14 遠くにいる人を思う
領地での領主としての毎日は穏やかだった。
けれど夜になると、ファリアのことを思い出して眠れない夜を過ごした。傍らに見知らぬ男が寄り添う姿が思い浮かんでは胸が焼かれ、辛い思いをして泣いてはいないかと思っては居た堪れない気持ちになった。
はじめは浴びるほど酒を飲みやり過ごしたが、やがて、その馬鹿らしさに気がついて、そんな夜は、書斎で代々の領主が集めた書物を読んだ。
アンヌマリーにもらった紫の花は、捨てられず本に挟んで持って帰ってきていた。ブランノワ辺境伯領の地誌に挟んでおいたところ、いつの間にかきれいな押し花になっていた。レナートは時折、その花を眺めた。
リレイシェルを守ってくれてありがとう、少女の言葉がレナートの矜持を支えた。
そんな夜がいくつも過ぎ、書斎の本のほとんどを読みつくした頃、本棚の片隅に花に関する本を見つけた。ふとした好奇心で頁をめくる。花の名前など分からないから、秋に咲く花、紫の花を丹念に探し、ようやく見つけ出した。その花の花言葉は、遠くにいる人を思う。長い時を経て、その言葉で思い出したのは紫水晶の瞳の少女だった。
王家からアンヌマリー王女との婚姻を打診する手紙が届いたとき、レナートは一瞬迷った。あの王女をブランノワ領に迎えることができたら、きっと民のことを考えて助けてくれるだろう。きっとそばにいてくれたら幸せだろう。そう考えて、それからすぐにその考えを打ち消した。王女は自分にはもったいない。
断ったはずが、王女本人が遥々ブランノワ領までやってきたことには、レナートも驚いた。
以前会ったときのままの少女のつもりでいたレナートの目の前に現れたのは、一人の美しい女性だった。変わらぬ美しい金色の髪、オレールとよく似た整った顔立ち。以前は涙で濡れていた瞳がきらきらと輝いて、全身から光がこぼれるようだった。
アンヌマリーは全身で好意を伝えてくれる。まして、ずっと敬愛する王女として、特別に思っていた相手だ、冷たくなどできるわけがない。だから、相手はまだ子どもなのだから、婚姻など考えられない、そう思い込もうとした。
けれど、シアラリラ山を二人で見た夜、美しく装った姿を見て、大人の女性なのだ、そして、もう惹かれているのだということに気づいてしまった。
だから、レナートは逃げた。表面だけ取り繕って、時間を稼いだ。アンヌマリーが諦めて王都に戻ってしまえば、きっともう会う機会もないだろう。顔を合わせたとしても、言葉を交わすことなどないだろう。そうして、時間が過ぎてしまえば、今の気持ちもまた薄れていくはずだ。ファリアのときと同じように。
アンヌマリーはずっとレナートの心の支えだった。もし、彼女を受け入れて、そのあとで、彼女が離れていってしまったらと考えると、恐ろしくなる。それならば、初めから距離を置いておけばいい。そうすれば、ずっと敬愛する王女を支えにして生きていける。
アンヌマリーが孤児院を慰問し、施策をひとつ提案してくれたときも、昔と変わらず民を思いやる姿勢に、この方は変わらない、と胸が温かくなった。ずっとこうしてここにいてほしい、助け合ってブランノワ領を守っていけたら幸せだろうと思った。その一方で、アンヌマリーと従兄妹という以上に親しげなラヴェルや、孤児院でアンヌマリーに相談を持ちかけた少年に腹立たしい気持ちになる。
その気持ちを押し隠し、余裕のある大人の顔を取り繕う。そして、アンヌマリーが、あの花を挟んだままの本を持ち出すのを止めることもできず、部屋を出るのを見送った。
アンヌマリーが出て行ってしまうと、部屋の隅に控えていたラウールが冷ややかな声を掛けた。
「嘘くさい笑顔ですね、レナート様」
「……元からだ」
レナートのアンヌマリーへの態度にラウールが不満を持っていることは、その態度の端々から伝わっていた。アンヌマリーが本当は王女であることは、ラウールには伝えていた。しかし、それとは関係なく、ラウールはアンヌマリーのけなげさの虜になっているようだった。ラウールの母親のマルチーヌはアンヌマリーびいきでその話を聞いているから尚更だ。
「何が不満なんですか? 王女殿下ともあろう方が、少しでもあなたの役に立とうと一生懸命だ。あんなに可愛らしい方が、あなたが好きだとあんなに一生懸命になっていらっしゃる。そのどこに不満があるんですか?」
「……」
「あなただって満更でないはずだ。昔、王女殿下に会ったと言いましたよね。暗い顔ばかりしていたあなたが、その時だけ少し明るい顔をした。今もそうだ。殿下といるときのような優しい顔は他ではみたことがない。それなのになぜ、頑なに遠ざけようとするんですか? ブランノワ領にとっても王女との婚姻は悪いものではないはずです」
身近でレナートを見てきた人間の冷静な言葉は、正鵠を射たもので、それだけにレナートの頭に血がのぼる、本来のレナートは直情径行なのだ。それ以上聞きたくなくて机を叩いた。
「もう、ここにいて欲しくないんだ。もう嫌なんだ。見ていたくないんだ」
自分を守るために、そんなことを言った。
その時、部屋の外で何かが落ちる音がした。扉を開いたところには、本が落ちていた。ラウールが拾おうとするのを押し退けて、床に落ちて開いた本と、そこからこぼれ落ちた押し花を拾う。最悪の言葉を聞かれたと気づいた。
花を見つめて立ち尽くすレナートにラウールが、そっと話しかけた。
「レナート様、もう八年だ。時間も過ぎたし、あなたと王女殿下の立場も、あの時のあなた方とは違う。あの時は仕方がない。敵国の人間だった、話し合う時間もなかった。けど、今は違うだろう。あなたが何を恐れているか殿下に話せばいい。捨てられるのが怖いならそう言えばいい」
「言えるわけないだろう。相手は十二歳も年下の女性だぞ」
「私は、殿下は、それを聞いてくださらない方だとは思わない。あなただってそう分かっているのではないのですか」
「……うるさい」
言い返す言葉もない。けれども、心を決めるのは怖くてレナートは悪態をつく。
「母に聞きましたが、王女殿下はこの孤児院の件を最後に王都に戻るおつもりらしい。あの可愛らしい王女殿下ならば、すぐに他の縁談が準備されて、他の男に嫁がれるでしょう。それでもいいんですか?」
アンヌマリーが、幸せそうな笑顔を隣りに立つ男に向ける様が思い浮かぶ。すぐにそれはラヴェルの姿になった。アンヌマリーが自分の元に嫁ぐかもしれない、と挑むように言ったラヴェルの顔を思い出す。
無理だ、と思った。すぐ近くで名前を呼ばれる幸せを、共に過ごす楽しさを知ってしまった今、他の男に嫁いだ彼女を、ただ心の支えにするなどできるわけがない。手が届くところにあったものが失われたことを一生悔やみ続けるだろう。
たとえこの先辛い思いをしたとしても、今あの人を手に入れたい。レナートは、部屋を飛び出した。




