・大いなる恩寵
今回長めです。
・大いなる恩寵
目が覚めてからずっと雪が降っていて、それは明日まで続くと、天気予報が言っていた。
交通渋滞と事故の情報が、ニュースを賑わせている。
もしかすると西日本側は、そんなことはないので、電車も飛行機もそちら方面には、出られるかどうかというところだ。
そうしてぼんやりとテレビを見ていた折、ミトラスは俺に、こんなことを言った。
――僕は自分の恨みよりも、皆を守るために戦わなくちゃいけなかったから、ちょっとだけ君が羨ましい。サチウス。僕は君から目を背けないし、いざってときはちゃんと止めるから、気にしないで。君があんなに憎しみを表に出すのなんて、初めてだから驚いたけど、嫌いにはなってないよ。
気を遣われたってはっきり分かる。本音もあるんだろうけど、彼が好意を改めて口にするときは、だいたい俺のほうが、何か良くない状態にあるときだ。
まだその関係が変わってないのが嬉しかった。
ミトラスの父親は魔王で故人だ。うちのとは別の方向でクズだったらしく、彼の父親を知る人物は、絶対に良く言わない。反面教師で息子が聖人並に善良になったことが、評価の下げに拍車をかけている。
思えば俺たちは親がクズっていう、似た汚れが人生に付いてるから、その辺は気にすることでもなかったのか。やっぱりというか、相手の気持ちは、相手が言わないと分からない。
でも俺からしたら、母親の顔が分からず、父親がもう死んでるなんて、そっちのほうが羨ましいけどな。
結局のところ、アレはお咎め無しでの釈放になるだろう。接近禁止は半年の時効を迎えたし、この家を相続したのはアレだからだ。家を売ることは出来ないが、泥棒にもならない。
裁判所を頼りたくとも母親は離婚済だし、保護者の婆ちゃんは死んでるし、俺個人が申し立てても、半年間は影も形も見せなかったから、接近禁止の延長は絶望的だし、何より費用と時間がかかる。
当時の俺は東京住まいだったが、今は神奈川県在住である。手続き的には東京から書類を取り寄せて、神奈川の然るべき機関へと提出して、場合によっては東京へも申請して、お沙汰を待つことになるだろう。
真面目な話これには二、三か月かかる。制度の間に落ちるということは、即ち助からないことを意味する。結局のところ、何時の時代も暴力だけが全てってことだな。
それで俺は今、学校から一路小田原駅へ向かっていた。本来ならギリギリになるはずの時間も、担任が諸々の時間を、切り上げてくれたおかげで助かった。
自転車のサドルは雪が積もっていたせいか、超冷たくて股間がぎゅってなる。予めトイレを済ませておかなかったら、間違いなく催していただろう。
正午手前の師走の暮れを、走る車はひとつもない。吐く息が白くなり、たまに眼鏡を曇らせる。本当は視力も回復してるから、その必要は無いんだけど、習慣と安全面を考慮して今もかけている。
今この場に、ミトラスはいない。一応昨日のことがあった手前、家の防犯に努めている。たぶん、俺のことも見てくれていると思うけど。
銀世界には遠い、ファンタジーよりも怪談噺が似合う、都市と景勝地がまだらになった街を、急いで走る。駅に着く。
駐輪場に自転車を置いて、一番安い切符を買う。路線図を確認して、邪魔くさい駅ビルの中を抜けて、改札へ。
構内の見取り図と照らし合わせて手前側、私鉄の四番線の上り。シーズン限定の増設線。小田原から特急で羽田まで一本。これだ。
エスカレーターに乗ってホームに出る。見回す。いない。あの人たちも、電車もまだ来ていない。俺が早く来過ぎたんだろうか。とにかくもう少し待とう。
ーー寒い。
自販機でホットのコーンスープを買って、手を温める。JR方面と違って、こっちは吹き抜けだ。サンダルから覗く汚い指先のような、赤茶けた私鉄のホームから見える景色は、石の灰と降り注ぐ白。
人もまばらな駅のホーム、この人たちもこれから来る電車に乗って、空港へ行くのか。仕事かはたまたプライベートか。
数に直すとパッと見で、一クラス分いるかいないかだ。JR側と違って見廻りの駅員も一人しかいない。一人いる分、まだ良いほうだけど。
「見落としてない、よな」
初めてみる光景だけど、真昼に空港行きの電車に乗る人間、ということを考えると、案外多い様な気がする。
十二時半。まだどちらも来ない。温かい飲み物もこれで三本目。途中休憩を挟んでいるが、人の増える気配もない。
遅い。俺が場所を間違えたんだろうか。念のため駅員にも、聞いて他の路線を見に行く。
駅員に知人の見送りで来たが、場所を間違えたかも知れないと伝えて、見に行かせてもらう。改札は鉄道会社毎に異なるので、別の路線を見に行くのも一苦労だ。
しかしいない。身なりのいい集団の中に、三人連れの家族の姿は無い。戻ったときにはとうとう、件の電車のアナウンスが流れてしまった。それと同時に対岸に見えるホームでは、電車の遅延が出たという声が聞こえてくる。
来ない。どうしたというのか。段々と不安になってくる。何か事故にでも遭ったのか。俺に確かめる術はない。駅の天井に釣り下がった時計は、そろそろ五十分を指そうとしている。電子音が鳴り、空港行きの電車が来たこと告げる。
ここで数分待機して、一時前に出発する。来たけど来ない。どうしてだ。真っ白い新幹線みたいな電車のドアが開いて、待っていた人々が乗り込んでいく。降りる人はいない。
車内アナウンスが聞こえてくるが、全然頭に入らない。反対側の線路には別の電車が来て、出発してしまった。あれじゃないよな。違う。良かった。
本当に大丈夫なのか。飛行機に乗るってことは、チケットを取ってあるってことだ。遅れたら乗れないんじゃないか。そもそも何でここにいないんだ。これに乗れないと、色々と不味いんじゃないのか。
ギリギリまで待ってもあの人は来ない。待っている間に、電車の排気音がする。何か問題が起きたのか、それとも急遽予定を変更したのか。俺が場所を間違えたのか。どうする。
どうしよう。
――小田原駅発、羽田空港行き。間もなく発車します。
どうしよう。どうしよう。
――ご乗車のお客様は、ホームに御忘れ物の無きようお気を付けください
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
――ドア締まります。ドアに手や荷物、髪の毛等挟まれませんようご注意ください。
どうしようもない。
「んんん!」
締まりかけたドアに腕を突っ込んだ。挟まれた肘と拳を通して、骨が軋むような衝撃が走る。その甲斐あってか、半ばまで進んでいたドアが戻った。
「はあ、はー、はっ」
一つのドアの片側に、もたれかかって発車を防ぐ。何やってるんだろう、俺。
――事故の元になりますので、駆け込み乗車はお止めください。
もう一度ドアが締まろうとする。背中を押す力に抗って押し返す。腰を落として踏ん張り、右手は社内の手すりを掴む。左手は車体に這わせた。
「君! 止めなさい!」
後頭部から声がかけられる。視線の先からも駅員が走ってくる。驚いてる、そりゃそうだ。こんな馬鹿なこと、やる奴いないもんな。
「止めてください! 他のかたの迷惑ですよ!」
うるせえなごもっともだよ。走って来たほうの駅員が、俺の腕を掴んで引っ張る。俺の体を痛いくらい強く引き剥がしにかかる。
元より体勢にも無理がある。無理があるから耐えるには、増々無理をしなくてはならない。
「離しなさい!」
「すんません。もうちょっとだけ、待ってください」
駅員に話しても待ったはかからない。車掌に話しても同じことだ。力づくで止めるしかない。
「あと少ししたら、来るんです、だからお願いします」
「分かったから先ず離れなさい! 話は後で聞くから!」
馬鹿野郎。後でってなんだ電車出てるだろうがそれじゃあ。それじゃ意味無んだよ。
「俺の大切な人が、来るはずなんです。お願いします。もう少しだけ、待ってください」
成人男性に全力で引っ張られことに、全力で耐える。顔が真っ赤になって汗が全身に滲む。乗客の批難の目がこっちを見てる。だからどうした。
少なくともお前らよりも、大事な人を俺は待ってるんだよ。
「寒いんだよ早く降りろ!」
「なにあの人」
「あの制服あの学校のじゃない」
うるせえよ糞共。
「手伝います」
目立ちたがりの糞っ垂れが、席を立って近寄ってくるなり俺の足を掴んだ。持ち上げる気だ。だからって俺が出来るのは、耐えることだけだ。ドアの圧力に男性二人分の力が二方向から加わったって、何も変わらない。
来てくれるまで、ずっと待ってるんだ。
額の汗が目に入って視界がぼやける。ずっとホームの階段を見ているけど、誰も来ない。いや、いや!
「……きた」
近くの階段から男と、子どもを抱えた女が、慌てて駆け下りてくる。後ろを気にしている。後ろ?
「はやく!」
自然と声が出た。女の人が俺に気付いた。大声に怯んだのか、掴む手の力が弛んだ。それに合わせてドアから離れようとすると、乗客はそれを見て手を離した。駅員に引っ張られる力で、ホームへと戻る。
入れ違いにあの人たちが、転がり込むように電車に乗ると、ドアが締まった。
「あ! ま、待ちなさい君! 止まりなさい!」
駅員の手を強引に振り解いて、一家が乗り込んだドアの前まで走る。ガラスの向こうに三人の顔がある。概ね初対面だ。息を切らせて、汗だくで、お互い何もくれてやる物なんかない。
男と女と子ども。怯えていた子は、誰にも似てないような気がした。認めたくなかったのか、どっちにしろ、じっくり確かめる時間なんかない。
もう笑うしかなかった。だけど、誰も笑ってない。ママだけは、悲しそうにしてた。
いつかもこうして、庇ってあげた気がする。
――小田原発羽田行、トラブルのため十分ほど遅延して発車いたします。皆様にはご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。ただ今より運行再開します。白線の内側までお下がりください。
ゆっくりと電車が動き始める。
本当に、見送りだけになっちゃったな……。
遠ざかって行く。皆、俺から遠ざかって行く。
今度は幸せになりなよ、ママ。
振り向く。階段の上から、足を引きずるようにしながら、それでもやや早い足取りで、降りてくる男がいた。汗をかきながらさも大変そうな様子で、顔面には恨みと苦しみの色が、ありありと浮かんでいた。
「ママなら行ったぞ」
声をかけるとソレは俺に気が付いた。一瞬狼狽えた後、顔が真っ赤になる。どうしてあの人たちが遅れたのかは、だいたい想像が出来た。
階段から降りて来たのは、俺たちにとって、親と夫である資格のない男だった。込み上げる怒りと憎しみが、何年経っても変わらない。
お前だけは絶対に許さん。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




