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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
最後の一人編
289/518

・明日へ来た男

・明日へ来た男


 ※このお話は彼の視点でお送りします。


 いったい何時からだろうか。彼らがお互いに避けるようになったのは。不仲になって、自分を避けるようになったのは。何時からだったろうか。


 何を言っても酒を飲み喚き散らすばかりだった父。

 何を言っても仕事を続けて鬱憤をぶつけ続ける母。

 何を言っても自分から逃げて周りの人を嫌った兄。


 物心を付いた時からずっとそうだった。まるで万華鏡のように、真っ直ぐに自分と相手を捉えることなどなく、光を乱反射させていた。


 ぶつけられた態度が誰かの行動を悪化させ、悪化した行動がまた、誰かの態度と行動を悪化させていく。


 その動きは或いは螺旋であり、貝の奥という狭い暗黒を目指して、光を失うまで続く、螺鈿のようなものだったのかも知れない。


 一番若く健やかなはずの時期に、表情と身振りを憎悪に揮った。無意味だった。


 言葉と心理を次に若く、まだ健やかなはずの時期に駆使した。不毛だった。


 自分が一番大事というくせに、彼らは誰一人として自分と向き会うことも、自分を受け入れることもしなかった。できなかった。余りに出来が悪過ぎた。


 彼らに自分を理解させるにはどうすれば。

 彼らが自分と向き合うにはどうすれば。

 彼らを真っ当な人間にするにはどうすれば。


 最初に気付いたのは、彼らが人としては著しい欠陥品であるという認めざるを得ない、しかしなるべくなら認めたくはない事実だった。


 祖父母が存命の内から失敗談を話の種にし、どのような失敗、低劣な遺伝的特徴があるのかを突き止めることまでした。家系を検めることさえした。


 それぞれの親から代々、生まれつきの短所と育った環境を洗い出せば、現在の親の性格に行きつくことに納得はできた。整合性があった。それが辛かった。


 絶望的だった。


 自分と同じ遺伝子を持ち、数年早く生まれただけの兄のざまを見れば、当然の帰結に思える。それだけに彼らと同じ目線でモノを見て、考えられない自分が、恨めしくもあった。


 とんびの巣に鷹が生まれれば親鳥は雛を食い殺す。


 せめていじめの一つもあれば、正義漢を気取って、過保護に舵を切ってくれたかも知れない。


 だが彼らの評判が悪かったことと、この時代の主ないじめが、弱者の記号を持った者を、対象としないこともあって、そうしたもしもは起こらずに、終わってしまった。


 兄は不良の標的になったが、プライドの高さが災いして、誰の助けも求めなかった。


 助けられることもないままに事態が発覚して、彼は自分の無駄な強がりが、無駄であることを明らかにされて終わった。


 自分がしたことが無駄、無意味だったことを認められず、認められないから止められずに、それらの不毛な行為を、繰り返してしまう人々がいる。


 彼らがそうであり、またそういう人々においては、子孫を残すことさえ、不毛さの再生産以外の、意味を持たない。


 ありふれた言い方をすれば、貧困の再生産。


 共働きで経済的に裕福のはずなのに、構成員が誰も幸福にならない。これを貧困と呼ばないのであれば、異常や病気という他ない。


 何れにしてもという話。


 身振りが駄目、言葉が駄目。彼らはとにかく自分への承認を欲していた。しかし褒めても労っても際限が無い。同じことで何時までも賞賛を求め、時には権利のようなものまで、要求することもあった。


 彼らが下と見た相手に向かって。


 その癖に行為の価値が低く自分の価値が高いので、他の人が同じことをしても、行為を基準に判断するので評価をせず、自分の価値が高いので、同じ行為でも自分のときは、価値が認められるべきと思っていた。


 5mmの穴を締めるネジが鉄でもアルミでも、穴を締める価値自体は、同じである。しかも彼らを敢えて素材に例えるならば、より下から数えた方が早いものになるだろう。


 だが彼らの自己評価は異様に高かった。厚くて高くて冷たくて卑しい自尊心が、豊富だった。


 そんな彼らに自分の本当の姿を見せて、それが如何に不当で間違っているかを理解させるためには、生半可なやり方ではいけなかった。


 彼らに彼らの姿を見せられるのは、彼らの声を聞いて共に暮らした自分だけ。だからこそ次の、そして今までの時間を、働き掛けることに費やした。


 彼らの真似をすることに。


 飲めない酒を飲み、幾つもの仕事をして体を壊し、自分のことを二の次にした。もとより自分のことを優先したことも、されたこともなかったので、気楽なものだった。


 彼らから非難の声や口答えがあれば、その都度彼らが言い捨てていったことを、復唱した。家族が自分に言ったことを守っているだけだ、悪いのはお前だと。


 自分が自分の教えに背いているという、明確な過失や罪を指摘して、目の前で行い続けることで、少なくとも自分の過ちを認めて謝罪し、或いは自分の口から出たものを取り下げる、そういった前進を見せるものだと思った。


 しかし彼らは誰一人としてそうしなかった。


 自分の言ったことに耳を塞ぎ、言葉が齎した現実から目を背け、全員が全員、各自がそれぞれに目を背け合うようになった。


 口数が減って大人しくはなったが、それ以外の行動は何も改まらなかった。


 自己否定もしない。


 都合の悪いものは、それが例え自分の人生から出たものであったとしても、無視する。


 彼らの出した答えは、実に彼ららしいものだった。自らを絶滅に追い込む、みっともない生き物。


 結論として、粗大ゴミから漏れ出した汁が膨張し、ダストシュートから吐き出されたモノ。


 尿道と肛門の間からひり出された第三排泄物。

 人間呼ばわりが人間の名誉を毀損する出来損ない。

 ルーツにおいて肯定されるべき過程を失った生物。

 

『自分はとうとう人間になれなかったな』


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 目が覚めると、そこは病室だった。白い部屋。

 他に誰もいない。個室。


 重い体を起こして見れば、私服から入院着に着替えさせられている。


 静かで、壁に掛けられている時計の針の音が、一番大きいほど。時刻は一時になろうとしている。窓の外から差し込む光は、現実のもの。


 自分がいるのは清潔な布団と、白いシーツが乗った簡素なベッド。ベッドの下にはウレタンを張ったような床。傍に黄色いサンダル。


 病室の外で何かが動くような様子もない。

 誰もいないのだろうか。


 ベッドの手すりを掴んだとき、腕に点滴が打たれていることに気付いた。


 もう直ぐ終わるような量、それなら看護婦を呼んだほうがいいだろうか。


 ナースコールを探して見つけるも押すべきか悩む。押せば人が来る。点滴を抜くのが先か。抜き方が分からない。無暗に動かして針が折れたら怖い。


 何にせよ、早くここを抜け出さなくてはいけない。


 なぜなら。


 なぜなら。


 なぜだろう。


「あ、目が覚めましたね!」


 ぼうっとしている間に、部屋には人が入って来てしまった。若い男性の看護士だ。


 自分と同じくらいの年齢のようだった。


「ちょっと待っててくださいね、今先生をお呼びしますから!」


 彼は出て行くと、五分もしないで戻ってきた。一方的に話しかけてくるが、何も答えられない。


 それからまた五分ほどして、今度は酒の飲みすぎなのか、およそ生得的ではない、真っ黒な肌の医者が現れた。


「おはようございます。○○さん」

「……?」


『先ずお体の具合はどうですか』とか『この指が何本に見えますか』とか聞かれ、ぽつぽつと答える。


 医者が言うには、自分は何処ぞの工場の敷地内で、凍死しかかっているのを発見されて、危ういところを助けられたのだそうだ。


「覚えてますね、○○さん」


 寒い。寒かったことと、渇いていく感触と、安心したような気持ちがあった。感覚は甦って来る。


 しかし。


「○○さん?」

「○○××さんですよね?」


「わかりません……それ、誰ですか」


 何故だろう。自分が何なのか、何も思い出せない。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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