても若干違うものもある。
柳の特徴を持った植物を柳として成分を抽出したものの、それが未知の植物である以上、サリシンが得られるかどうかは分からない。
イィリは前世で薬学の専門でもなければ、風邪をひいて使った○ファリンに興味が沸き、Wiki○edia で齧った程度でしかないのだから、それが本当にサリシンなのかは全く分からないのだ。
加えて、地球の人間に効く成分がこの世界の人間に効くかどうかは未知数だし、最悪毒にもなり得た可能性だってある。
少しづつ分量を確認し、沈痛作用こそ僅かながらに試したイィリも、実際に解熱作用まで試すのは危険と判断したのだ。
最悪、熱が悪化する事態が無いとも限らない。これがイィリの言った『賭け』の事だ。
その事で使用後、回復気味にあったイィリにお説教を食らったニスは、事の重大さに気づいて猛省中。ニスから聞いたエィリもかなりの沈み具合だが、それはまた別の話だ。
「…いや、ちょっと待ってくれ。今あり得ない事を聞いたんだが…ライオール卿がこの薬を知らない?これはライオール卿の指示ではないのか!?」
「…」
「え?でもそれは誰が!?」
「…ヲイ」
「…」
「(つくづく医師に向かない弟子さんですね…)」
めざとく言葉の内容に突っ込みを入れる青年だが、自分で言った言葉で混乱し始める。
結果医師に視線で威圧をかけられて黙る様に、イィリは苦笑するしかない。
医師は弟子の言葉から、誰かこの場に居ない謎の薬師が存在するのではと疑い始めている。
可能性としては隣のメイドが怪しいが、確定も出来ない。
「…お嬢さん。すまないがその薬を作った者と話をする事は出来ないだろうか?」
医師は至って真面目な顔でイィリにお願いをする。
実際、この医師にとってみればこれはこの世界における医療の常識を覆しかけない代物だ。
痛みを抑える薬もあれば、麻酔だってある。
しかし、解熱作用は未だ発見されておらず、物理的なダメージの回復に比べると病に対する対処はまだまだ未発達なのだ。
「それが出来てどうするのでしょう?」
当然その事実を理解しているイィリが易々とその情報を明かす訳がない。
この薬の臨床例が増え、実用化されれば、凄まじい儲けとなるのは目に見えている。
「トーリィ卿に会ってもらう。トーリィ卿の耳に入ればお嬢さんが臨床…自分を実験台にしなくたってすむ筈だよ」
国の医療の最高幹部に会わせなければならないという言葉を聞いて、イィリは警戒を解く。
薬の生む利益が欲しければ、何らかの手で薬師を囲い込む必要がある。
だが、当の本人は囲い込みをするでもなく、権威者に話を通したいという。
この医師とトーリィ氏がグルであると仮定するには、この医師には地位も無さそうだと考えられる。
「成る程分かりました。でしたら驚かずに聞いて下さい、それを作ったのは私です」
「やはり付き人の女中さ……って、お嬢さん、こんなときに冗談は関心しないな…」
苦笑する医師に、流石にそれはねえよと言わんばかりの顔を浮かべる青年。
医師の方は納得できなくは無いが、青年の方の態度にイィリが僅かにムッとする。
「ニスさん、私の鞄からレポートを持って来てくれますか?」
「はい」
丁寧にレポートとインク、ペンをニスが取り出すと、製法、効果、実験記録が書かれているレポートに『全く同じ筆跡』でこれ見よがしに『同じく約二刻で高熱からややだるい程度の熱まで低下、約半日程度効果が持続。特に副作用の自覚はなし』と書き込んでゆく。
筆跡鑑定なんてするまでもなく、目の前で書かれた文字が事前に書かれていた文字と筆跡が同じである事は誰の目にも明らかだった。
「では、ニスさん。これを直にお父様にお願いします」
「承りました」
それを唖然と眺める師弟に同情の目を向けてニスが退室する。
「して…何か質問は?」
満面の笑みで微笑む少女に大人二人は返す言葉が無かったという。
長編のフラグ投下。




