・ミトラスのレベルが上がった
・ミトラスのレベルが上がった
雨戸を開ければ、そこには雲がまばらに広がる、晴れた空。
乾いた寒風が、冬枯れの匂いを運んでくる。ほんの少しの時間で、部屋中の空気を入れ替えてしまう。
窓を閉めて身支度を整える。用を足して、手と顔を洗い、歯を磨いて、パジャマを脱ぐ。
不揃いの下着の上に、シャツとタイツを装着。糞芋い冬服を着込んで、最後に靴下。
今日の時間割と、護身用のなんやかんやが、鞄に入ってることを確かめる。
それから朝食の支度に取り掛かる。ここでようやく異変に気が付く。
妙だな。家の中が静かだ。いつもは俺と同じか、少し早くには、ミトラスが起きているはずなのに。
珍しく寝坊をしたのか。昨日のことがあるから、少し気まずい。でも声をかけない理由もないからな。仕方ない。起しにいくか。
しかしパジャマ姿の彼は、布団に正座してはっきりと起きていた。
「おはようサチコ」
「あ、おはようミトラス」
「大事な話があります。こっちに来てください。立ってても座ってても結構です」
あ、はい、と間の抜けた返事をして部屋に入ると、俺はミトラスの向かいに座った。胡坐をかいてる俺のほうが、正座をしているミトラスより、まだ背が高い。
彼が切り出した大事な話というのは、二つのことだった。
一つ、俺が復縁しなくてもいいこと。
二つ、俺の気持ちを尊重するということ。
いきなりのことだったが、彼なりに色々と考えてくれていたようで、昨夜からのことを伝えられて、なんとか理解できた。
正直ほっとした。何気に今、こいつの心の声を、聞こうとしてるんだけど、全く聞こえないんだよな。やっぱその辺は魔物というか、ボスキャラ枠だな。
そして気に掛かるのは二つ目。
一つ目を考える段で通った道のようで、何やら猛省しているようだった。
その言い分というのが、律儀というか馬鹿丁寧で。もう一度告白されているような、別れを告げられているような、妙な感じだった。
「一緒に暮らすようになって、ちょっと調子こいてたっていうか。舞い上がってたというか、浮ついていたというか。とにかく嬉しいし幸せだったんだけど、今回のことで、僕はあんまり君のことを、考えてなかったって思い知ったんだ」
ミトラスは真面目な面持ちで、言葉を続けた。
「僕のやりたいことや欲しいものが、君にとって嫌なものだっていうのに、君にやらせようとした。そのことで凄く、おこがましい言い方だけど、傷付いたんだ。同じものを好きじゃないってことに。それも、自分にとって、大事にしてたものが」
言わんとしていることは分かる。
こいつには早い時期に、救いになる仲間がいた。だからその先に、憧れが生まれた。それは否定しない。でも共感もできない。
「それで君を、僕の思い通りにしたかった。でも、それをしたらいけない気がして。君が嫌がりそうだなって思ったら、止めようって思ったんだ」
罪を告白する罪人のように、ミトラスは苦悩していた。
「君を思い通りにしないなら、君はもう僕のものじゃないんだ。ううん、思えば最初からそうだったのに。君を手に入れたんだって、疑いもしなかった。サチウスは、サチコはサチコなんだって、昨日決めたときに、気付いたんだ」
こんなのを朝っぱらから聞かされたんだから、堪ったものじゃない。最近どうにも強張ってたような気がしてた顔が、弛んでどうしようもない。
「ずっとそうしてもいいんだって思ってた。でも僕は、いつも君を自由でいさせたかった。それを忘れてたんだ。僕のものだっていう責任で、君を束縛してた。それを止めたくなったんだ」
嬉しかったけど、寂しかった。どんどん立派になっていく。心を許せる誰かの懐の中で、静かに眠るような生き方をしていたかった。だが人生はそう上手くはいかないらしい。
彼の選択は優しく、そして厳しかった。
「相手を自分のものにしたら、相手への責任が無くなる訳じゃなくて、むしろ新しく、背負わせることになってしまうんだね」
「……そうかもな」
「だからお互いに自分のままで、自分のものでいることがいいんだと僕は思う。今は」
「そうか。ミトラス、俺からも一つ言わせてくれ」
「何」
「いつでも思い直していいし、また別の考えになってもいい。これから先、今のお前の考えが、間違っていると思う日が、たぶんまた何回か来るだろうから。そのときはちゃんと、考え直すんだぞ」
意を決して話していたミトラスは、遠回しに否定されたことに気付いたのか、傷付いた顔をしていた。
彼は気付いているんだろうか。たぶん俺が言いたいことには、気付いてないな。
「俺はな、ミトラス。お前が俺のことを、背負ってくれていることも、嬉しかったよ。曲がりなりに同じことを、俺も出来てたってことも」
心細そうにしている少年。自分が失敗したと思っている。早とちりだな。馬鹿め。
「でもな、こうして自由にしてもらっても、それはそれで、大事にしてくれてるって思うよ。ありがとう。お前は失敗なんかしてない。どっちに転んでもきっと、俺とお前のためになったよ」
髪を撫でる。いつもいい匂いがする。ミトラスは俯いたままだったから、無防備な額に、俺が吸い寄せられても、分からないみたいだった。
触れる。
「あ」
「俺を幸せにしてるって、もっと自信持ってよ」
唇を離すと、顔を上げた彼と目が合った。さっきまで蒼白だった肌に、血の気が戻ってきた。
呆然としたまま、おでこをごしごしと擦ってから、しまったという顔になった。
「あ、ね、ねえ!」
「なあに」
ミトラスはほんのりと頬を赤らめると、やや下を向いてから上目遣いで、消え入りそうな声で呟いた。
「もういっかい、いいかな」
今日は久しぶりに俺からした。
今日は初めて、彼にもういいと言われるほどした。それから朝食を済ませた。久しぶりに沢山笑った。
ああ、危うく忘れるところだった。俺たちって、だいたいこんな感じだったな。
余計なことに気を取られすぎていた。
「なあミトラス」
「なにサチウス」
食器を片付けて時計を見る。普通なら遅刻の時間だけど、今日はミトラスに送ってもらおう。
それならまだ間に合う。彼も既に着替えている。長袖のポロシャツと、オーバーオール。
「俺さ、あの人に会いにいこうと思う。ちゃんと断るために」
うん、分かったと、彼は返事をした。そこには以前までの様な、執着は無いみたいだった。
「お前からしたらさ、俺の親ってことで、期待するところが、少しはあったんだと思う。でもこればっかりはな」
「いいよ、僕ももう気にしてない」
そう言ってくれるミトラスは、さっきまでの状態が、嘘みたいにすっきりしていた。
いつも通りの俺たちに戻ったんだな。いや、俺は平常運転だったんだけどね。
蒸し返しかけてたことが、そのままにしておけたってだけで、それってつまり、何事もなかったって、ことだからさ。
「ありがと」
こっちの世界に置きっ放しの、俺の現実を見て、精神的に堪えたんだろう。失望したんだろうな。
でも何とか折り合いを、付けられたみたいで良かったよ。
本人にこういうのを言うと、きっとまた『気にしてないってば!』って、怒るんだろうな。
「それでさ、頼みがあるんだけど」
「いいよ。なにかな」
「送り迎えでいいんだ。そのときは付き添って欲しい」
ミトラスはそれを聞いて苦笑した。怒っているというよりは、何度も心配されて、うんざりした子どもみたいだった。
「サチウス、気を遣ってるでしょ」
「いやそんなことはない。ちょっと心細いものは、あっただけで」
「嘘。元はと言えば、僕が大袈裟に気にし過ぎてただけだもの。今はそれくらい分かるよ」
見破られてしまった。如何せん気を持ち直すと、もう敵わなくなるんだもんな。
でもこの分なら、またあの人と会っても大丈夫かな。
「安心させようとしてくれて、ありがとう。もう大丈夫だから」
「そっか、ならいいんだ」
彼は小さく頷くと、お茶を一杯淹れて飲んだ。心配してくれてる人が、心配のし過ぎで、逆にこっちが心配になる。
蓋を開けて見れば、そんな落語のような話だったが、その幕だってもう下りる。俺から話すこともないだろう。だからこれで終わりだ。
本当に、俺が気にしてないことで、思い詰め過ぎなんだよ。優しいのも考えものだな。
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