表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
最後の一人編
281/518

・人生の始まり

・人生の始まり



 男は新たな住所を手にしていた。近くに学校があり人目に付くのが難点だったが、駅まではそう遠くない位置にあり、何より安かった。


 手抜き工事が大々的に暴かれた、賃貸物件の数々に対し、契約していた不動産会社が、祝金をばら撒くという入居者募集のキャンペーンを行ったのだが、蓋を開ければ採用されたのは大半が企業関係者であり、実効支配することで改修工事のための立ち退きを拒み、少しでも費用を抑えようという、前時代的なパワープレイであった。


 これが男に味方した。


 しかもこの物件なんと曰くまで付いていた。老朽化を理由に元々の所有者が手放し、近くの学校とは別の学校が、学生寮とするために買い取ったのだが、先の工事関連で計画は頓挫。


 所有はそのままに誰も口に出さなくなったことで、完全に宙に浮いているという、時代が生んだ時代遅れの襤褸アパートであった。


 そういう世の中の歪んだ動きが男に味方し、そういう無関心な世の中が、男を匿った。


 彼にとって世の中というものは、基本的には味方であった。望んだ、或いはあるべき人間関係に反して。


 男は物流ショップで傷んだちゃぶ台と、型落ちながら現役の家電を購入し、通販で寝具を揃えた。


 初めのうちは、自分のことを知っている人間がいるのではないか、近くに警官がいるのではないか、そんなことを考えて躊躇したものだが、すぐに自意識過剰だと知った。


 当然である。知らない人がある日誰かを殺したとしても、それは知らない人のままだ。


 安心と寂寥感がない交ぜになりつつも、一息を吐いた男は、これからのことを考えた。


 警察に出頭するつもりはなかった。

 怒りも悲しみもあったが、後悔はなかった。


 ただ、失われ続けた人生については、惜しむ気持ちがあった。


 いずれも潤いのある感情ではなく、男の活力を奪うばかりであった。


 男はおもむろにテレビを付けた。部屋に備え付けのレトロな未来志向の安っぽい大型テレビを。


 とりあえず一通りのニュースチャンネルを見て、最後に国営放送のチャンネルに切り替える。余談だがこのアパートは、受信料の徴収対象外らしい。

 

 もっとも、受信料を徴収する機関が暴徒に襲撃されて壊滅し、政府はこれを再建しないことを決定したことが、たった今ニュースで流れたのだが。

 

 男はテレビを消して横になった。何もする気が起きなかった。罪悪感は無く、かと言って自分の人生が、ようやく動き出すような実感もなかった。


 彼の体は壊れていたし、年齢もとうに二十代を終えていた。


 思い出らしい思い出も無い。

 友人らしい友人もいない。


 およそ溝としか言えぬ人生だった。それが逃亡生活の助けとなっていたが、喜んでいい物でもない。


 ただ実感として在るのは、終わりがどこまでも続いていくという、漠然とした感触のみであった。


 料金に見合わぬ広い部屋の窓から外を見ると、もう直に夕暮れが夜になる頃だ。冬の夜は早い。どうするかと思い、テレビを付けて時計を見れば、時刻は午後五時に差しかかっている。


 男は時計を持っていなかったし、タブレット端末や携帯電話の使用状況から足が着くのを恐れて、電池の残量をゼロにしておいたため、使うことができない。


 楽しみが持てない。


 パソコンでネット上の動画を見ることも、読書することも、ゲームをすることも、どこかレジャーに行くことも、旅行に行くことも、女を買うことも、美食に耽ることも。


 何をしたいとも思わない。


 およそ人間が苦痛から逃れるために、欲するであろう娯楽の全てが、苦しみの根源を取り除いたことで、男の中から失われていた。


 苦しめて来る相手がいないのだから、それに求める理由も衝動も、芋蔓式に抜け落ちていた。


 彼の記憶の中には喜びの経験が無く、それはその場限りの感情や、ちょっと長持ちした気持ち程度のものでしかなく、何かをすればそこに繋がるような、得られるようなものではなかった。


 危機感も枯れ、興味も失せ、急速に全てが色褪せつつあった。胸を裂くような情念は、一体どこへ行ってしまったのか。


 どこに居ても居場所がないのなら、その場に留まったとしても同じこと。


 行き場のない無念が、じわりと男の中に湧く。


 自分の居場所でもないのに、自分が居てもいいのだろうか。人を手にかけて於きながら、それよりも遥かに重たい後ろめたさが、体にへばりつく。


 不意に、先日訪れた喫茶店が思い出された。暖かな店内と美味い食事と、ありふれた人々。


 現実としてではなく、お話の中にいるような、性善説のような平凡さ。


 お店に来た人は誰でもそこに居ていいような、そんな雰囲気のする所だった。


 陽気なマスターにアルバイトであろう女子校生と、ぶっきらぼうな感じのする、大柄なパート女性。珈琲の香りとラジオの音。小洒落ているが、どこか垢抜けない内装。


 男は無意識のうちに上着を羽織り、手ぶらのままで部屋を出た。


 力のない足取りで、うろ覚えの街を歩く。


 もしかしたら警察に、見つかるかも知れないということを、考えもせず。


 ふらふらと灯り向かう虫のようだった。


 一時間ほどして、男は再び喫茶店に来ていた。店の名前は『東雲』とあった。外側には輸入物らしき見慣れない菓子類や、シロップのボトルが陳列され、中には暖を取る先客が詰めている。


 ここまでの道と店の名前、男は久しぶりに、何かを覚えたような気がした。


「いらっしゃいませー! ご注文がお決まりでしたらどうぞ!」


 先日と変わらず褐色の美人がレジにいた。


 男のことを忘れずにいたのか、気付いて「あっ」と声を上げる。そのまま小さく頭を下げた。彼も釣られて会釈を返すと、先日と同じようにパンを買い、飲み物を注文した。


 一つ違う点があるとするなら、今度は自然と珈琲を頼めたことか。


 声が出るようになった。彼は自分の変化に、内心で戸惑った。この前はどうして声がでなかったのだろうと自問する。


 疲れていただけか、それともこの店に来て、気分が癒されたからか。それとも。


 それとも単に、自分の中で、あの日が風化していっているのか。


 男は考えるのを止めると、そのまま客としての時間に勤めた。奇妙なことだが、彼の中では正体を隠して過ごすことに、ささやかな義務感と達成感が生じつつあった。


 人間の真似をして過ごすことに、意味を見出しつつあった。


「あの客食い者粗末にするから来ないでほしい」

「サチコさん駄目だよ勤務中だよ」

「だってよ海さん」


 大柄な女性が愚痴を零して注意される。


 どうやら大きいほうがサチコと言い、小さいほうが海というらしい。何を憤っているのかと見れば、大きいほうが手に持ったトレーには、パン一つ分ほどの、パン屑が乗っていた。


 毟るだけ毟って食べなかったのだろうか。


 ――あの女の人ってたまに来てはアレやるわよね。

 ――自分の家でやればいいのにね。


 他の席にいた二人連れの客が言った。

 予想は当たっていたようだ。


 そうして小さな一幕を見終えると、男はまた時間が過ぎるのを待った。


 他の客が帰ると、先日のように、またうつらうつらとし始める。


 心臓の周りが硬く、ひび割れているような心地だったのが、この店に居ると、仄かに温まるのを、自覚せずにはいられなかった。東雲は居心地が良かった。


 この店で、常連となって、こうして居眠りをして、また同じように起こされないだろうか。そういう繰り返しの中の、人間になれないだろうか。


 まるで普通、いや、それよりは少し駄目だが、そのような存在になれたらといいなという、しがらみのない願いが脳裏に浮かぶと、男は痺れの残る手足と内心を振るわせながら、眠りに着いた。


 そして。


「おい起きなお客さん。店仕舞いだぜ」

「あ、すいません」


「あんたこの前もここで寝てたな」

「あ、ええと、すいません」


 男は我知らず、安堵の笑みを浮かべていた。


「事情は知らないけど、この時期にこんな暮らしじゃ体に悪いぞ」


「あんまり居心地が良かったもんで、つい」


 男はしきりに謝りながら、店を出た。外はすっかり夜遅く。振り返れば、さっきの女性がまた後片付けをしていた。


 男はしばらくその姿を見ていたが、やがて冬の夜へと歩き出した。


 仮の宿へ戻らなくてはならないが、彼の家は、別の場所になりつつあった。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ