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出戻りサチコのやり過ごし  作者: 泉とも
怒りの日編
112/518

・怒りの日

今回長いです。とても長いです。

・怒りの日


 男はその日も残業だった。というよりも、数日家に帰っていない。


 仕事が終わり家に帰る時間から、次の出勤までの睡眠時間が短過ぎるので、近くの宿泊場所を使うか、社内に泊り込むのが彼の日常だった。


 常用している近所のラブホテルには、彼と同じような身の上の勤め人が犇いており、セックスをしない男の一人客で満室という、都市伝説めいた有様で近隣では有名になっていた。


 個室の中に古い肌着を捨てて行くのにも慣れた客が、訪れ無くなる理由は幾つかある。


 一つ、家に帰れるようになった。

 一つ、会社に泊まる日だった。

 一つ、仕事を離れた。


 その男の理由は三つ目だった。過酷な社会人生活で一日の概念が破壊され、重篤な心神耗弱に陥っていた。

 

 彼は昼休みの時間をずっと駅のホームで、寒風に身を晒し続けていた。インフルエンザになれば、会社を休めると思ったのだ。


 やがて彼は熱が出るようになった。実際は数日前から罹っていたのだが、普段から衰弱しているので、自分が病態かどうかの区別さえ、付かなかったのである。


 そして熱に浮かされた彼はあることを思いついた。


『ていうかここ飛び込んだらいいだけだよな』と。


 そんな思考のあぶくを後押しするかのように、構内に響いたアナウンスが、仮初の熱量に浮かされた男に、誤った決断的行動を採らせとした。


 だがその瞬間、一人の女性が彼の視界に入った。

 息を切らせて、周囲を見回し、誰かを待っている。


 セーラー服だ。地元の高校生かと、彼の思考は逸れた。久しく女性と交際していない。


 学生時代が自分の最盛期であったと振り返りながら、今日が何の日か思い出し、ここに来る電車のことを、電光掲示板で知る。


 電車が来た。身を投げる機会も逸した男は、顔色と同じような色の息を、深く長く吐いた。最後の一呼吸にも似たそれを、幾度か繰り返し、そして。



 彼はその一部始終を見た。



「お前、学校はどうした」

「見送りだよ。お前と違ってな」


 ソレは狼狽していた。自分のちっぽけ過ぎて成り立たない物差しで、物事を図るからいつもボロが出る。上手く行かない。成り立たない。そういう小さい脳のせいで、いつも失敗している男。


 人の気持ちに想いをめぐらせることなど、一度も出来なかった馬鹿。


「昨日の今日で今度はあの人に付きまとってたのか。仕事してねえのかよ」


「んだとこいつ……」


 俺を睨みながら階段を下りてくる。年齢を感じさせない薄っぺらで安っぽい男。中肉中背の小男。


 ソレがコレと言えるくらいの距離まで来たとき、先ほど振り払った駅員が、間に割って入った。


 俺があの人を見送ったときには、もう追い付いていたのだが、もう抵抗する気がないと分かったのか、それとも何か事情を察してくれたのか、黙ってくれていた。世の中の中年男性にも良い人はいるものだ。


「保護者の方ですか」


 駅員の男性がソレに尋ねると、一度だけこっちを見てから『そうです』と答えた。


「違います」


 と俺が答える。


「その人は俺とママへの虐待で離婚して、親権もありません。裁判所の接近禁止が解けるなり、家にやってきて金目のものを取ろうとしました。さっき駆け込んだ家庭にも、付きまとっていたみたいです」


 事情説明に似た呪詛が、自然と口から出て行く。


「離れて下さい。この人は危険です」


 駅員が目を丸くして、俺とソレを交互に見る。判断に困ったのか、一度咳払いをしてからそう言った。黒い衣装の三人は、白く染まりつつある景色の中に、浮いている。


「なんだおまえぇ……」


 唸るようというより、腐って糸を引くような声。


「なんでお前はそうやって人を攻撃して誰が悪い何が悪いって責めるんだ! そんなに俺の何が気に入らないんだ! 言ってみろ! ん? 俺は父親で働いてんだぞ。そんなに俺が悪いのか? お前たちはいいのか、ん?」


 追い詰められたソレが、顔を赤くしてにじり寄ってくる。臭い。酒の臭いがする。


「全部だ。声も顔も性格もこれまでしてきたことも何もかも全部だ」


「なんだあ?」


「チンピラみたいに下からしゃくりあげるような頭の動きも一々同意を求めるようにん?って動物みたいな鳴き声上げるところも自分の人生なのに自分が一番大変でもないのにそう思ってるところも酒の力を借りないと粋がることもできないところも全部気に入らない」


 怒りが寒さとは異なり震えを呼ぶ。


「それに働いてるから何だ。働いたら殴っていいのか。蹴っていいのか。虐待料でも払ってるのか。ふざけんなよ悪くないとこ何処だよ。お前が悪いんじゃねえか。お前が全部悪い」


「なんだってめえ! ちょっとこっちこい!」


 寄ってこないから顔に唾がかかるくらいまで近づいてやる。


「何が悪いだ! 俺は毎日働いて家に金入れてんだぞ!」


「嘘吐くんじゃねえよ真っ先にママの金使い込んで経済的に追い詰めて自分は趣味に注ぎ込んでたろ。ママの通帳が空になったら嫌々金を出してよ」


「うるさい!」


「何が俺の家ではこれが普通だっただ。婆ちゃんお前に手を上げたことなんかなかったそうじゃねえか。嘘つき。仮にお前が子どもの頃殴られたって俺たちに暴力振るっていい訳あるか」


「俺は疲れてんだ! それをお前らが気を遣わないからだろ! 誠意がないからだろ!」


「お前家長で年長者だろうが。お前が俺たちを励ますどころか追い詰めるばかりだから嫌われたんだろ」


「女房と子供は父親に気に入られようとするのが普通なんだ!」


「お前普通じゃねえだろうが。だから裁判で負けて父親でいられなかったんだろお前が悪いよ。お前のせいだよ。毎日毎日酒飲んで何かあったらママに面倒を全部押し付けて大声挙げて喚きやがって。お前にお前の暴れる姿を撮ったDVDを家裁で見せてやったのに都合の悪いことはもう忘れたのか」


 周りの目なんか関係ない。

 むしろもっと増えたって構わない。


「俺の学校の工作だって捨てたよな。何が必要ないだろだ。ろくに見ることもしない話しも聞かないで」


「だって必要ないだろ!」


「そこでなんで家族の思い出だってなんで取って置けないんだよおかしいだろ」


「ええ?」


「俺がいじめに遭えばやり返せといいやり返したらなんでそんなことをしたといいママが過労で倒れたときも病院で詰って車乗れるくせに着替え一つ持って来てやらない。病気をすれば暴言を吐いて自分が弱れば喚き散らした。全部お前が悪いよ。お前のせいでうちは壊れたんだ」


「っ~~~~違う違う違うちいがうううっ!」


 幼児が嫌々をするように首を竦めて何度も振る。


「なんでそうやって人のせいにするんだ! 俺が何をした! そんなのが大事なら持ってれば良かっただろ! 俺は要らないと思ったから要らないと思ったんだ! それが何故悪い!」


 ホームにやたらと大きい声が響き渡る。人を恫喝しなれた人間ならではの下品な大声。ぎゃんぎゃん喚く。


「どうしてそう人を悪く言うんだ。そんなことして何になるんだよ! 俺は父親でそれを盛り立てていくほうが大事だろ! 俺が何をしたって、お前たちがそれを気にしなければそれでいいんだ! 何か言われたらああそうですねって言ってそれでいいだろ! 違うか、ん?」


「お前自分が殴っといて」


「うるさい! 文句を言うな!! 俺を悪く言うな!!」


 勝手にヒートアップした上に散々喚いた挙句語った内容は自分のした仕打ちは頭になく全く自分の非を認めず逆にそれを棚上げする。


 中年の枯れかけた野太い声がヒステリーを起こしている。


「お前の何が父親なんだよ。娘を殴って女房殴って親には顔も見せない。お前俺たちにどんな父親らしいことしたんだよ。金もろくに出さず喚いて殴る奴が父親の訳ないだろ」


 また首を振り始めた。うるさいうるさいと呪詛を唱えながら。真っ向から睨みつけていたのが、今は一歩下がって下を向いて、目だけをこちらに向ける。


「お前よりもずっと偉い人たちがお前はもう父親でも夫でもないって言っただろ」


 俺はもうお前を恐れないし、許せない。


「お前は父親じゃないよ」

「黙れ!」


 視界が少しだけ揺れる。眼鏡が地面に転がる。ほんの少しの痛みが、左頬の上辺りに遅れてやってくる。二回、三回、四回……。


「や、止めなさい!」


 駅員が慌てて止めに入る。それでも抵抗して腕を伸ばしてくる。これで自分の威厳が取り戻せるとでも思ったのか。ソレは子どものように、邪悪で幼稚な笑みを浮かべていた。



 ーーそして。



 サチコの長い腕が振り抜かれた。ゆっくりとした動作から繰り出された、固い拳が男の顔面に突き刺さる。次いで当たった二発目は、先に彼女を殴った男を制止するために、静止していた駅員の腕から、その体を捥ぎ取っていた。


 大の大人が女子高生に殴り返されて、ホームの半ばに倒れ込む。


 傍から見れば滑稽であり、ある種の喝采を浴びるような光景であった。しかしながら上がるのは、この状況を目の当たりにした部外者たちの、騒然としたどよめきばかりだった。


 他のホームや駅ビルからも、既にこの騒動を見た者らが、面白半分に集まっていた。


 中には携帯電話のカメラや、録画機能を使って撮影している者さえいる。下卑た好奇心が、他人の流す血と涙に群がっていた。


 殴られた男は呆けた顔を晒していた。そして周囲を見回して『強く恐ろしい自分』を望めないことを悟ると、瞬時に悲しみの表情を浮かべた。挫けた顔を見せることで、同情を得ようとしたのだ。


「なんでこんなひどいことするんだよお! お、俺は頑張って来たじゃないないか!」


 何一つ中身のないことではあったが、男としては本心である。責任感の欠如と、そこから来る自己保身のための、記憶力の欠如。


 そしてアルコールによる異常酩酊が、男の醜悪な内面で相互に、密接に絡み合い、相乗効果を生み、急速に人格を破綻させていった。


 彼の中には自分を批判する意識も、他者を理解し受け入れる人間性もありはしなかった。有態に言えば人の皮に対して、精神が人の形を成していなかったのだ。都合の悪さがこの男にとっては、都合が良かったのである。この男にだけは。


 だからこそ、今ここで人生のツケとでもいうべきモノの前に、目の前の存在がそうだとも思わず、或いは忘れ、再度向かっていった。火に誘われる羽虫のように。


 この結末は一つの約束事であった。


 サチコは無言のまま男を引き起こし、また殴り飛ばした。本来なら応援を呼んで、複数人で対処するべき惨事であったが、駅員はその決断をしかねていた。


 サチコの行動と男の言動から、おぼろげに見えてきた両者の関係が、非常に危険なものであると推測したからであり、些細な刺激で更なる悲劇を起こす惧れがあったからである。


 それに今日は特別な日だった。そんな日に骨肉の争いをする親子がいる。それを迷惑だからと、余所へ追いやる正しさに、ある種の恐怖を抱いたことも一時邪魔をした。


「分かったから、もう止めなさい。ここは冷えるから、中で話そう」


 それでも諌める声を出せたのは、その良心があればこそだった。サチコは間に入った駅員へ、静かに一礼をして、男の動きを待った。


「俺が、お前らのために、どれだけ頑張ったと思ってんだ……!」


「言ってみろよ」


 サチコは問うた。息も整い汗が引き、冷えるばかりの身体は、今も鈍ることなく力で張りつめている。


「言ってみろよ……」


 サチコは問うた。答えが分かっていて、失望がいや増すと知りつつも。


「お前が俺たちに父親として、夫として何をしたんだ。家の金もローンと自分優先で、いったい何を施してくれたんだ」


 男は返答に窮した。少なくとも約十一年を共に過ごしたはずなのに、娘のことを何も知らない。妻のことを何も思い出せない。嘘さえ吐けなかった。男は回らない頭で、自分を肯定するエピソードを必死に探した。


 自分を棚に上げ、恩を着せる様な言い分を続けてきた。彼の思い出は、そんなことばかりだった。駅員の助けを借りて立ち上がると、直ぐにその手を振り払った。


「し、修学旅行のとき庇ってやった」

「お前が出しゃばったせいで俺は友だちがいなくなったよ」


 妻と離婚し、サチコが男の元に残され、母が孫を引き取りに来るまでの、間にあったことだ。自分の名誉を挽回しようと、見直させようと、感謝させようと思い、小学校の懇談会に行った。


「あ、誕生日」

「誕生日もクリスマスも結婚記念日も祝ったことないだろ」


 毎日酒を浴びるように飲み、毎日のことを忘れている。男の自分の過去への当て寸法は外れた。自分は母と父に祝われたことがあるのに。彼は目の前の相手が、嘘を言っていると思った。


「何処にも連れて行ってもらったことだってない。映画も遊園地も旅行も縁日も。十年暮らして家族の思い出が俺には何も無い。お前が一番覚えてるはずだろ」


 男にとってそれは悪魔の証明であった。言葉を重ねるごとに、少女の顔には怒りや憎しみとは別の苦しみが広がっていった。


「ゲーム機!」

「何処かに行きたいかを聞かれて答えたら、そこへ連れて行かず何故かソフトも無しに買って寄越したんだよな。それで俺が遊べば必ず馬鹿にして邪魔をしてきた」


「俺の家に住まわせてやった!」

「俺が出て行って、お前が追い出した」


 これだけだった。他に探せることが男の中で尽きた。本当に、何も無かった。


「本当に無いのか。俺やママとの思い出が、あんたには本当に何一つないのか……!」


 娘に自分の生まれる前まで、猶予を設けてもらってさえ、何も無かった。


 男は逃げ場を失い、遂に鏡の前に立たされた。


「うるさい、もっと俺に誠意を尽くせよ! 俺を馬鹿にするなよ! 俺を大事にしろよ! 俺とちゃんと向き合えよ!」


 男が一度だけ泣き喚くと、サチコは拳に力を込めた。相手も何もしていなかったかのような言い分は、当事者として生きてきた彼女を、逆上させるには十分だった。


「俺がっ、俺がお前と向き合おうとしたって、お前背を向けて逃げるばっかりだったじゃねえか! 言えよ一つくらい……一つでいいから言えーっ!」


 それは同時に、サチコにとって内心で縋り付きたかった可能性が、潰えたことを意味した。


 救いを求める慟哭が、絶叫に張り裂ける胸の内が、祥子の断末魔だった。


 男はうめき声を上げながら首を何度も振った。涙を流していた。己を憐れむための涙だった。


「おっ俺は父親だぞ! あの家の主だ! イエスだ! 俺があの家で一番偉いんだぞお!」


 サチコは自分の中の感情が、男のために取って置いたような気持ちが、急速に干上がっていくのを感じだ。何もかもが剥がれ、崩れ、抜け落ちて行く。足から力が抜けていく。


「もう、いい。もういい。何がイエスだ、馬鹿じゃないの」


 サチコは男の胸倉を掴んだ。駅員が彼女を慌てて抱き竦めるが、僅かに遅かった。


「お前は最後までお前のままだったよ」


 虚栄心に裏打ちされた空っぽの存在が、殴り飛ばされて宙に浮き、線路へと落下した。


 彼女の目の前には、最後まで父親が現れることはなかった。白線が内と外に、サチコと男を隔てる。


 急速に増える人と音に反比例して、祥子の心は孤独と静寂で満たされていた。ただ一つ、篝火のように灯る想いだけを除いて。


『祥子』は悲しかった。

誤字脱字を修正しました。

文章と行間を修正しました。

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