卒業式
「……あのさ」
リーゼの部屋を去る直前、そんな言葉と共にジークヴァルトがポケットの中から何かを取り出した。
何かと思って視線を落せば、そこにはシルクのような質感の黒いリボンがある。
「これ、貰って欲しいんだけど」
「――え? いや、なんで突然?」
目をぱちくりとさせながら問えば、ジークヴァルトの視線が何故かリーゼの右手首へと注がれる。しかしそこには何もない。いったいなぜ、とリーゼが首を傾げていると、
「……前にあのいけ好かない生徒会長から貰ってただろ、リボン」
ジークヴァルトが不服そうな声で言った。それでようやく思い至る。
「もしかして、アイスブルーのリボンタイのこと?」
その言葉にジークヴァルトは頷き返した。そしてリーゼの右手を取ると、問答無用で黒いリボンを巻き付けていく。まるであの朝のフェリクスのように。
「アイツだけがお前に何か贈ってるのは癪に触るんだよ」
ポツリと零した声には明確な嫉妬の色が見えた。本当に感情を隠す気がなくなったジークヴァルトの挙動はいちいち心臓に悪い。ドギマギしながらもリーゼは疑問を口にする。
「あの、なんで贈り主がフェリクス先輩だって知ってるの?」
「最初は気づかなかったけど、まぁ、なんというか……勘みたいなもんだ」
珍しく歯切れの悪い回答をするジークヴァルトだが、丁寧にリボンを巻き終えると視線をリーゼの瞳へ戻した。黒曜石のような美しい瞳で真っ直ぐに射抜かれ、一段と心臓が跳ねる。
「一応、守護の魔法も掛かってる。出来るだけ持ち歩いてくれると嬉しい」
その発言でリーゼは唖然とした。つまりこれは魔道具の一種ということになる。物に魔法を付与することで作られる魔道具は非常に高価であり、平民には到底手が届くようなものではない。
「ちなみに俺が作ったやつだから、値段とか気にして受け取らないとかは却下な」
「え……えええっ!? こ、これっ、ジークが作ったの!?!?」
今度は思わず悲鳴のような叫び声をあげてしまった。物に魔法を付与するには第七の属性――無属性の適性が求められる。だが無属性を持つ魔法士は国に百人もいないほど非常に珍しいものなのだ。
光属性や闇属性の適性も珍しい部類に入るが、無属性はその比ではない。
「つまりジークは……七つの属性すべてに適性があるってこと!?」
「そういうこと。流石に無属性持ちってのは師匠とか一部の人間しか知らないけどな」
「……そんな重要なこと、私にバラしちゃって良かったの?」
「だってそうでもしないとお前、リボン受け取ってくれなさそうだから」
図星である。いや、むしろより一層受け取りづらい気持ちもあるのだが。
リーゼは改めて手首に巻かれた黒いリボンを見つめる。滑らかで艶やかな生地が指に気持ちいい。リボンの幅自体は細いため、髪や小物に付けても可愛らしいだろうなと思った。
断ることは簡単だ。だが自分のために作ってくれたと聞かされれば無下にも出来ない。
「……ありがとう、大切に使わせて貰います」
結局、リーゼはジークヴァルトの好意を素直に受け取ることに決めた。
するとプレゼントされたリーゼよりもジークヴァルトの方がよほど嬉しそうに笑うので、リーゼはむず痒い気持ちにならざるを得なかった。
――翌週。
晴天に恵まれたその日、アルテンベルク王立魔法学院は卒業式を迎えた。
全校生徒が集められた大講堂では学院長がやや緊張した面持ちで卒業生への祝辞を述べている。それも当然だろう。何故なら今この場には、本来ならば居るはずもない大物――王家に連なる人間が列席しているのだから。
リーゼは壇上に設けられた来賓席の最奥へと目を向ける。
そこには眩いほどの銀髪に青い瞳をした美しい女性の姿があった。まるで絵画から抜け出してきたような、幻想的で儚げなその女性は薄い笑みを浮かべながら優雅に扇で口もとを隠している。
彼女の名はエデルトルート。
以前にフェリクスが白百合と称していた通り、清楚で可憐な印象を抱かせる我が国の第三王女殿下である。
高貴な身分である彼女がなぜ学院の卒業式に居るのかと言えば、それは当然ながら婚約者の晴れ舞台を見に来たからに他ならない。その証拠に彼女の視線は先ほどから婚約者へと注がれている。
対するフェリクスは王女の視線を受けても特に緊張した様子など見せず、実に堂々たる態度で舞台上へと立った。卒業生代表としての答辞を読み上げるその姿に多くの女子生徒が釘付けとなっている。
そんな中、リーゼは壇上のフェリクスを仰ぎながらこの一年間のことを思い返していた。
そして気づく。娼館勤務がバレたその日の朝も、こんな風にフェリクスを見上げていたことに。
あの日はまさか二回生の一年間がここまで波乱に満ちたものになるとは思ってもみなかった。ただ、フェリクスのことを他の女子生徒同様に美形だなとぼんやり眺めていただけだったのに。
(……あ)
不意に、朗々と美声を響かせていたフェリクスと目が合った。
すると彼が目を細めながら柔らかく微笑みかけてくる。隣からきゃあという黄色い悲鳴が小さく聞こえた。対してリーゼは軽く瞬きをしながら彼をジッと見つめ続けた。その姿を目に焼き付けるように。
やがてフェリクスの答辞が終わる。そこで突然、来賓席に動きがあった。
なんとエデルトルート王女殿下が立ち上がるとゆっくりとフェリクスのもとへと歩き出したのだ。ざわつく大講堂内の視線は当然、壇上の二人へと集中する。
「――とても素敵な答辞でしたわフェリクス。流石はわたくしを射止めた殿方ですこと」
鈴のような可愛らしい声でコロコロと笑いながら、エデルトルート王女殿下はスッと右手の甲を差し出す。フェリクスは一瞬だけ戸惑いを見せたが、すぐにその場へと跪いた。
「恐悦至極にございます、殿下」
そして恭しくグローブに包まれた彼女の手を取ると、忠誠を示す口づけを贈る。
まるで舞台演劇のような美男美女による一幕に大講堂内に居る多くの生徒が言葉少なに見惚れていた。そして誰もが思っただろう。実にお似合いの二人だと。他者が割り込む余地は一切ないと。
少なくともリーゼはそう感じた。
そして思っていたよりも落ち着いて二人の姿を眺めることが出来ている。
フェリクスと顔を合わせない間に心の整理が着々と進んでいたからだろう。
そんなリーゼはポケットの中にそっと忍ばせていたアイスブルーのリボンタイを、そっと握った。
普段は持ち歩かないそれを今日持って来たのは自分の中でのケジメを付けるためでもある。
フェリクスの卒業と共にこの関係は終わりを迎える。もともとそういう契約だった。
だからこのままフェードアウトという可能性もなくはない。
ただ根は真面目な彼のことだ。契約満了に当たって最後の挨拶くらいはする機会を貰えることだろう。
だからその時、リーゼはこのリボンタイを彼に返すつもりだった。
心身ともに弱っていたリーゼを支えてくれたお守り。正直、手放し難い気持ちはある。
だけどこれを手元に残したままでは本当の意味では前に進めない。そんな気がしていた。
目線の先ではフェリクスがエデルトルート王女殿下をエスコートし、ゆっくりと壇上を降りていく。その時、フェリクスが王女殿下の耳元で何かを囁いた。当然この距離からその内容を窺い知ることは出来ない。だがフェリクスの表情は柔らかく、その眼差しには熱が灯っているようにリーゼには感じられた。
結局、卒業式が終わってもフェリクスと二人きりになれるような瞬間は訪れなかった。
そのことを少し残念に思いつつも、リーゼはいつも通り自主訓練をこなした後で娼館ブルーリリウムへと向かう。来週からは短い春休みに入る。それが終わればいよいよリーゼも三回生。学院生活も残り一年となり、魔法士の資格試験や就職のための試験なども待ち受けている。
リーゼは娼館に着くとジークヴァルトに貰った黒いリボンで髪をポニーテールに結った。
滑らかなリボンの先をひと撫でしながら、無意識のうちに頬を緩める。
(……よし、頑張ろう)
それから帳簿の整理や雑務を黙々とこなしていたリーゼのもとに彼がやって来たのは、真夜中をとっくに過ぎた頃のことだった。