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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
最後の一人編
287/518

・聖夜跨ぎ 前編

・聖夜跨ぎ 前編


 ※このお話は三人称視点でお送りします。


 男がアパートへと戻り、手荷物と共に姿を眩ませたのと、警官が聞きこみにやって来たのは、時間にして数分という僅かな差であった。


 身を隠しながら走り、人込みの中では無理矢理に呼吸を整え、それを繰り返して遠くへと逃げた。


 見知らぬ町を知らぬほうへ、知らぬほうへと走り続けたことで、男自身も現在地が、何処か分からぬ場所にいた。


 街なら街で、田舎なら田舎で風景は似通っている。しかし彼は今のところ、奇跡的と言って良いほど直線で動いていた。


 知っている場所の大半が、苦痛の記憶に塗れていた男にとって、未知の場所へと逃げ出すことは、ある種の生存本能のようなものであった。忌避感が無意識に未知を選ばせ、結果として足取りを追えなくする。


 探す側からすれば、手がかりは『手がかりの無い方へと逃げていく』という極めて質の悪い冗談のようなものであり、求められるのは己と相手の無知を照らし合わせる、哲学的な現実であった。


 彼は走っては歩き、歩いてはまた走った。アパートを出てから、一度も立ち止まらずにいたことで、男の喉は渇き切っていた。色で表すなら白以外の何者でもない、肺の痛み。


 深刻な嫌悪感と苛立ちを募らせる疲労。ランナーズハイと呼ばれる現象とは、無縁の状態であった。外は既に暗く、日中よりも寒い。


 何度も何度も吐き出される息の白さが、街灯から離れた夜に、幽かに浮かんでは消えていく。


 人間死ぬ気になればなどという言葉があるが、この場においては事実である。


 手足に軽度ながら麻痺のある男が、常人に比べて遥かに遅いにも関わらず、ここまで幾度となく縺れ、転びながらも、何時間も動かされて、まだ止まらない。


 何故逃げ続けるのか。


 彼の中でその問いに対する答えは、明確な形になりつつあった。自分の幸福が終わる、自由が失われる、その理不尽さ、不条理さに湧く、怒りと悲しみと恐れとが、男の中で強い意思となって、逃亡を助け続けていた。


 しかし限界はある。汗をかいて冷え切った体、喉の渇き、空腹。大きな怪我こそないが、ありとあらゆる疲れが、全身を包みこんでいた。


 そして意思の強さとは裏腹に、男の中での価値観は度重なる環境の急変によって、不安定なものになっていた。


 彼は人気のない方へと歩いていくと、やがて一つの廃工場のような場所に辿り着いた。それは何処にでもある、金属会社の作業場だった。スクラップ会社とでも言ったほうが、通じ易いかも知れない。


 自然界には虫や菌類といった死骸や枯木を餌にし、塵へ還す様々な分解者が存在する。それと似たような人々が、回収してきた家電から車から解体し、取り出し選り分けた、様々な素材を出荷する場所。


 仕事納めが済んでいるのか敷地内には誰もいない。


 小規模な金属会社は個人経営も多く、防犯と呼べる行動は、金目の物を置いておかない程度である。


 本来ならば閉じられているはずの鉄扉も、鍵が壊れているのを誤魔化すために、鎖が巻かれているだけという有様で、来る者を拒めないのが実情だった。


 男は覚束ない足取りで中に入り、目を凝らして辺りの様子を見る。


 直ぐ傍に大型のトラック、反対側には壁に埋もれたロッカールームと見紛うような小さな事務所。そして正面には天井のない、粗大ゴミが積み上がり、または散乱した作業場。奥には重機らしき陰が見えた。


 男は休める所を捜した。


 敷地は壁に囲まれているはずなのに、風が容赦なく吹き込んでくる。埃も舞い上がり、何処かから空き缶の転がる音、何かが地面に落ちる音、ぎいぎいと鉄の軋む音が聞こえてくる。


 化けて出る者などいない筈なのに、恐怖を与えてくる場所。


 事務所は案の定閉まっており、彼はやむを得ず風の少ない地点を求めて、作業場内を歩いた。


 ほどなくして無風に近い一画を見つけ出すと、安堵の息を吐き出し、倒れるように地べたに座りこんだ。粗大ゴミと重機の陰に隠れた、ハエ一匹いない、清潔なゴミ溜めだった。


 改めて周囲を見回せば、まだ使えそうなラジカセや元が何なのか分からない残骸などがあった。風と自分の呼吸音しか聞こえなくなって、ようやく男に思考が戻ってくる。


 とはいえ、これからどうすべきかの見通しが、立つような状態ではなかったが。


(…………)


 いっそ捕まっておけばよかったのだろうか。最初の自棄でいられた頃に捕まっておけば、こんなに不安になることもなかっただろう。


 或いは喫茶店で平和な時間を過ごさなければ、幸福など感じて、惜しむこともなかっただろう。


 罪でもないことで捕まり、償いを強いられる。殺されるような人間が、死んでも自分の足を引っ張る。


 人生から、遺伝子から、何もかも。家族は男にとって先天的な負債だった。それなのに、生きても殺しても消えていかない!


 男は今にも反吐になりそうな溜息を吐くと、頭を二、三度振って、ポケットの財布の中身を数えた。


 先ずは喉を潤し、空腹を満たして休もうと考えた。それ以外には何も思い浮かばなかったし、考えたくなかったからだ。


 男は意を決して立ち上がると、コンビニか自販機を求めて金属会社を出た。ここがどの辺りで、今が何時なのかも、知らなくてはいけない。


 そうして鉄扉を潜りもう一度外へ出ると、男はとある人物と鉢合わせた。


 思わずあっと声を上げてしまう。


「ん、あー」


 向こうも男に気付いたのか、大きな影を揺らめかせて歩いてくる。


 その正体は喫茶店の大柄な女性店員だった。名前は確かサチコといったか。


 女性とは思えない身長で、灯りの少ない夜中に見かけようものなら、都市伝説に遭遇したような不安を、見る者に与えることだろう。


「あんた確かうちの客だったな」

「あ、はい」


 男は不味いと思った。よりにもよって潜伏先を見つけた矢先なのに、それを目撃された以上、次の場所を探さなくてはならない。


「無職っつってたけど、ホームレスだったのか」

「え? あ、ああ、はい。そう、なりました」


 動揺と焦りの充満した脳内が急速に干上がり、漂白されていく感覚が男を襲う。


 その場しのぎの光明が差したとき特有の、まだ首の皮が繋がっていることを、自覚した瞬間。


「保証人がその、いなくなっちゃって。更新ができなくなって、大家さんと揉めたらまだ日数残ってたんですけど、出てってくれって言われて」


「金の切れ目が縁の切れ目っていうけど大変だな」


 女性は男を見下ろしながら話を聞いていた。


 一般的な成人男性よりもずっと大きく、見上げて話すほうは灯りを遮られる形になるので、心理的な圧迫を受け易くなる。彼もまたその一人だった。


「あの、この辺にお住まいなんですか」

「そうだけど付いてくんなよ」


 声の調子が一段低くなる。


「あんたを可哀想だとは思うけどな、だからって家に上げるほど、俺もお人好しじゃない」


「あ、いえ。そうじゃなくて、ここが今どの辺なのかなって」


「フィルム屋近くのガラクタ置き場だな。近くて早川駅だぞ」


 女性は駅の方角へとアゴをしゃくって見せた。どうやらそちらへ行けば、駅があるようだ。


「後はもうシャッター街だ。人も全然いない。後四日もすれば、どこも店を閉める」


「そうですか。あの、バイトさんはバイトの帰りで」


「サチコでいい。今日のバイトは、頭のおかしい奴のせいで、早めに終わったんだ」 


「それじゃあ、どうして」


 男はサチコの言葉を聞いて、改めて彼女を見た。


 オレンジ色の大きなジャンパーで厚着していたが、手ぶらだったのだ。鞄一つ持っていない。


「年の瀬になると暇になるだろ。でも俺は身内と仲が悪くてな」


「あ、そうなんですか」


 その言葉を聞いて、男はサチコに親近感を覚えた。冬休みに入れば学生の自由時間は増える。しかしそれが好ましくない家庭環境にある者もいる。


 自分ほど酷い状態ではないだろうが、彼女もまた、居場所がないから家を出て、ふらふらしているのだろうと男は考えた。


 苗字ではなくいきなり名前を教えたのも、そういう所に理由があるのだろうとも。


「それで、サチコさんはどうするんですか」

「そっちこそどうすんだよ。今晩雪降るらしいぞ」


 男の脳裏にまた別の問題が生じた。この屋根が無い場所に雪が降れば積もることは間違いない。風が凌げても、単純な冷気で死んでしまう。


「俺はコンビニで時間稼いで夜中に帰るけど」

「そうですねえ、ほんと、どうしましょう」


「……あんたさ、警察に追われてるんだろ。海さんが言ってたよ」


 びくり、と男の体が震えた。自分が警察から逃げたことを、他の店員から聞いても不思議はない。男が言葉を失っていると、サチコはそのまま続けた。


「何したか知らないけどよ、いっそ捕まって留置場に行ったほうが、寒さは凌げるんじゃねえか。このままだとあんた、凍死か行き倒れになっちまうぞ」


 完全に他人事の『てい』でサチコは言った。これほど軽々しく無責任な気遣いがあっただろうか。彼女が自分のことを知ったらどう思うか、そんな妄想をかき消すように、男は首を振った。


「僕も、あんまり家族仲は良くなくて、それならそれもいいかなって」


 口に出した瞬間、彼は自分の気持ちが、振り出しに戻ったように感じた。


「そうか。まああんたの人生だからな。命惜しさに自首してもいいし、死んでも嫌だからって死んでもいいだろうさ。俺は忠告しただけだ。好きにするといい」


 サチコはそう言って、二人の間には沈黙が広がっていく。


 色んなものが、終わりを迎えようとしているのが、男にも分かった。分かったからこそ、彼女が背を向けたときに、声をかけてしまった。


「あの」


 そうしなければ、悔いが残るような気がしたから。


「なんだよ」


「あの、ちょっとだけ話していきませんか。ちょっとでいいんで」


 果たして自分はどんな顔をして、この言葉を告げたのだろうか。


 果たして彼女はどんな顔をして、この言葉を聞いたのだろうか。


 ただ確かなことは、彼女が一言だけ『分かった』と呟いたことだった。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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