・人生の始まり
・人生の始まり
男は新たな住所を手にしていた。近くに学校があり人目に付くのが難点だったが、駅まではそう遠くない位置にあり、何より安かった。
手抜き工事が大々的に暴かれた、賃貸物件の数々に対し、契約していた不動産会社が、祝金をばら撒くという入居者募集のキャンペーンを行ったのだが、蓋を開ければ採用されたのは大半が企業関係者であり、実効支配することで改修工事のための立ち退きを拒み、少しでも費用を抑えようという、前時代的なパワープレイであった。
これが男に味方した。
しかもこの物件なんと曰くまで付いていた。老朽化を理由に元々の所有者が手放し、近くの学校とは別の学校が、学生寮とするために買い取ったのだが、先の工事関連で計画は頓挫。
所有はそのままに誰も口に出さなくなったことで、完全に宙に浮いているという、時代が生んだ時代遅れの襤褸アパートであった。
そういう世の中の歪んだ動きが男に味方し、そういう無関心な世の中が、男を匿った。
彼にとって世の中というものは、基本的には味方であった。望んだ、或いはあるべき人間関係に反して。
男は物流ショップで傷んだちゃぶ台と、型落ちながら現役の家電を購入し、通販で寝具を揃えた。
初めのうちは、自分のことを知っている人間がいるのではないか、近くに警官がいるのではないか、そんなことを考えて躊躇したものだが、すぐに自意識過剰だと知った。
当然である。知らない人がある日誰かを殺したとしても、それは知らない人のままだ。
安心と寂寥感がない交ぜになりつつも、一息を吐いた男は、これからのことを考えた。
警察に出頭するつもりはなかった。
怒りも悲しみもあったが、後悔はなかった。
ただ、失われ続けた人生については、惜しむ気持ちがあった。
いずれも潤いのある感情ではなく、男の活力を奪うばかりであった。
男はおもむろにテレビを付けた。部屋に備え付けのレトロな未来志向の安っぽい大型テレビを。
とりあえず一通りのニュースチャンネルを見て、最後に国営放送のチャンネルに切り替える。余談だがこのアパートは、受信料の徴収対象外らしい。
もっとも、受信料を徴収する機関が暴徒に襲撃されて壊滅し、政府はこれを再建しないことを決定したことが、たった今ニュースで流れたのだが。
男はテレビを消して横になった。何もする気が起きなかった。罪悪感は無く、かと言って自分の人生が、ようやく動き出すような実感もなかった。
彼の体は壊れていたし、年齢もとうに二十代を終えていた。
思い出らしい思い出も無い。
友人らしい友人もいない。
およそ溝としか言えぬ人生だった。それが逃亡生活の助けとなっていたが、喜んでいい物でもない。
ただ実感として在るのは、終わりがどこまでも続いていくという、漠然とした感触のみであった。
料金に見合わぬ広い部屋の窓から外を見ると、もう直に夕暮れが夜になる頃だ。冬の夜は早い。どうするかと思い、テレビを付けて時計を見れば、時刻は午後五時に差しかかっている。
男は時計を持っていなかったし、タブレット端末や携帯電話の使用状況から足が着くのを恐れて、電池の残量をゼロにしておいたため、使うことができない。
楽しみが持てない。
パソコンでネット上の動画を見ることも、読書することも、ゲームをすることも、どこかレジャーに行くことも、旅行に行くことも、女を買うことも、美食に耽ることも。
何をしたいとも思わない。
およそ人間が苦痛から逃れるために、欲するであろう娯楽の全てが、苦しみの根源を取り除いたことで、男の中から失われていた。
苦しめて来る相手がいないのだから、それに求める理由も衝動も、芋蔓式に抜け落ちていた。
彼の記憶の中には喜びの経験が無く、それはその場限りの感情や、ちょっと長持ちした気持ち程度のものでしかなく、何かをすればそこに繋がるような、得られるようなものではなかった。
危機感も枯れ、興味も失せ、急速に全てが色褪せつつあった。胸を裂くような情念は、一体どこへ行ってしまったのか。
どこに居ても居場所がないのなら、その場に留まったとしても同じこと。
行き場のない無念が、じわりと男の中に湧く。
自分の居場所でもないのに、自分が居てもいいのだろうか。人を手にかけて於きながら、それよりも遥かに重たい後ろめたさが、体にへばりつく。
不意に、先日訪れた喫茶店が思い出された。暖かな店内と美味い食事と、ありふれた人々。
現実としてではなく、お話の中にいるような、性善説のような平凡さ。
お店に来た人は誰でもそこに居ていいような、そんな雰囲気のする所だった。
陽気なマスターにアルバイトであろう女子校生と、ぶっきらぼうな感じのする、大柄なパート女性。珈琲の香りとラジオの音。小洒落ているが、どこか垢抜けない内装。
男は無意識のうちに上着を羽織り、手ぶらのままで部屋を出た。
力のない足取りで、うろ覚えの街を歩く。
もしかしたら警察に、見つかるかも知れないということを、考えもせず。
ふらふらと灯り向かう虫のようだった。
一時間ほどして、男は再び喫茶店に来ていた。店の名前は『東雲』とあった。外側には輸入物らしき見慣れない菓子類や、シロップのボトルが陳列され、中には暖を取る先客が詰めている。
ここまでの道と店の名前、男は久しぶりに、何かを覚えたような気がした。
「いらっしゃいませー! ご注文がお決まりでしたらどうぞ!」
先日と変わらず褐色の美人がレジにいた。
男のことを忘れずにいたのか、気付いて「あっ」と声を上げる。そのまま小さく頭を下げた。彼も釣られて会釈を返すと、先日と同じようにパンを買い、飲み物を注文した。
一つ違う点があるとするなら、今度は自然と珈琲を頼めたことか。
声が出るようになった。彼は自分の変化に、内心で戸惑った。この前はどうして声がでなかったのだろうと自問する。
疲れていただけか、それともこの店に来て、気分が癒されたからか。それとも。
それとも単に、自分の中で、あの日が風化していっているのか。
男は考えるのを止めると、そのまま客としての時間に勤めた。奇妙なことだが、彼の中では正体を隠して過ごすことに、ささやかな義務感と達成感が生じつつあった。
人間の真似をして過ごすことに、意味を見出しつつあった。
「あの客食い者粗末にするから来ないでほしい」
「サチコさん駄目だよ勤務中だよ」
「だってよ海さん」
大柄な女性が愚痴を零して注意される。
どうやら大きいほうがサチコと言い、小さいほうが海というらしい。何を憤っているのかと見れば、大きいほうが手に持ったトレーには、パン一つ分ほどの、パン屑が乗っていた。
毟るだけ毟って食べなかったのだろうか。
――あの女の人ってたまに来てはアレやるわよね。
――自分の家でやればいいのにね。
他の席にいた二人連れの客が言った。
予想は当たっていたようだ。
そうして小さな一幕を見終えると、男はまた時間が過ぎるのを待った。
他の客が帰ると、先日のように、またうつらうつらとし始める。
心臓の周りが硬く、ひび割れているような心地だったのが、この店に居ると、仄かに温まるのを、自覚せずにはいられなかった。東雲は居心地が良かった。
この店で、常連となって、こうして居眠りをして、また同じように起こされないだろうか。そういう繰り返しの中の、人間になれないだろうか。
まるで普通、いや、それよりは少し駄目だが、そのような存在になれたらといいなという、しがらみのない願いが脳裏に浮かぶと、男は痺れの残る手足と内心を振るわせながら、眠りに着いた。
そして。
「おい起きなお客さん。店仕舞いだぜ」
「あ、すいません」
「あんたこの前もここで寝てたな」
「あ、ええと、すいません」
男は我知らず、安堵の笑みを浮かべていた。
「事情は知らないけど、この時期にこんな暮らしじゃ体に悪いぞ」
「あんまり居心地が良かったもんで、つい」
男はしきりに謝りながら、店を出た。外はすっかり夜遅く。振り返れば、さっきの女性がまた後片付けをしていた。
男はしばらくその姿を見ていたが、やがて冬の夜へと歩き出した。
仮の宿へ戻らなくてはならないが、彼の家は、別の場所になりつつあった。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




