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第10話 裏路地の記憶

 棚の一列が、彼の視野を捉えた。『現代暗号理論の応用』。背文字が軍用端末の画面と同じ青だった。手が伸びる。本の重みが掌に伝わる。


 ページを開く。数式と記号の洪水。だが「量子暗号」「ステガノグラフィ」「情報保全面での軍事応用」の語句が、太字で散らばっていた。彼の指が「軍事応用」の上で止まった。脈拍が耳朶で速くなる。


 店員の足音が近づいた。桐嶋は本を閉じ、棚に戻そうとした。しかし手は動かない。背中の疼きが、指先を締め付けた。


 彼は本を抱え、レジへ向かった。 名護市の書店を出た桐嶋篤は、コンクリートの歩道を事務所へと戻る。午前九時の日差しがアスファルトを白く照らした。彼の影は足元に短く縮んでいた。

 背中の疼きは引かない。胃のあたりが締め付けられるように重い。書店で買った本がバッグの中で、軍用端末に触れる感覚がある。右手が顎の古傷を擦る。視界の端がちらつく。歩幅を乱さないように意識して、足を前に出す。

 コンビニの自動ドアが開いた。店内の明るさが一瞬、目を刺す。弁当棚の前で立ち止まり、右手が鮭弁当を掴んだ。左手で財布を開け、千円札を出す。レジの店員は無言で釣銭を渡した。桐嶋は頷き、袋を受け取る。

 再び歩道に出る。黒いセダンがゆっくりと路地の向こうを横切った。彼の視線はそちらを追わず、ただ足元のタイルの継ぎ目を数える。心臓が不規則に打つ。時間の流れが鈍って感じられた。

 袋が手に食い込む。51時間。娘の笑顔が脳裏を掠めた。彼は背筋を伸ばし、歩みを速めた。名護の下町にある書店の裏手、桐嶋は壁にもたれ、目を閉じていた。肺が乾いた風を切り裂く。拳がコンクリートに食い込む感覚だけが、今の自分を繋ぎ止めていた。


 店内で見つけた十年前の演習記録。非公式コンテナの搬入時刻と、被害者のメモ帳に記された数字。二つが綺麗に噛み合った時、鼓動が一瞬、止まった。視界の端が白く滲む。皮膚が蟻走感に包まれる。


 彼は懐から銀縁の写真立てを取り出した。校庭で笑う美咲の顔。その笑顔の向こうに、網の影が差していた。


 軍用端末の起動音が、静寂を破る。画面の青白い光が、決断を迫る。押せば、闇へ踏み込む。押さなければ、娘を守れるかもしれない。


 指が震える。退役兵の嗅覚が、探偵の良心が、叫ぶ。しかし父親の臓腑が、鋭い痛みをもって引き止める。96時間の秒針が、頭蓋の内側で鳴り続ける。


 彼は深く息を吸い、端末のキーを押した。アクセスコードが送信される緑のランプが点滅する。体が全てを覚えていた。戦場へ戻る前の、あの重い静寂を。


 桐嶋は壁から体を離し、歩き出した。背中の感覚は変わっていた。もはや監視ではない。自らが刃となり、網を切り裂くという確信が、鉛の体を前に押し出していた。執務机の上に、コンビニの弁当が開けられていた。桐嶋篤は立ちながら、箸で冷めた米を口に運んだ。窓の外、辺野古の海が鈍い光を反射している。


 彼は咀嚼せず、飲み込んだ。喉が締め付けられる。胃袋に固形物が落ちる重みが、全身の疲労を強調する。肩甲骨の間の疼きが、食事の熱で鈍く燃え上がった。


 目を閉じる。まぶたの裏に、校庭で笑う美咲の顔が浮かぶ。その笑顔の輪郭が、次第に網目の影で覆われていく。


「……間に合うか」


 声は机の上に零れた。彼は弁当の蓋を閉じ、半分以上残したままゴミ箱へ捨てた。軍用端末の画面に目をやる。アクセスランプは点滅を続けていた。


 指が顎の古傷を擦る。十年前のコンテナの影と、今この部屋に漂う緊張が、同じ重さで脊髄にのしかかる。96時間が、皮膚の下で秒針のように刻まれる。


 桐嶋は立ち上がり、拳を握りしめた。掌の汗が冷たい。体は重いが、目の焦点は一点に定まっていた。休息は終わりだ。次の行動へ、体が既に動き出していた。事務所の執務机には、別件の調査資料が山積みになっていた。桐嶋篤は古いファイルを整理しながら、一枚一枚めくっていく。埃の粒子が窓から差す午前の光の中で舞った。


 彼の指が、一冊のバインダーからはみ出した図面の端に触れた。無造作に挟まれた、青焼きの技術図面だった。それを引き抜き、広げる。線と記号の群れが視界に飛び込む。無線通信機の回路図だ。そして、その右下に印字された型式番号─AN/PRC-152─を見た瞬間、彼の呼吸が一瞬止まった。


「……これは」


 軍用だ。それも、最新世代の統合無線機。この図面の精度は、民間の回路図とは明らかに違う。細部まで、実際の配線と寸分違わない。彼はかつて、海自特殊部隊でこの機体の操作訓練を受けた。


 なぜ、このファイルに。依頼は地元の会社による従業員の素行調査だった。資料の中に、これが混じる理由がなかった。彼は図面を裏返す。白紙だ。誰かが、意図的に挟んだのか。それとも、単なる間違いか。


 桐嶋はファイルの表紙を確認した。依頼主の会社名。日付は一年前。その頃、辺野古では何が起きていたか。新しい協定が発効し、非公式なネットワークが形成され始めた時期と重なる。


 胸の奥で、冷たい塊が転がる。この図面は、偶然ではない。何かの繋がりを示す「痕跡」だ。網の糸は、思った以上に深く、広がっていた。彼は図面を静かに机に置き、軍用端末の電源を入れた。指先がキーを叩く。検索を始める。時間が、また一つ歯車を噛み合わせた。 午前十一時、桐嶋探偵事務所の裏口は静かに閉じられた。桐嶋篤はバッグを肩にかけ、舗装されていない細い路地へ足を踏み入れた。周囲は古い住宅と空き地が混在する。潮の香りが、コンクリートの隙間から漂ってくる。


 彼の足取りは速く、しかし音を立てない。右耳だけに小型のイヤホンを装着している。聞こえるのは自身の呼吸と、遠くの波の音だけだ。バッグの中には軍用端末と拳銃の重みがあった。


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