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case202号室+α『ゴーストホール』

 段々と。というか、裏野ハイツの住人が色々と問題を抱えていると気づきはじめて、はや三週間が経とうとしていた。

 淀んだ空気と、お決まりになったラップ音はそろそろかな。なんて思いながら、僕らは夜のリビングにて読書に耽りつつ談笑していた。話題は……事故物件のこと。それも、最近確認した怪事件とは、また別口である。


「最近ね。何というか……視線を感じるのよ」


 自意識過剰とか、そんなの抜きで。

 そう語りながら、メリーは文庫本を片手で閉じ、ソファーに腰かけたまま、ブルリと身を震わせるような仕草をした。

 冷たいアイスココアの入れられたグラスを傾けながら、僕もまた、手にしたハードカバーに指で栞をしながら、ゆっくりとメリーの方へ目を向ける。

 レースつきの薄桃色のネグリジェは、セックスアピールムンムンなシースルータイプ……ではなく、しっかりとした材質の、露出の少ないクラシカルなもの。個人的にはこういった方がポイント高い。

 

「視線って……この部屋で?」

「ええ。主にここ。リビングにいるときに」

「……僕もまぁ、それなりに君を見てるだろうけど、気を悪くしたならごめん」

「……いや、多分貴方じゃないのよね。何というか、不快でゾワゾワする感じなんだもの」


 それが本当に僕だったならば、なかなかショッキングなのだけど、相棒が否定してくれたので取り敢えず安堵する。

 だが、そうだとしたら……。


「気のせい。ではないんだよね?」

「そうは思えないわ」


 互いに無言になり、ただ見つめ合う。

 こういう時のメリーの勘はいやに当たるのだ。

 念のため、冷蔵庫を見てみる。実はラップ音がしないときに開けてみたりもしたのだけど、結果はいつかのお風呂場と同じ。

 確かな気配はある。だが、忽然と消えてしまっている。この何とも言えないもどかしい感じはどうにも落ち着かない。

 次に、暑さの影響で網戸にしていた窓から、外や周りを窺ってみる。だが、そこから見えるのは街灯に照らされて、寂しくそびえ立つ電柱が見えるくらいで、他には何もなかった。

 一方でメリーはというと、滑るように音もなくリビングを後にして。ベッドがある洋室。すぐに出て来て脱衣室へと巡回していく。戻る頃には、彼女は苦虫を噛み潰したかのような表情でため息をついた。


「洋室や、お風呂場ではないわ。視線を感じるのは……リビングだけよ」

「……因みに今は?」

「今はなにも。だからこそ、話したの」


 成る程。

 僕は暫く考え込み、やがて部屋をウロウロと歩き回る。気配を感じるのは、メリーの十八番だ。だが、それが〝どちらによるものか〟は曖昧らしい。

 この裏野ハイツの特徴としては、人とオカルトどちらでもありそうだというのが、素直な感想だ。今まで見てきた例を振り返ると、尚更に。


「……ん?」


 その時だ。何気無く壁にそって歩いていると、そこに妙なものを発見した。白い壁にボツリとついた、黒ずみがあったのだ。

 何となく気になって顔を近づけてみる。すると、僅かながら冷たさを生じた風が頬をくすぐった。


「これ……穴?」


 僕の呟きに、メリーは驚いたように目を見開いて、そのまま僕の背中に両手を置くようにして背中ごしからそこを覗き込む。

 指さした先に彼女も顔を寄せ、本当だわ。と、震えた声を出した。


「まさか、君がリビングだけで感じてた視線って……」


 これのことなんじゃ? と、僕が声を絞り出せば、肩に置かれたメリーの手が、きゅっと僕のパジャマを掴む。

 息遣いだけが支配した空間の中で、どちらからともなくした提案は、覗いてみよう。だった。


 慎重に、顔をそこへ近づけていく。小さな隙間から覗く世界は、ぼんやりとした豆電球だけで照らされた部屋だった。

 タンスにテーブル。見えるのはそれだけ。だが、電気がついているということは、少なくとも人はいるらしい。正直、本当にいたんだ。と言いたいのだけれど。


「どう? 何が見える?」

「部屋だね。普通の部屋。明かりは小さくて、はっきりとは見えない。家具も最低限で……あれ?」


 その時だ。さっきまで鮮明に見えていた視界が、唐突に闇に包まれた。


「どうしたの?」

「……急に暗くなった」

「…………え?」


 僕の報告に、メリーの声が凍りつく。触れあった場所が一気に強張るのを肌に感じながらも、僕は目を凝らす。


「電気、消しちゃったのかな?」


 でも、消すような音は聞こえなかったし……。と、僕が呟くと、メリーは何故か、バンバンと僕の肩をせわしなく叩いて、そのまま小声で捲し立てる。


「ばか、わからないの? これってどう考えても……!」



『ねぇ、何視てるの?』


 底冷えするようなソプラノの女の声が、壁のすぐそこから聞こえてきたのは……その時だった。


 ※


 数分後、僕らは着替えを済ませ、部屋のすぐ隣に立っていた。

 ついさっきの間抜けな反応は、正直な話顔を覆ってしまいたい程に恥ずかしいので、蒸し返さない方向でいく。

 ともかくだ。僕は声をかけられてはじめて、メリーが勘づいた事実に思い至った。

 電気が消えた訳じゃない。単純な話、穴の向こう側が、何者かによって塞がれたから引き起こされた暗闇だったのだ。


『……へぇ。あたしの声、聞こえるんだ』


 声の主は壁越しに何処と無く楽しそうにキャッキャと声を上げた後、『せっかくだから入ってきて』そう囁いた。

 有無を言わせぬ迫力がある。断れば、厄介事を呼び込まれそうで。僕らはそんな根拠もない予感に従い、今に至る。

 202号室。開かずの間というべきそこ。一応下の102号室も似たようなものだが、彼処には明確に、引きこもりの無職の男がいる。という共通認識が広まっている。だが、反対にここには、そういった類いの目撃情報やらが一切ない。住人の誰もが知らないのだ。ここに誰がいるのかさえも。

 ……一応201号室のマサエさんは知っているみたいだけれども、語りはしないので保留する。


『どうしたの? 入ってきなよ。そこにいると、あぶないよぉ?』


 再び響くソプラノの声。僕らは横目で合図しあい、意を決して扉を開く。

 足を踏み入れた瞬間。生暖かい風とともに埃が舞い、僕らは思わず顔をしかめた。

 例によって薄暗い部屋をゆっくりと見回せば、部屋の中にはさっき僕が確認したテーブルとタンス。そして……。


「……なんだ、これ」


 その光景に、僕は思わず目を見開く。部屋の穴では確認しきれなかったが、天井近くの壁には、びっしりと額縁に納められた絵画が飾られていた。


 ロッキングチェアに腰掛け、手に持った写真……だろうか。それを愛おし気に眺める、白い翼を生やした老婆の絵。


 上半身が人間。下半身が蛇な男女の怪物が、ベッドの上で泣きながら絡み合う絵。


 瓶の中に入った小鳥を、愛しげに撫でる男の絵。


 洋服を着たナマケモノが、望遠鏡と地図やコンパスを手に、海を眺めている絵。


 和服を着た女性が、台所で料理をしており、それに忍び寄ろうとする、白装束に身を包んだ般若の絵。


 そして最後は……のっぺらぼうの少女が、自分と全く同じのっぺらぼう少女をナイフで刺し殺している絵。


 僕は美術品については素人だけれども、そこにある絵はモチーフが微妙に分かりにくいものの、見る目を釘付けにする何かと、作者の強烈な拘りが滲み出ているように思えた。


『気に入って貰えた? それら、あたしの作品なのよ』


 カーテンで完全に締め切られた部屋の奥から声がする。

 そこには、キャンバスを背にして丸椅子に腰掛け、こちらににこやかな笑顔を向ける小柄な女性がいた。その斜め手前には大きめの机があり、その上には画材などが並べられている。

 目につくかぎり多種多様の絵筆がペン立てのようなケースに入れられていて、その回りには絵の具のチューブ。これだけ見れば、絵を趣味ないし生業にした人物の作業場に見えるのだが、僕の意識はその近くにある場違いなものに向けられていた。

 電気ポットよりは小さい、筒状の機械。と、赤黒い液体の入れられたビーカー。あれは……。


『あ、飲む? 絵を描くこともそうだけど、ジュース作るのも趣味なんだ。今日の材料はストロベリー、ブルーベリー、クランベリー、ラズベリー、カシス、ボイセンベリー……豪華特性ミックスベリースペシャルな……ゴーストジュースよ』

「……ゴーストジュース?」

『……あら、ピグマリオン。君なら分かると思ったのに。見込み違い?』


 アハアハ。と、歪な笑みを浮かべる女性。

 すると隣で、フゥー。と、長いため息が聞こえた。


「貴女はもう……死んでる。幽霊なのね」


 メリーがそう言いながら、僕の手をきゅっと握る。そのまま、指の一本が軽く引っ掛かれた。相棒間にあるハンドサイン。意味は……「警戒せよ」


『……ふふ、正解よ。お人形さん。ジュース飲むぅ?』

「いらないわ。本当にそれ、入ってるのはベリーだけなのかしら?」


 さぁね? と、嘲る女性は、僕とメリーを交互に覗き込むような視線を向けてくる。僕はそれを見つめ返しながらも、素早く部屋をもう一度確認する。あと、気になる点は……あった。


「気のせいかな? 壁には小さな穴。そこはいいよ。明らかに床に……あり得ないくらい大きな穴が見えるんだけど」

『あら、ピグマリオン。いい所に気づいたじゃない』

「……そのピグマリオンって、まさか僕の事?」

『お気に召さない? なかなか似合うと思うけど』


 僕が意識を向けたそこには、人が一人通れそうな穴が口を開けていた。用途は不明だが、それによってこの絵画と簡素な家具並びで完成されていた部屋に、拭いようもない違和感が植え付けられていた。

 ついでに、個人的に違和感がありありだった呼び名について言及すると、女幽霊は悪びれることもなく首をかしげた。

 少しだけ、不快な気分になったのは、心が狭すぎだろうか。


「……召さないね。君のメリーへの呼び方も含めて。確かに彼女は僕にとって大切な女性(ひと)だ。お人形さんみたいに綺麗なのも同意する。けど、僕は彼女を人形そのものに思った事は一度もない」

『ピグマリオンの人形は、最後に命を吹き込まれたのよ?』

「それでも、だ。彼女は……」

「平行線になりそうだわ。その辺で」


 他ならぬメリーの介入で、話は打ち切られた。僕と幽霊の女性が視線を向ける中、メリーは毅然とした態度で相手を視る。


「話はなに? このハイツに入居してから感じていた視線は、貴女でしょう? 何の為に私達を呼んだの?」

『……純粋な興味よ。お人形さん。……やだピグマリオン。そんな睨まないの。だってほら、ここに来たり、住んでる人は、軒並み狂うか、恐怖で逃げ出すのが常だったんだもの……まぁ、あたしもここに住み憑いてから三ヶ月くらいだから、読み聞いた情報だけど』


 住み着くが微妙にニュアンスが違う気もしたが、それは置いておこう。興味を抱くとは、僕らが平然としていたからか。それとも……。


『正直驚いてるわ。あたしが視えるばかりじゃなく、あの哀れな103号室の子ども幽霊と産みの親達。101号室のパラノイアに……あの婆さんは別にいいか。それらとここ数週間で接点を持ち、その本質に触れて尚、普通に生活している。ピグマリオンの言葉を借りるなら、ホラースポットたるここで』


 アナタ達、一体何者なの?

 鳶色の目が、喜悦で輝く。科学者が実験対象を検分するようなもの……ではなく、お気に入りの絵画をじっくりと眺め回すような気配に、僕らは無意識にお互いの手を取っていた。


「……僕らは、そうだね。ただのしがないオカルトサークルさ」

「ここに来たのは、事故物件の疑いがある、裏野ハイツの調査よ」


 僕らがそう説明すると、女幽霊は少しだけポカンとした顔になり、やがて、急に腹を抱えて大笑いし始めた。


『待って、待って、待って! 事故物件? 調査? それでアナタ達、ここに来たと!? なぁにそれ! ヤバイ、お腹痛い死ぬ!』


 君幽霊だろ。というのは言わぬが花なのだろう。一通り笑い転げたあと、女幽霊はひーひー言いながらも、ふぅと一息つくと、フワフワ浮かびながら膝を抱えた。白いポロシャツにカーキのホットパンツ姿。夏らしい爽やかな出で立ちだが、浮かべる笑みは冷涼を通り越して、邪悪で陰鬱な何かを含んでいた。


『成る程。非日常に慣れていたから、ここにも順応できたと。凄いわね。ある意味芸術的。で、どう? 調査の結果は?』

「……何かがあるのは理解できた。ホラースポット的な場所だということも。だからこそ、住人は皆おかしかった」


 正直、湯坂先輩には早急に引っ越しを勧めるべきだろう。恐ろしくもなるわけだ。霊感がそれほどなくても、感じられる人は感じられる。毎夜白ずくめが訪ねてきて。隣からは幽霊に見つめられている。そんな状況を知ってしまったら、常人が耐えられるとは思えない。


「だから、ここが事故物件であることは疑いようがない」

『へー。……ねぇピグマリオン。事故物件って、そんなに悪いものなのかな?』

「……それは、人にもよると思う」


 僕の出した結論を、女幽霊は無表情のまま聞き入れ、その上で質問を投げ掛けてくる。

 僕はそれに対して、曖昧な返答をせざるをえなかった。


『確かに、ホラースポットみたいにその土地に何らかの超常的な何かがあることも、現実にはよくあるわ。けど、本質は、違うとあたしは考えるわ。だってそういう穴場を決めるのも……人間なんだもの』


 謎めいた笑みを残して、女幽霊はくるりと背を向ける。絵筆を手に、彼女はキャンバスに向かい始める。


「……結局貴女、何がしたいの?」

『お人形さん、だから興味だってば。絵を描くにもモチーフやネタが必要なのよ。だからあたしはここに来る住人を視る。アナタ達とは話がしたくなった。それだけよ』

「……この物件の事を色々と見たり聞いたりしてる。そういう解釈でいい?」

『ええ。そうね。101号室のパラノイアとあの四肢がない少女の共依存ドラマとか。引っ越ししたての103号室の家族風景。あと……そうね。この部屋の真下。ネットの海を拠点に生き続ける……いいえ、そこでなきゃ生きられない、可愛くて優しい虚ろな人の話とか』


 後頭部越しながら視線を追い、穴を見る。あれは下の階と繋がっているのだろうか? だとしたら……。


『彼は聞こえてるでしょうけど、きっと興味は抱かないわ。そういう人なの。あたしも視えていないし。ただ、何かいるなぁ。壁にも穴が空いてるなぁ。まぁいいかって感じ』

「それは……」

『どうなの? って? いいのよ。それが彼だし。言ったでしょ? ネットに生きてるって。多分肉体を殺しても、幽霊になってネットサーフィンする勢いの筋金入り。現実(リアル)じゃあ会話も多分成立しないんじゃない?』


 耳をすませてみて。そう言われるままに息を殺せば、成る程。確かにカタカタと、打鍵音が聞こえてくる。本当に、蚊ほども興味がないのだ。生きてるのか死んでいるのか。大袈裟だが、そう考えてしまう。まるで電脳世界に魂だけ移したような……。


「穴……下の階にもあると?」

『ああ、ごめんお人形さん。話の途中だったね。あるよー』

「……成る程」


 想像に耽る横で、メリーと女幽霊の話は続いていく。

 合点がいった顔のメリーに僕が小声でどうしたの? と問えば「彼女だったのよ」という返答が返ってきた。


「違和感があったのよ。私はオカルトな存在を観測できる。私が俯瞰的あるいは直接視る時と、何か〝オカルトな存在の視界〟を通しての二種類。前者は私が私自身の肉体を感じることが出来て、後者はそれがない」

「……103号室のヴィジョンの件か」

「そ。なーんかいつもと違うなーって思ってたけど、そんなからくりだったのね」


 それが、女幽霊の視ていた日常で、それをメリーが垣間見た。そういう事だろう。ヴィジョン? と、首をかしげながらも、女幽霊は絵筆を手にした。メリーはその背中を見たまま、ゆっくりと口を開いた。


「なら、改めて聞きたいわ。ねぇ、女幽霊さん。貴女は……あの白ずくめの正体を知ってる?」


 動きかけた絵筆がピタリと止まる。品定めするように女幽霊はこちらに頭だけ見返ると、チロリと舌舐めずりした。


『……さぁ? どうでしょうね。まぁ、あの子が人を脅かし続けているのは何となく分かるよ。今回はまぁ、厄介で手こずってるみたいだけど』


 厄介とは、僕らの事だろう。となるとあの白ずくめは、やはりこの裏野ハイツに昔からいて……。


『あたしね……記憶がないの。生前の記憶が』


 その時だ。止めていた絵筆の動きを再開させ、女幽霊は不意に呟いた。


「記憶……?」

『そ。エピソード記憶だっけ? それがツルーンと』

「生前の記憶を失う霊は珍しくはないわ。よっぽどショッキングな死に方だったんじゃないかしら?」

『お人形さん容赦な~い。うーん、どうだろね。でもさ。あたし、この部屋で死んだ訳じゃないのはわかるの。言ったでしょ。三ヶ月くらい前に来たって』

「……それは、そうだ。でもそれなら、何処から来たかとか」

『それが分からないんだってばぁ。気がつけば浮遊して、ここにたどり着いたんだもの。あと分かるのわぁ……』


 ベチャリ。と、派手な音を立てて絵筆がキャンバスに着地する。よく見ると、キャンバスの絵は既に八割がた完成していた。


 そこに描かれていたのは、女性だった。

 白いゆったりとした肩だしトップスに、エキゾチックなストールと上品なロングスカートを身に纏っている。

 髪の色は亜麻色。フワフワとした肩ほどまでのセミロング。

 ビスクドールのように白い肌。見るものを引き込むような、青紫の瞳。

 ……メリーだ。メリーが描かれている。


『あたしが……人殺しだったってこと。くらいかなぁ?』


 部屋の温度が下がったかのような錯覚を感じた。僕らはただ沈黙し、女幽霊を見る。

 血のように赤い絵の具をつけた絵筆が、絵画にいるメリーの心臓部を一突きにしていた。


『覚えてるの。靄がかかっているけど、この手のひらには、感触が残ってる。刃物を肉に突き刺して、骨に達した時の手応え。引き捌いて、内臓を掻き分けて引きずり出して。あったかぁい身体が徐々に熱を失って。その瞬間に握り潰す……あの時の興奮を……! だから、あの子の気持ちもよく分かる……!』


 筆を一閃。今度は赤が、メリーの首に。

 さながら血が噴き出したかのようなタッチの描写が一瞬で花開き、飛び散る赤が、絵画に佇むメリーの目に。水を多く含んだそれは、絵画のメリーに血色の涙を流させる。

 女幽霊の筆は止まらない。今度は滅多刺しにするように腕を動かし……。そこで僕は、絵画にもう一人、登場人物がいることに気がついた。

 返り血を浴びながら、笑いとも怒りともつかぬ表情でメリーに手を伸ばしている青年は……。


「ぼ……くむぐっ!」


 その事実を目の当たりにした時。心臓を鷲掴みにされたような感覚に捕らわれて、息が止まりかける。さながらブラックホールに引き込まれたかのように僕の意識が濁りかけたその瞬間。僕は唐突に、顔全体を覆う暖かくも柔らかい感触で、酸素供給を絶たれた。


「あ……むっ?」


 鼻一杯に、蜂蜜とミルクを交ぜたかのような甘ったるい香りが入ってくる。身体に回された、細い腕。気がつけば、僕は足元から崩れ落ちるように座り込み……誰かに抱き締められているのがわかった。


「……あれは、私達じゃないわ。そうでしょう?」


 僕か。あるいは自分に言い聞かせるかのような聞きなれた声がする。

 近しい人の死は、人を動揺させ、狂わせる。それを僕は分かりやすく体験していた。

 メリーが、死んだ。僕のせいで死んだ。あるいは僕が殺した……。そう錯覚し無意識に現実とトレースしかねないほどに、あの絵はリアルで恐ろしい程に心を揺さぶったのだ。さながら小説に登場するような呪われた美術品のように……。


「悪趣味なことするのね」

『構図を逆にしてもよかったのよ? そうしたらきっと、その立ち位置は逆だったかしら?』

「……そうね。それか私がその絵をビリビリに破くとか」

『あら怖い。……これは破かないの?』

「それよりも、相棒(こっち)が心配なの。いいわよ別に。絵や物語で何度私が死んだって。……私がここにいるのは変わらない」


 毅然としたメリーの声。それは急速に僕に浸透し、やがて狂いかけた意識がはっきりしてくる。僕はそのまま、ゆっくりと彼女の肩をポンポン叩いた。

 柔らかい世界から顔を出した僕は、気恥ずかしさやら色々な感情で少しだけ目を伏せる。

 埃っぽい部屋の臭いは、完全に払拭されていた。


「ごめん、取り乱した」

「いいのよ。あの幽霊凄いわね……生前は人殺しじゃなくて演出家だったんじゃないの?」

『人殺しでも今は芸術家(アーティスト)だもの。絵は失敗ね。二人とも狂気に堕ちてくれなきゃ不完全だわ』


 キャンバスを『えいっ』と、蹴っ飛ばす女幽霊。ガラガラと派手な音を立てて床に打ち捨てられた絵を見た後、僕らは互いに頷き、静かに踵を返した。


『あら、お帰りかしら?』

「話すことは話したろう? 君はただ、僕らに絵を見て欲しかった。違う?」

『さっきの絶望した顔が嘘みたいね。ピグマリオン。ムカつくぅ』

「いいじゃない。へこんでから持ち直す男もまた、いいものよ?」

『お人形さんいい趣味してるぅ~。はいはい爆発爆発』


 シッシ。と、手を降る女幽霊。僕らはそれにベー。と舌を出しながら、玄関へ向かおうとして、ふと、聞き忘れた事を思い出した。


「名前……聞いてなかった。君の」


 僕が立ち止まり、振り返りながらそう言うと、女幽霊は少しだけ驚いたように目を見開いた。何故かすぐ隣で「ム……」という声と一緒に、握った手に物凄い力がかけられたのは……気にしないでおこう。

 何となく聞きたかったのだ。

 幽霊が視えるのだ。怖い思いの体験談はそれなりにある。けど、正気を失いかける程の……そう、あれは恐怖だ。それを味わわせた存在。彼女の言葉を借りるなら、興味だろうか。それが芽生えた。

 すると女幽霊は、にぱっと、天使のような悪魔にも見える笑みを浮かべ、『シィー』と、人指し指で己の唇を押さえた。


『さぁね。あたしは何にでもなれて、何にもなれないの。だから名前なんてどうでもいいでしょ? ただの名も無き女幽霊。それ以上でもそれ以下でもない』


 また逢えるといいわね。ピグマリオンとお人形さん。

 それが最後の言葉……かにみえた。

 やむ無しと今度こそ出ていきかけた僕らに、名も無き女幽霊は『あっ、そうそう』と呟いた。


『時間……大丈夫? そろそろでしょ?』


 最初、彼女の言った意味がわからなかった。だが、それはすぐ隣……。〝203号室側〟から聞こえてくるノックの音で氷解した。


 コン、コン、コン。と、音がして。

 ここでは聞こえる筈がない声が耳元でリフレインする。


『アケテ……。アケテ』


 時刻は……二十二時二十三分を過ぎていた。

 僕らが家を空けた間に、あの白ずくめがまたやって来たのだ。

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