・明日へ来た男
・明日へ来た男
※このお話は彼の視点でお送りします。
いったい何時からだろうか。彼らがお互いに避けるようになったのは。不仲になって、自分を避けるようになったのは。何時からだったろうか。
何を言っても酒を飲み喚き散らすばかりだった父。
何を言っても仕事を続けて鬱憤をぶつけ続ける母。
何を言っても自分から逃げて周りの人を嫌った兄。
物心を付いた時からずっとそうだった。まるで万華鏡のように、真っ直ぐに自分と相手を捉えることなどなく、光を乱反射させていた。
ぶつけられた態度が誰かの行動を悪化させ、悪化した行動がまた、誰かの態度と行動を悪化させていく。
その動きは或いは螺旋であり、貝の奥という狭い暗黒を目指して、光を失うまで続く、螺鈿のようなものだったのかも知れない。
一番若く健やかなはずの時期に、表情と身振りを憎悪に揮った。無意味だった。
言葉と心理を次に若く、まだ健やかなはずの時期に駆使した。不毛だった。
自分が一番大事というくせに、彼らは誰一人として自分と向き会うことも、自分を受け入れることもしなかった。できなかった。余りに出来が悪過ぎた。
彼らに自分を理解させるにはどうすれば。
彼らが自分と向き合うにはどうすれば。
彼らを真っ当な人間にするにはどうすれば。
最初に気付いたのは、彼らが人としては著しい欠陥品であるという認めざるを得ない、しかしなるべくなら認めたくはない事実だった。
祖父母が存命の内から失敗談を話の種にし、どのような失敗、低劣な遺伝的特徴があるのかを突き止めることまでした。家系を検めることさえした。
それぞれの親から代々、生まれつきの短所と育った環境を洗い出せば、現在の親の性格に行きつくことに納得はできた。整合性があった。それが辛かった。
絶望的だった。
自分と同じ遺伝子を持ち、数年早く生まれただけの兄のざまを見れば、当然の帰結に思える。それだけに彼らと同じ目線でモノを見て、考えられない自分が、恨めしくもあった。
とんびの巣に鷹が生まれれば親鳥は雛を食い殺す。
せめていじめの一つもあれば、正義漢を気取って、過保護に舵を切ってくれたかも知れない。
だが彼らの評判が悪かったことと、この時代の主ないじめが、弱者の記号を持った者を、対象としないこともあって、そうしたもしもは起こらずに、終わってしまった。
兄は不良の標的になったが、プライドの高さが災いして、誰の助けも求めなかった。
助けられることもないままに事態が発覚して、彼は自分の無駄な強がりが、無駄であることを明らかにされて終わった。
自分がしたことが無駄、無意味だったことを認められず、認められないから止められずに、それらの不毛な行為を、繰り返してしまう人々がいる。
彼らがそうであり、またそういう人々においては、子孫を残すことさえ、不毛さの再生産以外の、意味を持たない。
ありふれた言い方をすれば、貧困の再生産。
共働きで経済的に裕福のはずなのに、構成員が誰も幸福にならない。これを貧困と呼ばないのであれば、異常や病気という他ない。
何れにしてもという話。
身振りが駄目、言葉が駄目。彼らはとにかく自分への承認を欲していた。しかし褒めても労っても際限が無い。同じことで何時までも賞賛を求め、時には権利のようなものまで、要求することもあった。
彼らが下と見た相手に向かって。
その癖に行為の価値が低く自分の価値が高いので、他の人が同じことをしても、行為を基準に判断するので評価をせず、自分の価値が高いので、同じ行為でも自分のときは、価値が認められるべきと思っていた。
5mmの穴を締めるネジが鉄でもアルミでも、穴を締める価値自体は、同じである。しかも彼らを敢えて素材に例えるならば、より下から数えた方が早いものになるだろう。
だが彼らの自己評価は異様に高かった。厚くて高くて冷たくて卑しい自尊心が、豊富だった。
そんな彼らに自分の本当の姿を見せて、それが如何に不当で間違っているかを理解させるためには、生半可なやり方ではいけなかった。
彼らに彼らの姿を見せられるのは、彼らの声を聞いて共に暮らした自分だけ。だからこそ次の、そして今までの時間を、働き掛けることに費やした。
彼らの真似をすることに。
飲めない酒を飲み、幾つもの仕事をして体を壊し、自分のことを二の次にした。もとより自分のことを優先したことも、されたこともなかったので、気楽なものだった。
彼らから非難の声や口答えがあれば、その都度彼らが言い捨てていったことを、復唱した。家族が自分に言ったことを守っているだけだ、悪いのはお前だと。
自分が自分の教えに背いているという、明確な過失や罪を指摘して、目の前で行い続けることで、少なくとも自分の過ちを認めて謝罪し、或いは自分の口から出たものを取り下げる、そういった前進を見せるものだと思った。
しかし彼らは誰一人としてそうしなかった。
自分の言ったことに耳を塞ぎ、言葉が齎した現実から目を背け、全員が全員、各自がそれぞれに目を背け合うようになった。
口数が減って大人しくはなったが、それ以外の行動は何も改まらなかった。
自己否定もしない。
都合の悪いものは、それが例え自分の人生から出たものであったとしても、無視する。
彼らの出した答えは、実に彼ららしいものだった。自らを絶滅に追い込む、みっともない生き物。
結論として、粗大ゴミから漏れ出した汁が膨張し、ダストシュートから吐き出されたモノ。
尿道と肛門の間からひり出された第三排泄物。
人間呼ばわりが人間の名誉を毀損する出来損ない。
ルーツにおいて肯定されるべき過程を失った生物。
『自分はとうとう人間になれなかったな』
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目が覚めると、そこは病室だった。白い部屋。
他に誰もいない。個室。
重い体を起こして見れば、私服から入院着に着替えさせられている。
静かで、壁に掛けられている時計の針の音が、一番大きいほど。時刻は一時になろうとしている。窓の外から差し込む光は、現実のもの。
自分がいるのは清潔な布団と、白いシーツが乗った簡素なベッド。ベッドの下にはウレタンを張ったような床。傍に黄色いサンダル。
病室の外で何かが動くような様子もない。
誰もいないのだろうか。
ベッドの手すりを掴んだとき、腕に点滴が打たれていることに気付いた。
もう直ぐ終わるような量、それなら看護婦を呼んだほうがいいだろうか。
ナースコールを探して見つけるも押すべきか悩む。押せば人が来る。点滴を抜くのが先か。抜き方が分からない。無暗に動かして針が折れたら怖い。
何にせよ、早くここを抜け出さなくてはいけない。
なぜなら。
なぜなら。
なぜだろう。
「あ、目が覚めましたね!」
ぼうっとしている間に、部屋には人が入って来てしまった。若い男性の看護士だ。
自分と同じくらいの年齢のようだった。
「ちょっと待っててくださいね、今先生をお呼びしますから!」
彼は出て行くと、五分もしないで戻ってきた。一方的に話しかけてくるが、何も答えられない。
それからまた五分ほどして、今度は酒の飲みすぎなのか、およそ生得的ではない、真っ黒な肌の医者が現れた。
「おはようございます。○○さん」
「……?」
『先ずお体の具合はどうですか』とか『この指が何本に見えますか』とか聞かれ、ぽつぽつと答える。
医者が言うには、自分は何処ぞの工場の敷地内で、凍死しかかっているのを発見されて、危ういところを助けられたのだそうだ。
「覚えてますね、○○さん」
寒い。寒かったことと、渇いていく感触と、安心したような気持ちがあった。感覚は甦って来る。
しかし。
「○○さん?」
「○○××さんですよね?」
「わかりません……それ、誰ですか」
何故だろう。自分が何なのか、何も思い出せない。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




