30. すれ違い
その日の夕食中、突然の腹痛に襲われたリズベットは、ダイニングルームを飛び出した。そのまま激しい嘔吐と腹痛、下痢に見舞われ、トイレにこもりきりになる羽目になった。
医師が呼ばれ薬を処方されたものの、容体はかなり悪く、ベッドから一歩も動けない状態になってしまった。しかし、リズベット以外に街へ同行した侍女や騎士たちは、誰も異変をきたしていない。
(みんな同じものを食べたのに、私だけこうなったってことは……食べ物じゃないわね。
やっぱり水のせい? そういえば、元の世界でも「水あたり」って言葉があったわ……)
考えてみれば、この世界に来て以来、生水をそのまま飲んだことは一度もなかった。いつもお茶として沸かして飲むか、何かが混ざった状態のものばかりだったのだ。
(ヨーロッパ旅行だって生水は飲まずに買うのが常識なのに、うっかりしてたわ……)
図らずも、世間知らずな「奥様」であることを露呈してしまった形だ。
侍女たちから昼間の出来事を聞き出したアルゼンは、厳しい態度で彼女たちを叱責した。
「お前たちが付いていながら、なぜあんなものを食べさせたのだ?」
「申し訳ございません。奥様が『この食事も誰かにとっては大切な糧なのだから』と仰り、どうしてもと聞かなくて……」
メリンダが深く頭を下げて謝罪する横で、ベティナは床に伏して許しを請うた。
「私の責任です。私が奥様をあのような場所へ案内したばかりに……」
このままではいけないと判断したリズベットは、無理やり力を振り絞って声を上げた。
「……侍女たちのせいじゃありません。私が言い張ったんです。それに、これは食べ物のせいじゃなくて、たぶん水のせい。
他のものはみんなで食べたけれど、水だけは、私一人で飲んだから。だから、彼女たちを責めないでください」
アルゼンはしばらく沈黙した後、侍女たちに冷ややかな口調で命じて部屋を出て行った。
「今夜は一人にせず、傍で見守るように」
リズベットはがっくりと肩を落とし、天井を見上げて横たわった。
(痛くて苦しいのは私なのに、なんであんなに怒るのよ……?)
なんだか無性に悲しい。自分の不注意が原因なのは確かだが、病人の前であんな風に怒らなくてもいいではないか。
ふと、ヴィーチェの言葉が脳裏をよぎる。
『最悪の瞬間、すべてを失うかもしれない危機の瞬間、その人間の本当の姿が露わになる……』
(こんな些細なことでもあんなに怒るんだもの。本当に大きな事件が起きた時は、それこそ豹変するかもしれないわね……)
体が弱っているせいか、つい悪い方向へと思考が飛躍してしまう。なんだか惨めで、涙がこぼれそうだった。
(バカね。本当に自分が、あの人にとって何か特別な存在にでもなれると期待してたの?)
自嘲気味に呟いたリズベットは、侍女たちに向き直った。
「ただの腹痛なんだから、残る必要はないわ。みんな下がって」
しかし、侍女たちは動こうとしない。
「大丈夫だと言っているのに」
侍女長のジルマが困惑した表情で答えた。
「伯爵閣下の命ですので……」
改めて思い知らされる。ここは彼の家であり、彼女たちもまた彼の人間なのだ。自分のものは何一つないということを。
「……だったら、一人だけでいいわ。4人もいる必要はない。落ち着かないもの」
ベティナが素早く名乗り出た。
「私が残ります」
「ええ。お願いね、ベティナ。ベティナがいてくれるなら本当に大丈夫だから。他のみんなは休んでちょうだい。
私のせいで苦労させてごめんなさい」
「かしこまりました。では、お休みくださいませ」
ジルマたちが部屋を去った後、リズベットはベティナを手招きして呼んだ。
「もう大丈夫よ。何かあったら起こすから、ここに来て一緒に寝ましょう」
ベティナは顔色を変えて手を振った。
「いけません! そんなこと、絶対に許されません!」
仕方なくベティナをソファで寝かせることにし、リズベットは力なくベッドに横たわった。ふと視線を横に向けると、誰もいない隣のスペースが目に入る。
(……無駄に広いベッドだわ)
巨人のベッドに迷い込んだ小人のように、自分という存在が限りなく小さく感じられた。
*** ***
リズベットの部屋を出て、険しい表情で廊下を歩くアルゼン。その後ろに従う腹心のテイトンが尋ねた。
「閣下の部屋へ戻られるのですか?」
アルゼンが黙っていると、護衛のルパートが頭を傾げて尋ねた。
「でも、奥様のご容態が……」
アルゼンは不快そうに言い放った。
「……侍女たちが傍に付いている」
テイトンは何か言いかけたが、口を噤んだ。
自室に入ったアルゼンは、ベッドに倒れ込んだ。自分の部屋であるはずなのに、妙によそよそしい感じがする。
「……くそっ」
気分がひどく悪い。理由の分からない不快感が込み上げてくる。――いや、実はその理由を、彼は分かっていた。
リズベットが苦しんでいる。重い病などではなく、すぐに良くなることは分かっている。だが、彼女の青ざめた顔を見た瞬間、思い出したくもない記憶が引きずり出されてしまったのだ。
冷たい雨風に打たれながら立っていた、母・トリシの蒼白な顔。氷のように冷たくなっていた体。苦痛に体を震わせながらも「私は大丈夫だから、早く中に入りなさい」と自分を急かした、あの濡れた声。
幼いアルゼンは、祖母や叔母に激しく抗った末に折檻を受け、部屋に閉じ込められた。父と祖父が帰還し、ようやく部屋から出られた時には、もう遅かった。意識を失って横たわるトリシは死人のような状態だった。
間もなくこの世に生を受ける予定だった、妹。家族がその誕生をあんなにも心待ちにしていた赤子は、母のお腹の中で死んでいた。 もしヴィーチェが間に合わなければ、あの時、トリシさえも死んでいたはずだ。
あの日以来、アルゼンは泣かなかった。「強くならなければならない」と、幾度となく自分を鞭打ってきた。誰もトリシのことを侮辱できないように、自分は伯爵家の完璧な後継者でなければならず、父・ギセンの死後は欠点のない当主として振る舞わなければならなかった。祖父・ルヴェインが進める政略結婚を、滞りなく遂行するのもその一環だった。
女は、愛は、避けるべき「危うさ」だった。父・ギセンを尊敬し愛していたが、だからこそ、アルゼンは愛に自分を賭けてはならなかったのだ。
胸の奥深くへ埋め、今まで思い出すことのなかった8歳の少年が、あの日の無力感が、なぜ今になって蘇るのか。それが耐え難いほど不快で、嫌だった。




