・イヴ
今回長いです。
・イヴ
バイトも既に年納めとなり、最後の授業も済んだ。うちの学校は二十五日が終業式だから、明日で今年の授業は明日でお仕舞い。
最後まで付き合ってたら、約束の時間に間に合わないから、途中で抜け出さないといけないな。
「それにしても、君のお母さんがそんなことを」
「結局最後まで、俺のことは考えられなかった。けどまあ、あの人の中に罪悪感が湧いて、良心が芽生え始めたっていうなら、きっと良いことなんだろな」
別の家族の下でなら、他人のことを考えられるように、なるだろうか。
俺個人としては、その可能性はゼロだと思うけど、そこは今のご家族の方々に任せよう。
自分のことしか考えられないなら、自分のために他の人のことを考えるという気付きを、授かる日が来るかもしれない。
俺はとうとうあの人を許せなかったが、幸せを願っていない訳じゃないんだ。
「しかしいつもなら、バイトのある日に部活に出て、普通に買い物して帰るなんてなあ。何だか落ち着かないわ」
「日頃と少しでも変わると、不安になるのってあるよね。僕も働き始めの頃はそうだった」
ミトラスは今は落ち着いているが、仕事大好きモンスターである。
気持ちが疲れていないうちは、休みが必要ない。なので、どんどん働こうというその姿勢のせいか、一部の人間からすれば、禁忌に等しい存在である。
「かと思えば斎も南もいつも通りだし。こういう空気って長続きしないね」
ミトラスの言葉を流しながら、俺は自転車を漕いだ。気温は低く、風は冷たい。
染み込むような淀みは無く、氷のように空気が張っている。速度を出せば鋭さを帯びる冷気を嗅ぐと、自然と目が覚めるような感覚を得る。
でもそれも今だけだ。今晩から明後日まで、雪が降ると天気予報では言っていた。
ていうか今の時点でも、ちらほらと降り出している。明日の晩には猛烈に吹雪くそうなので、ロマンチックは終了のお知らせである。
まあ電車と飛行機が出た後なら、幾ら降っても構わないけど。
「いいことじゃない。ところで今日の晩御飯は何」
「鍋」
通学路にある店は、チェーン店を除けば全て閉まっている。夕飯の買出しを終えて帰れば、七時を少し過ぎた辺りか。
明日は休みみたいなものだ。夕飯は控え目にして、明日の仕込みをしておこう。
何かちょっとだけ凝った料理を作って、見送りが終わったら、帰りにケーキとチキンでも買って帰ろう。
歴史が変わっても、キリスト教までは消せなかったようだ。この世界でも日本では、とりあえずお祭り騒ぎをする日というのは、そのままだ。
「この前おでんだったじゃない」
「餅巾着全部食った奴の抗議なんか聞かないね」
猫が抗議の鳴き声を上げる。可愛いから無意味だ。早いものでもう一年だ。毎年思う。
いや、三年前から、思うようになった。
「なあ、ミトラス」
「なあに」
「今年もありがとうございました」
「まだ早いけど、こちらこそありがとうございました」
お前と暮らし始めてもう四年か。
同じ人とこうして、長年付き合いがあるなんてこと、今まで無かったな。早いとこ卒業して、またあの異世界の日々に帰りたいよ。久しぶりにホームシックだな。
そんなことを考えている間にも、我が家が見えてきた。明りが付けっ放しだった。
「あれ、ミトラスお前、電気付けっ放しだぞ」
「え、そんなはず無いよ。だっていつも暗くなる前に、外に出てるもの」
それはそうだ。そして俺と帰るときは、そのまま合流するから、家の灯りなんか点いてるはずが無い。
誰だ。
家の鍵を持ってる誰か。
「ミトラス、降りてろ」
自転車を降りて、買い物袋を持ち、玄関の前まで行く。中から大音量のテレビの音。いる。鍵穴に鍵を差し込む。手応えがない。開いている。
頭が思考をすっ飛ばして答えを導き出す。ここは実家だ。アレの。鍵が無いなら業者に頼めばいい。アレが自分のしたことで、家に近付いちゃいけないことなんか、誰も知らない。
――やられた。
急いで玄関を上がって俺の部屋に行く。途中のリビングに人の姿が見えたが、それを置いて部屋まで走る。一瞬で余裕がなくなる。俺の。
机の引き出し。案の定開けられている。盗難確認用に入れておいた小銭と、千円札の数枚がきっちり無くなっている。
机の右側の一番下、引き出しの裏を触る。無事だ。ここまでは気付かれなかったようだ。
次に婆ちゃんの、今はミトラスの部屋。
机の中の簪と時計がない。箪笥の中の衣類も、数点無くなっている。そして
『くしゃくしゃにされた紙屑が、足元に転がっている』
――俺の。
俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の。
――――大事にしてたのに。
部屋を出る。紙袋を持った奴が、そそくさと靴を履くのが見えた。全速力で走って、今まさに玄関を開けて出ようとするその背中を。
ありったけの力で蹴り飛ばす。腰から背骨が捥げても構わん!
肉の奥から骨の遮りが、押し込み切った足の裏から伝わる。汚らしいアレのくぐもった悲鳴が聞こえる。
地べたに転がった中年男の手から紙袋を奪う。中には案の定婆ちゃんの衣類。他にも色々。
腰を抑えて身動きが取れないコレの上着を探る。あった。財布から金も奪い返す。酒の匂いを漂わせて呻いている奴を放って、それを元の場所に戻す。
それから改めて家の中を見る。風呂場。新しい石鹸とタオルがない。トイレ、トイレットペーパーがない。台所。作り置きしておいた今晩のおかずと米の残りがない。リビング。テーブルの上には台所から無くなった飯の汚い食いカスと、缶ビールと酒瓶。
中身を捨てて水道で洗ったら、それらを持って玄関に戻る。未だに蹲っている生ごみに缶ゴミを投げつけて、瓶ゴミで割れない程度の力で殴る。
本当なら腹を蹴り飛ばしたかったが、吐かれたら嫌だから、それは我慢して太腿を蹴る。
「ま、待て! 俺はここの家主だ!」
間抜けな命乞いが始まる。相手が誰かも分かってないんだな。それともいないことになってんのか。
俺は頭のほうに回り込んで、屈み込んだ。苦しそうな目が、足元から一向に上がって来ない。
「おい」
声をかけると、女と分かったからか、やっとこちらを見る。家の明かりに照らし出された横顔は、酒の赤から痛みの赤に変わっていた。皺だらけの老人のような顔。
「苦労知らずで艶々で張りのあった顔が随分と老けたな」
「あ、さ、サチコ……か……」
(こいつまだ生きてたのか、なんでまだここにいるんだ)
酒瓶で頭を殴る。
「生きてちゃ悪いのかよこの泥棒。お前親権ないだろ」
「こ、ここは俺の家だ、俺が相続したんだ」
「遺言でまだ売れない上に、俺が住んでるからお前近寄っちゃいけないって、児相と警察と裁判所から言われただろ。何で来た、どうやって入った」
目の前のソレは沈黙して顔を背けた。唇を噛んで靴を睨んでいる。鼻を蹴る。また悲鳴が上がる。痛がりだから大げさで、痛めつけると却って興醒めする。
(こいつさえいなけりゃ家を売れたのに、このままじゃ)
心の声には、俺への罪悪感や命の危機というものが、一つもない。
「とにかく言いつけを破って、しかも盗みまで働いた以上、警察呼ぶからな」
「待て!」
酒瓶を目の前の地面に叩き付ける。割れた音が乾いた空気に乗って、遠くまで響く。
「あ、そうだ、そう、お、お前に会いに来たんだ!」
「俺がいなけりゃ家が売れたのにそんな訳ねえだろ」
痛みに油汗をかいていた、コレの顔から表情が消えて、顔面が後退するように動く。
怯えだ。
いつもなら酒の力で逆に居直るけど、今は痛みでアルコールを飛ばしてやったから、そうもいかないみたいだ。
「何でそれを知って」
「その前に俺に言うことあるだろ」
(なんだ、言うことってなんだ、この糞餓鬼、こんなことしやがってお前が犯罪者だろうが、俺にこんなことしやがって! 絶対に許さないぞ! 俺を馬鹿にしやがって)
「お前は最低だな。もういい偉い人を頼るよ」
「あ、じゃ、じゃああいつだ。あいつに会いに来た」
じゃあってなんだ。ごめんなさいはないのか。
「誰だ」
「あいつだよ、ほら! お前の母親!」
名前でも妻でも嫁でもない。
「あいつがこの家の前にいたんだ。お前がいなかったから帰ったけど」
「……」
「知ってるか、あいつ再婚してるんだ。子どももいる! あいつ俺たちを裏切ってるんだ!」
「知ってるよ」
粋がり始めてまた色を失う。もう吐いてもいい。俺はコレの腹を、サッカーボールみたいに蹴った。何度も何度も何度も何度も。
「ゲボっオエッ、ほ、ほら、アレだよアレ! 別れるときに、俺にお前のこと押し付けた、酷い奴!」
「裏切ってなんかいないんだよお!」
「おぇえッ!」
心の底から自分が被害者だと思ってる加害者を踏み躙る。
「俺があの人を! お前から! 逃がしたんだ! 幸せになれないから! 俺が別れさせて! お前から! 守ったんだ! 俺が! あの人を! そう仕向けたんだよ!」
止まらない、止める気がしない。たった一度の切っ掛け、もう順序なんかいらない、もうだめだ。
「お前さええ、お前さえいなければあ! っその手を除けろお!」
体を縮めて耐える汚物を何度も蹴り、踏んだ。痛みに紛れて、怒りと憎しみが滲み出しているのが、余計気に入らない。
恨んでいるのも起こっているのも憎んでいるのも許さないのも俺だ!
「ここはお前の家じゃないし、お前の居場所でもない。お前はなあ、お前が壊したあの家に帰るんだよ!」
反応が無い。嫌なことを無視しているんだ。触りたくなかったけど、屈みこんで頭を掴んで起こす。無理矢理瞼を開けて、こっちを見させる。
「俺に謝れ」
「……え」
「ママにも謝れ。手を付いて謝れ。暴力を振るってごめんなさいって言え。それで二度と、俺たちの傍に近寄るな」
男は全身を痛めつけられたにも関わらず、憎しみの篭った目をしていた。
(何で俺が。俺は父親だぞ。俺が何で餓鬼なんかに謝るんだ。頭がおかしいんだ。あの女の餓鬼だからだ。俺は悪くない! 絶対に嫌だ)
カス異常者め。心の声を聞けば聞くほど、取り返しも救いようもない。
「もういい」
頭を蹴って踏む。頭蓋を踏みつぶすことはできなくても、頬骨くらいは折れるだろう。いや。
「うああぁあっいたいいたいいたいい! あっああ! うう“う”う“う”!」
「我が身に宿る魔力の川よ、我が意に応えて瀑布と成れ。ごうり」
――にゃあ。
唱えかけた魔法を止める。猫の声がする。何度も何度も俺を呼ぶ。どうせなら、元の姿で呼べばいいじゃねえか。
声のしたほうを見れば、一匹の猫が心配そうに見ていた。どうせなら、最後までやらせてくれたら、良かったのにさ。
最後に顔面を蹴って終わった。疲れた。息が荒れて汗が引かない。
結局泥棒を現行犯で捕まえたと通報し、家の合鍵を没収し、やって来た警官に事情を説明して、引き取ってもらった。
終わったときには九時を回っていた。もう飯を食う気も、作る気も起きない。俺は婆ちゃんの部屋に行って、紙屑をゆっくりと広げて伸ばした。
元は祝儀袋だったそれの表面には、震える字で『サチオオカレ』という六文字が、小さく添えられていた。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




