23.お近づきに
芳琳は、茶器に手を伸ばしかけて引っ込め、両手の指を絡み合わせてもじもじとしている。気を紛らわせるために迂闊にものを掴んでは、握りつぶしかねないのがこの少女なのだろう。拗ねていじけて、寝台の褥を指先だけで引き裂いたのを目の当たりにしたばかり。でも、今彼女が持て余しているのは、期待と自制の感情だろう。
「陶妃様……とても嬉しいお言葉なのですけれど。でも、仕方ない……でしょう? ずっと引きこもっている訳には参りませんもの。大姐がたもとっくにお気づきで、言い立てないのはできるだけ私が面目を失くすように、というだけでしょう? それか、長春君様に言いつけるのは、なんというか、意地が悪く見えてしまうと思われているとか。だから──」
辰緋宮の妃たちは、高みの見物をしているだけだ、と芳琳は言いたいのだろう。そして多分、それは正鵠を射ている。彼女たちが問われる罪など実際にはなく、だから証拠が出てくることもあり得ない。芳琳が黙っている時間が長くなるだけ大ごとになるのを期待したのだろうし、事実、話は星黎宮にまで及んでしまった。あの方たちは、時を追うごとに芳琳の立場が悪くなるのをさぞ愉しく眺めていることだろう。
だから期待してはならない──朱華に縋ってはならないと、芳琳は自分に言い聞かせているようだった。正直に言えば、朱華としてもそれはそうですわね、で済ませてしまいたい思いもないではない。他所の宮の妃たちの競い合いに関わったところで、良いことがあるとは思えないから。でも一方で、志叡皇子を満足させる何かしらの成果ないと、怖くて引き下がれないのも確かなのだ。それに──
「ええ、ですから、あの方たちは私を意地悪く見せようとしていたのだと思います」
何ひとつ具体的に知らされないまま、思わせぶりで意味ありげな笑みを向けられて、分かったような分からないようなことを吹き込まれて。そして実際芳琳に会ってみれば、まっさきに知らせるべきであろう彼女の幼さや《力》については綺麗に抜け落ちていたことが判明した。辰緋宮の妃たちが嬲ろうとしていたのは芳琳だけではない。他所の宮の事情にのこのこと嘴を挟みに来た──と、彼女たちからは見えるだろう──朱華もまた、せいぜい評判を落とせば良いと思っていたはずだ。
「確たる証拠もなしにあの方たちのどなたかを責めれば、私は悪者です。二の君様が、私の長春君様に苦言を呈するようなことになってしまうかもしれません。一方で、私が周妃様の……その、嘘を声高に言い立てれば、あの方たちにとっては愉しいことになっていたはずでしょう」
「はい、そうかもしれませんけれど……」
何を言いたいのだろう、と。腑に落ちない様子で首を傾げる芳琳に、朱華は半ば無理矢理笑顔を作った。要は腹を括ったのだ。舐めた真似をしてきたあの妃たちに一矢報いなければやっていられない。……というか、そう自分に思い込ませないことには、さらなる面倒に自ら踏み込む覚悟を決めることはできそうになかった。
「ですから──仕方がない、などとは思わないでくださいませ。どうすれば良いかは、私にもまだ分からないのですけれど。もう少し……何というか、周妃様がこの宮にいやすいように、御心安らかにいられるように。考えては、みませんか……?」
「陶妃様……!」
(そうよ……要は皓華宮の時と同じこと。夫婦仲が丸く収まるに越したことはないし、他所の宮に恩を売れるなら炎俊だって喜ぶはずよ……!)
期待に輝く芳琳の目は眩しく、直視するのが心苦しくなるほどだった。それでも、朱華は前の事例を思い出して自らを奮い立たせる。佳燕と翰鷹皇子の時だって、そこまでしなくて良いのに朱華は余計な口出しをしたのだ。その結果は、多分上々だったはずで。目を瞑ってほどほどの介入で終わらせて、後々まで気まずい思いをするよりも、やれることをやった方が朱華も寝覚めが良いはずだ。……皓華宮で成功してしまったことが、辰緋宮での無理難題に繋がっている気がしなくもないのだけど、それは気付かないことにして。
具体的な策は思いつかないまま、相手を不安がらせないように笑顔を保って朱華はしばし芳琳と見つめ合った。今は高揚して上気している少女の頬が、落胆で青褪めるのは見たくないな、と思いながら。では何をすれば良いのか、と問われたら朱華は沈黙するしかないのだから。でも──
「あの、名前で呼んではくださいませんか? 芳琳、と……」
「え? あの、でも、馴れ馴れしいのでは」
突然、真面目な顔で強請られて、朱華は目を瞬かせた。確かに、姓と位だけで周妃、とだけ認識していた女性の像は、実際に会って芳琳という少女になり替わった。でも、それは朱華の胸の中でのこと、実際に口に出して良いかどうかはまた別のはずだろうに。なのに、芳琳はあくまでも言い張った。
「大姐がたも名前で呼んでくださっています。でも、陶妃様の方がずっと親身にお話してくださったから」
寝台に篭っていた時と同じ強情さが、芳琳の顔に浮かんでいるのが見て取れた。言うことを聞かなければ承知しない、とでも言うかのような。やはりこの少女は、どこか思い詰める質であるような気がする。
(お嬢様だからね……ここだと周りもみんなそうだから、そりゃ苦労するし軋轢もあるわよね……)
別に波風を立てたい訳ではないし、芳琳の言い分ももっともではある。あの妃たちも名で呼び合うくらいなのだから、朱華が倣ったところで大した非礼ではないのだろう。
「芳琳、様……?」
「はい」
それでも最初は遠慮がちに。その名を呼んでみると、芳琳はにこりと微笑んだ。愛らしい少女の無邪気な笑みは、女の朱華でも見蕩れてしまいそうだった。
(二の君様も三の君様も……本当に、もう)
名家から選りすぐられているだけあって、なのかどうか。朱華がたまたま深くかかわることになった妃たちは容姿だけでなく心映えも可愛い方ばかり。それが困った事態になってしまうのは、どうにも夫君の側に問題があるように思えてならない。皇族たるもの、下々とは考えることも感じることも違って当然、なのかどうか。下々の最たるものである朱華には──あるいは女だからそう思うのか──皇子の方に、気遣いを求めたくなってしまうのだけど。
「ええと……よろしければ、芳琳、様も私を名で呼んでくださいませ」
芳琳は、満足そうに微笑みながらも、なおも何かしらを待つような気配を漂わせていた。少女が求めているであろうことを朱華は申し出てみる。ままごとのようなやり取りだな、と思わないでもないけれど、芳琳は実際ままごとをしていてもさほどおかしくない歳ではあった。それに、朱華にとっては初めてのことだから、気恥ずかしさと同時に嬉しいとか楽しいというような感情も、ないではない。何より──
「雪莉ではなく、朱華と呼んでくださると嬉しいのですけれど」
そもそも辰緋宮に関わることになった切っ掛けを、思い出したのだ。陶家の本物の姫の名を借り続けるのではなく、朱華自身として、星黎宮の妃にならなければならない。本物の雪莉と再会するため、陶家の操り糸を逃れるために、それは必要なことのはずだった。
「朱華様……? それは、あの、あだ名のようなことでしょうか……?」
「はい。私の長春君様がつけてくださいましたの。雪莉というのは、どうもお淑やかそうな響きではございません? それよりは……もっと、あの、激しそうな名前が似合いだと仰られて」
嘘を吐く後ろめたさに早口になるのを自覚しながら、朱華は続けて真実を述べた。赤い色を帯びる名を名乗るにあたっては、辰緋宮の主である志叡皇子の許可が必要だと考えたこと。皇子は快諾してくれたものの、近く生まれる──と、その時は考えられていた──御子のことを考えて、念のため母である芳琳の許しを得るように勧められたこと。……思えば、ずいぶん遠回りをしてしまったと思う。
御子のことに触れたから、芳琳はまた嘆くとか怒るとかするのではないかと、朱華は恐れたのだけど。芳琳はただ、しみじみと頷いただけだった。
「華やかで素敵なお名前ですわ。……四の君様は、本当に朱華様がお好きなのですね」
「はい。過分のご配慮をいただいていると思います」
どうやら、朱華と名乗ることについては異論はないらしいのを知って、朱華は安堵の息を吐いた。炎俊には事後報告になってしまうのが気掛かりだけど、一度雪莉と呼ばせた後に改名するのは収まりが悪いだろうから仕方ない。それに、これで背水の陣を敷いた、とでも言えるだろう。ちゃっかり改名の根回しをしたような形になるのだから。これで辰緋宮の問題の解決をおろそかにして口を拭って逃げることは許されないはず。どうにかして、志叡皇子が唸るような何かしらの鮮やかな手並みを見せなければならないのだ。
(どうすれば良いかは……これから考える!)
自棄のように心中で叫ぶと、なぜかすっきりしたような気分にもなった。だから、今度こそ晴れやかに、朱華は芳琳に微笑みかける。
「ええと……それでは、お近づきの記念に少しお話をいたしませんこと? 二の君様のこと、この宮のこと……もう少し、知らなければならないと思いますし」
芳琳は、きっと江妃やほかの妃たちのようにはぐらかした物言いをしないだろうから。少なくとも、双方の言い分を聞かなければならない訳だし。これでやっと、辰緋宮の実情をある程度公平に見ることができるのだろう。
次回の更新は年明けを予定しています。




