・彷徨う
・彷徨う
暮れなずむ師走の小田原に人々が行き交う。何処かへ向かう者、帰路に着く者、待ち合わせに留まる者など様々な人々が存在している。
その中に一人の男がいた。男は街を彷徨っていた。
年末に浮かれる人々は彼を気にも留めない。寒さに震える人々は、男を気にする余裕がない。
関わり合いにならないなら、誰もが誰だって、構いはしないのだ。例えそこに存在してはならない者が、紛れ込んでいたとしても。
男の姿は灰色のセーターに、カーキ色をしたスーツ用コート、あり触れたジーンズに、色の落ちた革靴。髪は無造作でボサボサになっていた。
荷物は傷んだ黒いキャリーケースと、くすんだ緑色のリュック。腰には不似合いな、明るいオレンジ色のポーチ。
全体的に、調和の取れていない出で立ちだったが、街の空気を押し退けてまで、目立つほどではない。
荷物の邪魔さ、大きさから、すれ違う人がちらりと見るくらいで、不審に思うことはない。
或いは不審に思っても、余裕の無さや、素人目にも見てとれる憔悴、ちぐはぐな外見から、浮浪者と考える者しかいなかった。
当然といえば当然である。人込みの中にいる薄汚れた人間を、頭から殺人犯だと、疑ってかかるほうが、異常なのだから。
もっとも、男はその殺人犯なのだが。
見慣れない商店街を歩きながら、彼は道端の自動販売機から飲み物を一つだけ買った。熱いお茶だった。甘い物を飲みたかったが、敢えて選ばなかった。
理由のない拒否であった。
年末の街は男にとって都合が良かった。誰もが浮ついていて、そうでない人間は鳴りを潜める。
店に入れば暖房が効いており、休みの日の遅くまで明かりがある。これが他の国ならば、街ごと冬眠に入るような、大規模な休みに入る。
冬場に行く当ての無い逃亡劇が、許されるほど環境の整った国は、そうない。
そして環境の整った国の警察は、程度の差は有れどそれなりに優秀である。捕まえられるから許しているのだと、負け惜しみが言えるくらいには。
男は周囲を見回した。
やや寂れつつも、まだまだ活気のある光景だった。自分の家から、どれほど離れているかは知らないが、スーパーとコンビニ以外に買い物をする場所が、死に絶えた近所でないことだけは、確かだった。
――こちら商品です、ありがとうございました。
――映画とかマジで見にいくの。
――それで裏の旦那さんが。
まばらな話し声が、半端なところで抜き出されて、耳に届く。周囲に警官でもいないかと注意を払うも、そのようなものは、影も形も無い。
自分という存在や行為の全てがどうでもよいのか、或いは存在しないくらいちっぽけなのか。接点が無いのだから、意に介するほうが困難なのだが。
ともあれ男は、それに理不尽を感じるという理不尽な思いを抱いた。
気持ちを落ち着けるため、手を温めるために使っていたお茶を開封して、口を付ける。少しだけ温くなってはいたが、まだ熱い。男はそれを、ゆっくりと飲み干しながら、これからのことを考えた。
自分の荷物は着替えと娯楽用のタブレット、ノートパソコン、そしてできる限り手に入れた現金。これが所持品の全てだった。
何かを買う毎に全財産が減っていく。どうにか金銭を得る方法を、手にしなければいけない。
次に住む場所。最早自宅で休むことは、できない。少し前にタブレットを使用した際、ネット上には既に自分のニュースが流れていた。
逃げ場も持たずに家を出たばかりに、衣食住に事欠くようになってしまった。冬に寝泊りできる場所がないのは、生死に関わる。
最悪夜の間だけ歩き続け、昼にどこかで寝るという生活に移らざるを得ない。食事も金が尽きるまでしか食えない。
時代が変わり、チェーン店がゴミ箱に、売れ残りを丸ごと廃棄するようなことも、しなくなった。
男はどうして自分が、こんな目に遭うのだろうと、深く溜息を吐いた。それと同時に腹が鳴った。
家を出るまでの数時間、そして出てからの数時間、彼はまともな食事を摂っていなかった。
疲れと苛立ちと緊張に苛まれ、しかしどうすることもできないので、男はまた歩き出した。親戚も友人も居らず、今日の夜さえ凌げるかという有様だった。
そうしてまたしばらく歩き続けたとき、不意に良い匂いがした。
男が顔を向けると、そこには夕闇に明かりを投げかける喫茶店があった。暖かな光と珈琲の香り、客層はバラバラで、各々が自分の時間を過ごしていた。
灯りに引き寄せられる虫のように、彼は店に入っていた。更に濃くなった匂いは肺を満たし、男に食欲と幸福の予感を齎した。
店内は問屋と兼業の喫茶店のようで、素朴な雰囲気だった。中に有る物は珈琲豆の入った麻袋、豆の品種の名札が貼られた箱、お歳暮用の詰め合わせなど実に様々で、席にはこれまた珈琲のカタログや、来客用のノートなどが置かれている。
レジの向かいにあるケースの中には、数種類のパンが並び、レジの頭上には、ドリンクのメニューが掲げられていた。殆どが珈琲である。
男はケース横のトレーを取り、クロワッサンを二つ乗せレジへ向かった。違いが分からないので、ココアを頼もうと列に並ぶ。
小さな店なので、他の商品を買う客と、順番がかち合うことがある。
「いらっしゃいませ。クロワッサンがお二つですね。お飲み物は如何いたしますか」
応対したのは穏やかな印象の若い女性店員だった。女子というよりは女性だ。やや褐色の肌色に短めの髪をしている美人で、店の名前が入ったエプロンをしている。
男は安らぎを覚え、そのまま注文をしようとした。しかし。
「あ、えと」
ここで男は自分に来たしている変調に気が付いた。それまでは何気なくできていたことなのに、今は声が出ない。人に話しかけることができない。
原因は分かっていた。
「えと、あ、あの」
上手く言葉を出せずにいる内に、男の内心に焦りが募る。何も言い出せないままでいると、レジの女性は一つ微笑むと、小さなメニューを取り出して言った。
「よろしければ、メニューの説明をさせて頂いても、よろしいですか」
恐らく珈琲の違いが分からない、一見さんの困惑と思われたのだろう、と男は判断した。
それはそれで事実だったので、彼はこの助け舟に、乗り込むつもりで頷いた。
「ではこちらから順番に」
女性は丁寧に、かつしっかりと、各種珈琲の違いを説明した。それがなんとも見事だったので、店内の客の視線が集まり、男は気まずい思いをする。
「以上になります」
「あ、じゃあ、ココア、熱いので」
「畏まりました、ココアお願いしまーす!」
男はなんとかそれを頼むと、ようやく席の一つに着いた。顔中に汗が浮かんでいた。それをテーブルに備え付けの、手拭きようの紙で拭い、セルフサービスの水を飲んで、一息を吐く。
店内は穏やかで、なんとも居心地が良かった。
もっと早くにここを知っていれば、こんなことにはならなかったのではと、そう思うほどに平和だった。
「クロワッサンとココアでお待ちのお客さまー」
男は呼び出しに応じてトレーを受け取ると、今日の夕飯に有り付いた。少しの塩味が利いて、生地の甘さが分かるクロワッサンと、牛乳が多いのか、まろやかなココアは良く合った。
どちらも熱々だったが、それが却って男の手を動かした。平らげるまでの、ほんの僅かな時間だったが、自分のしたことや、これまでのことを忘れられた。
店内では話し声は少なく、ラジオの音が聞こえてくるばかり。彼は周りを見た。自分を脅かそうという人間は誰もいない。
もしかしたら、自分のしたことは全部夢か妄想で、それを現実と勘違いして、こんなことをしてしまったのだろうか。
そんなはずはない、分かっていながらも、男は現実に疲れ切っていた。落ち着きを取り戻した今、自分の凶行を思い返し、項垂れる。
(休もう)
頭に浮かんだ言葉はそれだけだった。店で寝るなど非常識な客だと思われるだろうが、店側とて迷惑な客を起こしてくれるはず。
そう考えて男は仮眠を摂ることにした。思えばこの数日、ずっとまともに眠れていなかった。
何が希望なのかも分からないまま、男は淡い期待を抱いて、目を閉じた。そして。
「おい起きなお客さん。店仕舞いだぜ」
「あ、すいません」
案の定店の人間に起こされて、男は目を覚ました。既に他の客はおらず、いるのは自分だけだった。紛うことなき現実だった。
その証拠に彼を起こした女性は、レジにいた美しい女性などではなく、雲を突くような大女だった。
顔は十人並だがそれ以外はどこもかしこも大きい。引き締まっているのは肌くらいでそれも筋肉質。
初対面の人間なら十中八九、平和的な人間には見えないだろう。
「お邪魔しまたした」
「はい、ありがとうございました」
男は自分の荷物と財布の中身を確認すると、寒風吹き荒ぶ外に出た。店を振り返れば、そこにはついさっきまでの喧騒は無く、大柄な女性が、後片付けをしているだけだ。
男はしばらくその姿を見ていたが、やがて冬の夜へと歩き出した。小田原にも簡易宿泊所の類はあるはずだと、今夜の宿を探し求めて。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




