番外 原野の果ての風
新世界の夜明けは、誰もが想像していたよりも長かった。
「天幕之眼」が崩壊してから、最初の春が訪れた。
だが、北境の荒野に伝説のような霊気の噴出が起きたわけではない。
百花が一斉に咲き乱れるような奇跡もなかった。
大地には、旧時代の規則によって引き裂かれた無数の裂け目と残骸が、いまだに残されている。
それでも。
空気の中にいつも漂っていた、息苦しいほどの監視の気配だけは――
完全に消えていた。
荒れ果てた宿場跡。
その脇に、簡素な鉄鍋が置かれている。
鍋の中では、遠くの雪林で獲った霊鹿の肉が煮込まれていた。
ぐつぐつと湯気が立ち上がる。
久しく忘れていた、生活の匂いがあった。
墨三は木杭の上に行儀悪く胡坐をかき、小さなドライバーを手にしていた。
目の前にあるのは、廃墟から拾ってきた上宗連盟の監察傀儡のコア。
彼女はそれを叮々当々と分解しながら、ぶつぶつと呟いている。
「まったくもう」
歯車を一つ取り外す。
「高次元の爺さんたちは、偉そうにしてるくせに、底層コードはめちゃくちゃじゃん」
さらに一つ。
「ちょっと因果の死のループを入れただけで、あっさり停止するんだから」
墨三は首を横に振った。
「技術者として恥ずかしくないのかな」
向かいに座っていた晏清は、重剣を布で拭いていた。
数か月にわたる療養を終え、肩の傷はすでに癒えている。
身に着けているものも、以前の重い鎧ではない。
今は、動きやすい玄色の武服をまとっていた。
晏清は墨三の足元に山のように積まれた歯車や鉄屑を一瞥する。
「無駄口はいいから」
淡々と言った。
「夕飯を持ってきて。肉が焦げる」
「はいはい」
墨三は舌を出した。
工具を素早く懐へしまうと、鍋のそばへ駆け寄る。
そして枝で油の浮いた鹿肉を大きく一切れすくい上げ、そのまま口へ放り込んだ。
「んぐっ……!」
熱さに顔をしかめながら、息を吹きかける。
「熱っ……でも、おいしい!」
そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、終夜」
「ここにもう半月もいるよね」
「これからどこへ行くの?」
墨三は指を折りながら考える。
「南の万剣海?」
「それとも、東海で生き残った上宗連盟の連中が再建してる坊市?」
少し離れた場所。
終夜は斑のついた石柱にもたれかかり、手にした一本の鉄剣を眺めていた。
刃を入れられていない、あの鉄剣。
彼はすぐには答えなかった。
ただ、ゆっくりと目を上げる。
遠くに見える雪山。
その白い峰が、春の陽気の中で少しずつ姿を変えている。
観測所による抑制がなくなったことで、天地の霊気は再び自然に循環し始めていた。
風には、土と芽吹いたばかりの草の匂いが混じっている。
終夜は静かに言った。
「どこにも行かない」
墨三が首を傾げる。
終夜は立ち上がった。
そして、鉄剣を腰へ戻す。
二人の方を振り返り、淡々と続けた。
「古い網は、もう砕けた」
「だが、新しい道は始まったばかりだ」
一瞬、遠くを見る。
「俺たちが行くのは――」
「『因果の網』でさえ、見ることのできなかった場所だ」
晏清は重剣を背負い直した。
そして、ほんのわずかに口元を上げる。
「悪くない」
墨三は手についた油をぱんぱんと払い、大きな毛織り帽子を掴む。
それを頭に被ると、いつものように笑った。
「じゃあ、行こう!」
「どうせ私の工具箱には、まだ世界全部の秘密を入れる余裕があるんだから!」
三人は、それ以上何も言わなかった。
荒野の果て。
昇ったばかりの朝日が、大地をゆっくりと照らしている。
三つの影が、再び歩き始める。
やがてその姿は――
広大な地平線の彼方へと消えていった。
――全書・完




