case203号室『裏野ハイツの殺害霊』
ノックは延べ二十分程に及んでいた。ようやく静かになり、胸を撫で下ろすも、まだ油断は出来ない。音はしなかったのだ。まだそこに、いるかもしれない。
僕らは息を殺して、その場に立ち尽くしていた。今、出る? いや……でも……。と、迷っていると、背後でクスクスと、嘲るような忍び笑いが聞こえてくる。名無しの女幽霊だ。
「なんだよ」
『別にー。穴から覗いていた時を思い出してね』
女幽霊はそう言いながらフワフワと浮かび、そのまま窓際へ移動する。ニタリとした表情のまま、赤絵の具がついた筆を弄んでいた。
『……ピグマリオン。考えてごらん。心理の時間よ。急ぎの用事があり、ドアをノックした。でも誰も出てきません。しばらく粘るもダメ。出直そう。出掛けにその人の部屋の横を通ります。さて、その人はどうするかしら?』
場面を想像する。いないのかな。そう思い、外に出たら窓を見て……。
身体が、強ばった。メリーも同じ結論にたどり着いたらしく、そのまま引き返し、部屋の窓から外をみる。暗い世界の中で、街灯にさらされた電柱が視界に映り……いた。
その下に。白いフードにチャックを限界まで上げていて分かりにくいが、その顔と思われる部分は間違いなく、僕らが滞在する203号室の窓へ向けられていた。
「……っ」
無意識に、僕らは息を飲む。今までも、こうだったのだろうか。ああ、今日もいなくなったと安堵する僕らの見えないところで、奴はこうしてじっと様子を伺って……。
そう思ったら、否応なしに背中を冷たいものが流れていくのを感じた。
「……辰、見て」
その時だ。下の白ずくめに動きがあった。
身体を縮めて一気にジャンプした白ずくめは、何を思ったか、電柱に飛び付いたのだ。
突然の奇行に目を僕らが白黒させている合間に、奴はそのまま、ズッ、ズッと、布とコンクリートが擦れあう音を立てながら、電柱を上へ上へとよじ登っていく。
長い手足を不気味に蠢かす姿は、蜘蛛か白蟻のようにも見えて、よりいっそう不快感を掻き立てる。一体何をしているんだ? 電柱を登ったところで……。
登る?
頭を整理する。登り近づいて、奴はさっき何処を見ていた?
パチパチとパズルのピースのように組上がる推測。それが徐々に形になり始めた頃、隣のメリーが、きゅっと握る手を強めた。汗ばんだ肌の感触に空気が湿ったような気がして。そこへ震えるようなメリーの吐息が混ざる。
「……ね、ねぇ。今思い出したんだけど」
「僕もだ」
冷や汗が噴き出す。理由は今更だ。
二階だから大丈夫と、たかをくくっていたのが最悪の形で牙を剥いてきた。隣の部屋は今……。
「窓、開けっ放しだわ……」
消え入りそうなメリーの独白の後。
ガタンと、すぐ隣のベランダに何かが着地するような音が轟いた。
※
扉とは結界である。というか、人間の家という概念がそういうもので出来ている。古来より創作で吸血鬼をはじめとした多くの悪いものが、招かれなければ家に入れないとは、そういう背景があるからなのだろう。
だが、万物にはすべからく綻びがある。悪いものはあの手この手で、その領域の穴を見つけ、入り込もうとしてくるものだ。
それは怪異に限らず、人や悪意、害虫や害獣。澱んだ空気など、実に様々だ。
だから人々は色んな形で身を守る。
戸締まり。靴紐を結ぶ。髪や爪を切る。風呂に入り、身を清める。
当たり前の事だが、これらを怠ればどんなことが起きるかは、容易に想像がつくだろう。言い換えれば怪異の類いは、超常的なもの以外にもこういった日常での悪い歪みが形を成したものと言っても過言ではないのかもしれない。
僕らは戸締まりをしなかったばかりか、そこから人の気配を絶やしてしまった。必然、こんな結果を招くこととなったのである。僕ら……というか、203号室に住む人間を狙う存在がいたことは、わかっていた筈なのに。
「……入って、どうする?」
「襲いかかってきたら……ワンパンチしてそのまま逃げよう。命大事。話が出来るなら……」
正直、望みは薄い。女幽霊は、人殺したる自分と共感できると語っていた。ならば明らかに危ないだろう。
メリーと繋いでいない方の手で、握り拳を作る。
僕は幽霊が視れて、触れる。この干渉する特性は、意識や知性がちゃんとあるのが条件だが、初見の幽霊なら目の当たりにすれば間違いなく動揺する。
彼らのようなオカルトが、現世にあらゆる影響を与える。というのは、実は大して珍しくもなんともない。だが、その逆……。個の人間がオカルトに干渉するというのは、どうやらかなり珍しいらしい。得てしてお化けを逆に驚かせるのにはこれ以上にないくらい最適なのだ。
……ならばその勢いで殴り倒して、KOしてしまえばいいじゃないか。と思われるだろうが、実はこれ。そうも問屋がおろしてはくれない。
殴って霊を成仏させる。これは勿論出来るのだ。ただしリスクを無視すれば。
実際にやろうとすれば、文字通り本当にポキッと骨が折れちゃうくらいには、成仏させるのは大変なのである。
相棒曰く『成仏パンチ』なんて気の抜けそうな上にゴミみたいな火力の必殺技が、今頼れる全てだった。
嘆くのは許されない。ご存知メリーは探索担当。僕が担当するのは荒事だったり肉壁になることなのだ。……これを言えば間違いなく。何故かメリーからヘッドバットが飛んで来るので言わないが。
「入るよ……」
「了解……」
意を決して、暗い部屋に足を踏み入れる。
何もない場所に僕がパンチを繰り出し、その間にメリーが素早く部屋の電気を点ける。時間にしてコンマ二秒……はやや大袈裟ながら、僕らは明るくなった視界と確保した空間の中で静かに息を吐いた。そこには誰もいなかった。
ただし……。
「窓……網戸も空いてるわ」
「それだけじゃない。見なよ」
光に反応し、次々に部屋へ侵入してくる羽虫達と一緒に、生暖かい夏の空気が開け放たれた窓から流れ込む。裏野ハイツ周辺は、環境としては非常に静かだ。だから僕らの耳には虫達のさざめきと、ビーッ。と低い震えるような音を吐き出し続けている、〝誰かに蓋の開けられた〟冷蔵庫のみだった。
冷蔵庫の前は中に入れていたもので散乱していた。マスタード。マーガリン。ジャム。マヨネーズにケチャップ。ハムや裂けるチーズが数パックに、野菜室に入れていた野菜の数々……。
じっくりもう一度、部屋を見渡す。目につくのはそれくらいだ。
耳をすませても、他には何も聞こえない。
洋室。お風呂場と目を向ける。気配は……ない。
いや、そもそも気配はあるのだろうか。相手は幽霊で……。ああ、何のための霊感か。それでいるかいないか位は……。
意識を向けた瞬間が不味かった。色々な可能性が考慮されて然りだったのだ。
そいつは、思っていた以上に近くにいるらしいこと。
探知担当のメリーが、部屋に入った瞬間以降だんまりしていること。
そして……。
「上……上だ、わ」
相手は電柱をよじ登り、そのまま部屋のベランダに飛び付いてきた。幽霊であることを抜きにしても、常識が通用しないレベルで身体能力が高いであろうこと。それを失念していた。
頭痛に耐えるかのようにメリーがこめかみを抑え、ふらついたその瞬間――。僕は、ガァン! という、背後からのとてつもない衝撃と共に、前のめりに突き倒された。
「あ……が……!」
比喩など抜き、目の前で火花が散る。続けて強かに顎から床にダイブし、頭の前と後ろが焼けつくような痛みで支配された。
「――っ!? ――っ!!」
メリーが悲鳴にも似た叫びを上げる。手だけはお互いに離さなかったので、彼女もまた転倒していた筈だが、そんなの関係ないとばかりにメリーは僕にすがり付き。そのまま必死に呼びかけてくる。
「め……り……」
衝撃が強すぎて、喉が上手く働かず、声がでない。滲み、段々暗くなる視界の中で捉えたのは……メリーの肩を掴み、乱暴に真横へ引き倒した白ずくめの姿。それに対する反抗心が燃え上がるのと同時に。再び振りかぶられた白ずくめの拳が、僕の顎に。額に、頬にと打ち出される。
地震が身体に直接叩きつけられたかのように僕の身体は揺さぶられ、やがて、意識が急速に闇に落ちていく。
『アケテ……アケテ……ハラ。アケヨ』
男とも女ともつかぬ声がする。
同時に、ざらざらとした軍手を被された手が腹部をまさぐるのを感じた。
『ハラ……アケテ。……ハラアケテ……』
メリメリと、軍手の中から腹部に爪を立てられる。グワングワンと鳴る頭の奥で、ああ、開けてってそれか。なんて他人事みたいな呟きが盛れる。
身体は動かなかった。
腕も上がらない。
何も見えない。
やがて、爪が肉に食い込み、ほじくり抉り取られるような痛みが走り……。
「こ、の――っ!」
ドタドタとした騒音を最後に、僕にのし掛かるような圧力が消えた。
すぐそばで、誰かが揉み合っているようだ。
誰か? この部屋にいるのは、僕とメリーと……。
頭が回ると同時に、一際鋭い痛みが来る。はからずともそれが、僕の意識を現実に引き戻した。
「い……ぎ……」
初めに見えたのは天井だ。ただし半分は赤だった。
燃えるような痛みは継続中。冷たい背中の感触。床に仰向けになってるらしい。
「う……」
次に嗅覚。続けて舌の感覚が戻ったらしく、口と鼻が鉄の味と臭いで支配される。ああ、これ口も切れてるや。そんな自嘲じみた独白を述べたところで、じわじわ。キーンとしか鳴らなかった世界に音が戻ってくる。耳が拾ったのは……慟哭じみた震えるような叫びだった。
「離して……! 離、せぇ……!」
首を何とか動かして、見えたのは、白ずくめの背中だった。彼ないし彼女は、何かに跨がるようにして、手を振り上げている。
時折手が振り下ろされ、破裂するような打撃音が響く。その度に、痛みに耐えるような短い呻きが響く。
『ハラ……ヒラク。……アケテ……アケテ……!』
冷たい毒の声。ビリビリと、布が力任せに破られる音がしている。白ずくめの下には誰かがいるらしい。暴れた為か膝上まで捲れたロングスカートから、白い脚が覗いている。
「こ……の……! どきな、さい……!」
怒声と涙声が混じったそれは、いつもと違うといえども聞き覚えが有りすぎた。
必死に白ずくめをどけようとして、相手の腰を掴む片手には、魔除けになりそうな御札がぐるりと巻かれている。
彼女は幽霊に触れない。だが、霊感はあるから、ああやってオカルト関連に親和性が高いものを利用し間接的な方法でなら多少は触れ合える。あくまでも、多少だが。
結局、彼女は幽霊に干渉こそされても、自衛する手段は殆ど持ち合わせていないのだ。
「う……あ……」
動かなかった身体の奥で、劇鉄を引いたかのような鈍い音がした。
炉に炭を……いや、もはやニトロをぶち込んだかのように、感情が轟々と燃え上がっていく。
血の気は多くない。寧ろ少な過ぎて貧血を起こせるレベルだと思っていた。闘争心なんて元来持ち合わせていない。無縁だし無用だ。そんな考えだった。だが……。
人には必ず、怒りのツボというべきか。沸点なるものが存在していたようだ。
「……るな……」
名も無き女幽霊の絵が、脳裏で甦る。あの時の絶望が。心が凍りつくような痛みが、身体の傷を凌駕する。
身を起こせば、歪んでいた視界がいっそうクリアになった。
「……で、……に、……るな……」
くぐもった声が、喉から絞り出される。
まるで昨日の事のように、昔のエピソードが想起された。
それは、年末辺りにした何の気ない会話だ。初詣の帰り道。傍らを歩くメリーが問うてきた。「もし私が死んじゃったら、貴方ならどうする?」残酷で、意地悪な質問だった。僕は考えて。そうしたら新年早々陰鬱な気分になって……こう答えた。「そんなの想像もつかない」と。
メリーがが死ぬなんて未来を、例えifの話だとしても、僕は受け入れたくなくて。考えるだけで胃に鉛を詰められたような気分になる。だから……どうなるかなんてわからない。
それを聞いた彼女は、「そう」と言ったきりただ黙って。僕から視線を逸らし、歩きながら都会の夜空を。見えもしない星空を仰いでいた。
それが無性に物悲しくて。僕は思わず聞き返していた。
君はどうなのかと。するとメリーは目を見開き。少しだけ考えてから。小さく身震いしながらこう答えた。
「私ならきっと、気が狂ってしまうわ……」
パンッと、弾けるような音がする。白ずくめのもう片方の手は下ろされ、何かを抉り掘り返すように動こうとしていた。「いっ……」という苦痛に満ちた彼女の声に、無意識で奥歯が痛いほど噛み締められる。思うことはただ一つ。
なぁ、白ずくめよ。何をしてくれてるんだ? 君は……!
一歩踏み込む。あまりにも強く床に足をつけたせいで、地鳴りめいた音が響き渡り、年季の入った部屋が揺らめく。
そこでようやく、白ずくめは僕に気づいたらしかった。だが、遅い。片手で奴の肩を掴む。振り返る前に、腰の中心に拳を叩き込んだ。
ベギリ。と、嫌な音がして、手の甲に痺れが走る。白ずくめが驚愕したのを見計らい、今度は横腹に。続けて掴んだ方の手を軸に、相手の前側に身体を滑り込ませる。
淡々と。作業的に。だけれども煮えたぎる感情はそのままに、僕は肩を離し、白ずくめの胸ぐらを捕らえた。
殴り付けていた方の手は、痛いのを通り越して既に感覚がない。それでも迷いなく僕は顔があるであろう場所を睨む。
「汚い手で、メリーに触るな……!」
彼女は、お前が辱しめていい女性じゃないんだ……!
歯を食い縛り、腕を振るう。何度めかの殴打でふらつきながら片膝をついた時……目の前には誰もいなくなっていた。
『アア……ドウシテ……ジャマスルノ……?』
もう少しだったかもしれないのに……! という怨嗟の声が、耳にこびりついたのを最後に。僕は今度こそ、完全に意識を失った。




