君は僕の【1】
時刻は真夜中、娼館ブルーリリウムの上得意客専用の一室で。
「やぁ、リーゼ。なんだか久しぶりだね」
たった今くぐった扉を背に困惑し立ち尽くすリーゼへ、フェリクスは実に晴れ晴れとした笑みを浮かべながら手をひらひらと振ってみせた。
なぜそこまで上機嫌なのかは知らないが、リーゼとしてはまず確認しなければならないことがある。
「あの先輩、娼館に来ても大丈夫なんですか? 今はその……婚姻前の大事な時期ですよね?」
彼がブルーリリウムに来るのは実に五ヶ月ぶりだ。足が遠のいていた理由は明白。王女殿下と婚約したからに他ならない。だからリーゼも彼がここを訪れることはもうないとばかり考えていた。
それなのに何故、という当然の疑問に対してフェリクスは飄々と返す。
「そこは大丈夫。流石に父や殿下の耳に入るのはマズいからね。色々と策は講じてる」
「いやそれならそもそも娼館に来なければ良いのでは?」
「だって君と二人きりでゆっくり出来る場所なんて他にないんだから仕方ないじゃないか。それとも何? 君は僕に会いたくなかったの?」
一転して不満げな様子を隠さないフェリクスにリーゼは「そんなことはないですけど……」と眉を下げる。先ほどから論点がずれている気がしてならない。
「やっぱりこんな場所で二人きりになるのは不適切というか、王女殿下に申し訳がないというか」
「へぇ、意外とそういうところ気にするんだね君は」
「むしろ先輩こそ気にすべきなんじゃないですか?」
「対外的には十分に気を遣ってるし特に問題は感じないかな。向こうは向こうで好きにやってるしね」
何やら意味深に呟いた後でフェリクスは自らが座る二人掛けソファーの横をポンポンと叩いた。
「とりあえず座りなよ。立ったままだと落ち着いて話も出来ない」
その主張は尤もだが、提示された場所については問題がありすぎる。そう判断したリーゼは彼から少し離れた位置にある一人掛けの椅子に腰を下ろした。途端にフェリクスの瞳がスッと細められる。
「ふぅん……少し離れている間にだいぶ反抗的になったね?」
「先輩こそ婚約者以外の女性との距離感は考えたほうがいいですよ」
「君以外にはこんなことしないから問題ないよ」
「いや私にだってしちゃダメですからね!? まったくもう……あ、そうだ。改めましてご卒業おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
「それと魔法士試験も首席合格と聞きましたよ。流石は先輩だなって感心しました」
「別に大したことないよ。でもまぁ、褒め言葉は素直に受け取っておこうかな」
「ええ、是非そうしてください。……それで、わざわざこんな時間に訪ねてきたってことは何か大事な話があるんですよね?」
リーゼがそんな風に本題を促すと、彼は気持ちを落ち着けるように長い足を優雅に組み直した。
「そんなの決まってるじゃないか。僕と君のこれからについてだよ」
「これから……?」
リーゼは自然と眉を顰める。これからも何も、契約はフェリクスの卒業をもって終了している筈だ。
遠からず爵位を継承し王女殿下を妻とする彼の未来にリーゼが関わる余地などない。
(一応、魔法士の資格を取って魔法局勤めになれば接点が生まれる可能性もゼロではないけど……)
フェリクスがそんな迂遠な話をしにきたとは思えない。
「あの、意味がよく分からないんですけど。先輩にとって私はもう必要ないですよね?」
「――は? それ、本気で言ってる?」
あからさまに気分を害した低い声で問われてリーゼは僅かに身を固くする。
それでも勇気を出して首を縦に振れば、フェリクスは前髪をぐしゃりとさせながら大きく溜息を吐いた。
「あのさリーゼ」
「……なんですか?」
「まず最初に言っておくけど。僕はね、君を手放す気は一切ないよ」
直截な物言いにリーゼは驚きから目を大きく見開く。するとその反応に薄く笑いながらフェリクスはソファーに深くもたれると前髪を無造作に掻き上げた。
「言っただろう? 君は僕のものだって」
確かに言われたことはある。でもそれは期限あってのものであり、ある種の言葉遊びのようなものだ。
少なくともリーゼはそう認識していた。だからこそフェリクスの発言に戸惑いを隠せない。
「……先輩は、私をどうしたいんですか?」
その問いに対して、フェリクスは一呼吸置くと真剣な表情を作った。
「リーゼ、僕は君のことを愛している」
刹那、無防備な心臓を強く殴られたかのような衝撃がリーゼを襲った。息が詰まり言葉を失う。あまりにも現実味がなくて、まるで時が止まったかのような錯覚にすら陥った。
しかしフェリクスはそんなリーゼの感情を置き去りにして淡々と話を進めていく。
「だけど僕は公爵家の人間だ。当然ながら自由な恋愛や結婚なんて望める立場にはない。爵位を継ぎ、王女殿下を娶る。それ以外の選択は赦されない――対外的にはね」
そこでフェリクスはおもむろに立ち上がるとリーゼの方へと歩み寄る。広めの室内とはいえ十歩も進めば容易に手が届く距離だ。リーゼは椅子に座ったまま逃げることも出来ずに近づいてくるフェリクスをただただ見上げる。
「貴族にとって真に愛する存在を囲うことは珍しくない。幸いにも王女殿下は恋愛に奔放な人でね。彼女は彼女で愛人を持つための準備をしているから、同じように僕が君を囲っても問題はないんだよ。だからさ、リーゼ――」
すっと伸びてきた彼の温かな右手がリーゼの頬をゆるく撫でた。慈しむような眼差しが降り注ぐ。
吸い込まれそうなアイスブルーの瞳。魔性のようなその美しさから目が逸らせない。
「――身も心も全部、僕のものになって。絶対に不自由はさせないと誓うから」
それは間違いなく懇願だった。
瞳の奥に熱っぽい色を宿しながらフェリクスはそのままリーゼの顔に自らの顔を近づけていく。
おそらく数秒後には彼の唇が自分のそれを塞ぐだろう。リーゼは瞬きも忘れて、そんなことを他人事のように考えた。同時に酷く静かだなと思う。まるで周囲の音が消失してしまったみたいだった。
二人だけの静寂の世界。
その只中で、しかしリーゼの視界の端にチラリと映り込むものがあった。
髪を束ねる艶やかな黒いリボン――それを認識した瞬間、リーゼは夢から覚めたかの如く我に返った。
「ッ――やめて!!」
咄嗟の判断で強引に両手を突っぱね、フェリクスの身体を押し退ける。
突然の事態に彼は後方へと大きくたたらを踏んだ。その顔は驚きに満ちている。
一方、少し冷静さを取り戻したリーゼは椅子から立ち上がるとフェリクスから距離を取った。
そしてキッパリと告げる。
「ごめんなさい。私は先輩のものにはなれません」
リーゼの明確な拒絶に、フェリクスの表情が痛みを堪えるように悲しく歪んだ。




