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28. たった一つの問い

 ヴィーチェはリズベットを製作所の屋上へと連れ出した。『神の翼』がある屋上は厳格に出入りが制限されている場所であるため、侍女たちは下で待たせ、二人だけで上がった。


『神の翼』は巨大な金属の柱の上で、その大翼を悠然と広げていた。強い風が吹けば、まるで羽ばたくかのようにしなやかにうねり、風向きに合わせてその向きを変える。


 ヴィーチェは海が見える側へとリズベットを導いた。


「ここへ上がるのは初めてかな?」

「はい、そうですね。こんなに素敵な場所だとは思いませんでした」


『神の翼』の下に広がる影は思いのほか心地よく、快適だった。そこから眺める海の風景は、静寂に包まれていて美しい。


 ヴィーチェがリズベットの手を取り、その指先に何かを押し当てた。チクリとした感触にリズベットは手を引こうとしたが、ヴィーチェはしっかりと握ったまま離さなかった。


「せっかちだね。……さあ、これでいい」

 手を離したヴィーチェは、リズベットの目の前に小さな指輪を差し出した。赤い宝石が埋め込まれた白金の指輪だった。


 リズベットがいぶかしげに見守る中、ヴィーチェは彼女の左の小指にそれを嵌めた。


「あんたが欲しがっていたアイテムボックスだよ。宝石にあなたの血を込めたから、もうあなた以外の人間は使えない。さあ、物を出し入れするイメージをしてみて」


 呆気(あっけ)に取られながらも言われた通りにすると、手の前に微かに光る円形の(まく)のようなものが現れた。手を差し入れると、吸い込まれるように中に入る。驚いて慌てて手を抜くリズベットを見て、ヴィーチェは愉快そうに笑った。


「面白い反応をするね」

「……ありがとうございます。ここには、どのくらい入るんですか?」


「大きな邸宅一つ分は入るよ」

「そんなに!? いろいろ詰め込んだら、必要なものを探すのが大変そうですけど」


「取り出したいものをイメージすればいいだけさ」

 リズベットはヴィーチェに教わりながら、アイテムボックスの使い方を習っていった。


「せっかく上がってきたんだ。もう少し休んでいかないかい?」

 ヴィーチェは自分のアイテムボックスから、小さなテーブルと二脚の椅子を取り出した。そして、テーブルの上にはワインとグラス、リズベットの好物であるカラスミや果物まで並べた。


「へぇ、準備がいいんですね」

 リズベットは勧められるまま、心地よく椅子に腰を下ろした。


「美しい人、うららかな陽気、そして見事な風景。三拍子揃っているんだ、こんな日をただやり過ごすなんてできないよ」

 ヴィーチェがグラスにワインを注ぐ。


 二人はしばらくの間、言葉もなく目の前に広がる海を眺めながら、ワインを味わった。


 微睡(まどろ)むような心地で海を見つめていると、不思議な感覚に襲われた。世界の境界が曖昧になるような――自分がいた現代の日本が夢で、ここが自分の本来の世界であるかのような、そんな感覚だ。


 泣いて、笑って、挫折して、また立ち上がって刻んできたあの時間は、果たして夢だったのだろうか? だとしたら、なぜリズベットとしての過去の記憶は無意識の底に隠れ、ハルナとしての人生と記憶が、今の自分の意識を支配しているのか。


 今ここにいる自分は、リズベットなのか? それとも、リズベットの皮を被ったハルナなのだろうか。


「……あなたは、独り立ちの準備をしている人のように見えるね」

 ふいに響くヴィーチェの声に、リズベットは現実に引き戻された。


 独り立ち。ヴィーチェの言う通りだ。ここに留まり続けるのは危険だ。だから、外の世界へ出る準備をしなければならない。


 ヴィーチェの淡々とした声が続いた。

「理由は分からないけれど、あなたはアルゼンを信頼していない。彼の(そば)にいて安全だとは感じていないんだ。

 ……私の言っていること、間違ってるかな?」


 なぜ、ヴィーチェはこんなことを言うのか。自分を試しているのか。しかし、一体何のために?


「何をおっしゃっているのか分かりません。アルゼンは良い人です」


 ヴィーチェは静かに笑った。

「ああ、良い人だろうね。……『今は』」


 そう言うと、ヴィーチェは身を乗り出してリズベットの顔に近づけた。

「けれど、人間の本性は最悪の瞬間に現れるものだ。底知れぬどん底へ墜落(ついらく)する直前、自分のすべてを失いかねない危機の瞬間にね。 その時も、アルゼンはあんたにとって『良い人』でいられるかな?」


 リズベットは答えることができなかった。


 ヴィーチェは立ち上がって手すりの方へ歩いていくと、そこに背を預けてリズベットと向き合った。


「今、この瞬間を覚えておいて、リズベット。

 あなたが望むなら、私はあなたの何にだってなってあげる。最強の戦士でも、極上の魔導師でも、最高の恋人でも……あるいは、そのすべてにでもね」


 背後から吹きつける風に、ヴィーチェの髪が乱暴に舞った。その黒い瞳の中に、以前目にした「千切れた黄金の輪」が浮かび上がっていた。


「私に、何を望んでいるんですか?」

 リズベットの声が震えた。


回答(こたえ)さ。たった一つの問いに対する、たった一つの答え」


 するとヴィーチェは、いつもの親しみやすい微笑みを浮かべた。

「心配しないで。それは極めて個人的な事柄で、世界だとか他人だとかには何の関係もないことだから」


 リズベットは、自分の方へとゆっくり歩み寄ってくるヴィーチェを、どうすることもできずに見つめていた。いや、身動きが取れなかった。それは、危険を直感しながらも拒むことのできない、魅惑だった。


「それに、決して急いではいないよ。私には時間はたっぷりある。

 あなたのおかげで今、最高に面白くなってきたところだからね。僕のリズベット」


 ヴィーチェがリズベットに向かって身を屈め、その唇が近づいた瞬間、リズベットは間一髪で手を挙げ、自分の口元を覆い隠した。  


 ヴィーチェは少し驚いた表情を見せた後、ニカッと笑った。

「私の『魅了』が通じないなんて、残念だな」


「……今、私に魔法をかけましたね?」

 ヴィーチェは答えの代わりにリズベットの手を取って立たせた。


 リズベットが素早く手を引いて警戒の眼差しを向けると、ヴィーチェは一歩下がって、(うやうや)しく頭を下げた。

「不快な思いをさせて悪かった。そのつもりじゃなかったんだ」


 そう言うと顔を上げ、突如として小刀を取り出し、自分の手のひらに当てた。

「これから、リズベットが望まないことは絶対にしない。誓うよ。信じられないなら、血の誓いでも立てようか?」


 今にも手のひらを切って血を流しそうな勢いに、リズベットは慌てて止めた。

「いいです! 自分の血だろうが他人の血だろうが、飲みたくありませんから!」


「じゃあ、許してくれるかな?」

 リズベットは短く溜息をついた。

「……分かりました」


 見れば見るほど分からない人。魅力的でありながら、あまりに危険な存在。


「さあ、そろそろ降りようか」

 悪戯(いたずら)っぽく笑って差し出されたヴィーチェの手を取りながら、リズベットは考えた。


(本当に、この人を選択肢に入れても大丈夫なのかしら……)

 知る(よし)もない自分の未来のように、予測不可能な不安が胸をよぎる。


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