29話「敵対」side伊原
朝の7時頃。
その日、俺は朝食をいつもより早めに済ませ、家を出た。制服ではなく、白いTシャツ姿で。
出発が早い理由は、朝練のためだ。陸上部の朝練は基本的に任意参加で、集まる部員もせいぜい10人程度らしい。
俺は入部してから、しばらくの間、朝練への参加を見送っていた。だがある時、顧問から「伊原もどうだ」と誘われ、背中を押される形で参加を決めたのだ。
そして今日、初めてその活動に加わることとなる。別段楽しみというほどではないが、ちょっとした気分転換にはなるだろうと思っている。
朝特有の澄んだ空気を感じ、鳥のさえずりに耳を傾けながら、俺は学校へ向かった。
■
いつもの集合場所である用具倉庫のそばへ行くと、ベンチに足を組んで座り、スマホをいじっている部員が一人いた。
……名田だ。
その姿を見た途端、俺の中に僅かな緊張が走る。一瞬躊躇ったものの、挨拶だけはすることにした。
「……おはようございます」
名田の座るベンチに近寄り、声をかける。
すると俺の存在に気づいた彼は、手元のスマホから一瞬だけ顔を上げた。
その瞳には剣呑な色が浮かんでいたが、すぐに視線はスマホへ戻ってしまう。
「おはよう」
こちらを見ず、低い声で返す名田。愛想のない態度に一瞬文句を言いそうになったが、こればかりは人のことを言えないので黙っておいた。
……ちょっと早く来すぎたのだろうか。まだ他の部員が見当たらないあたり、俺は2番乗りらしい。
どうも、こいつと二人きりでいるのは落ち着かないな。
俺はそれとなく彼との距離を取るように、ベンチの端へ腰を下ろした。
「おい」
名田が突然こちらに声をかけてきた。
「……何」
俺もつられて、彼と同じような低いトーンで返事をしてしまう。
「昨日お前が置いたあのコーン、場所を間違えていたぞ」
そう言って名田は、グラウンドに設置されているコーンの一つを指差した。昨日、朝練用にと顧問の指示で俺が配置したものだ。
「俺が直しておいた。……タイムが狂う原因になるから、気をつけろよ」
呆れたように言い放つ名田に、俺は思わず拳を握り締める。だが自分のミスではあるので、「わかった」とだけ返した。しかし、それが彼には不満だったようで……。
「感謝の言葉ぐらいないのか」
と、揚げ足を取るように文句をつけてくる。それを聞いて、俺は頬が引き攣るのを感じた。
いちいち鬱陶しいな。
「……アリガトウ」
棒読みになっている自覚はありつつも、前を向いたまま礼を述べる。名田は「ふん」と鼻を鳴らし、足を組み替えた。
ところが、今度は嫌味ったらしい声音で話を振ってきた。
「お前、朝練なんて来るタイプには見えないが、何が目的なんだ?」
「……は?」
その意図の読めない質問に、俺はぴくりと眉を動かす。
「勝つ意欲のなさそうな奴が、どうしてここにいるんだろう、って意味だ」
「何、ここに来ちゃいけないわけ?」
「質問を質問で返すな」
思わず互いに顔を向け、ぎろりと睨み合う。
……無用な言い合いになっているのはわかっている。だけど、反発せずにはいられない。
「……別に、気分転換だし」
俺はそっぽを向き、地面へ吐き捨てるようにつぶやいた。だが、その答えがますます気に入らなかったのか、名田はひときわ大きな声で「へえ!」と反応した。
「気分転換だと。呆れた!」
彼は大げさにため息をつき、背もたれに深く身体を預ける。
「箕面の目は節穴だったんだな。見る目がないというか」
そう言いながら、こちらへ歪んだ笑みを向けてきた。
「はあ? 決めつけないでもらえる?」
その嘲笑に、俺はつい立ち上がってしまった。
「事実だろ?」
「事実じゃない」
売り言葉に買い言葉とは、まさにこのことだろう。そう理解していても、彼が箕面の名前を持ち出したことで、不快感は募る一方だった。
その時。校門の方角から、複数の話し声が聞こえてきた。そちらを見れば、朝練の参加者と思われる体操着姿の部員がちらほらいる。
その中には箕面の姿もあった。
「おーいお前ら何してんだー!」
箕面は集団から離れ、早足でこちらへ向かってきた。どうやらこの険悪な空気をすでに察しているらしく、訝しげな顔をしている。
「……おはよう、箕面」
自分でも呆れるほど、低い声になってしまった。
俺に続いて名田も「おはよう」と挨拶するが、こちらも負けず劣らず不機嫌そうな声だった。
「お前らなんか言い合ってたろ。朝からエキサイトすんなよなー」
箕面は片手を腰に当て、俺達をたしなめた。普段のおちゃらけた雰囲気が鳴りを潜めていて、妙な迫力がある。
「……わかった、ごめん」
あくまで箕面に対する謝罪のつもりで、俺は軽く頭を下げた。
■
やがて部員が集まり、朝練が始まった。
放課後の部活とは、だいぶ雰囲気が違う。澄んだ朝の空気、まだ明かりのついていない教室、部員同士の短いやり取り。あらゆる場面で余計なノイズが減ったように感じられ、普段よりもフットワークが軽くなった気がした。
まずは、いつものストレッチと数本の流しをこなす。ここまでは順調。
……だが、異変が起きたのは、設定された距離のタイムを計測する時だった。
短距離組の列の先頭には箕面がいる。彼は準備万端といった様子で、その場で軽く跳ねながら腕を振っていた。
俺は、その様子を中距離組のエリアから眺めていた。
「よーい……」
短距離組の計測係が短く合図を出す。
直後、箕面は勢いよく駆け出した。
一定の間隔で地面を蹴る音が響く。その洗練された無駄のない動きに、俺は改めて見入ってしまった。朝だからといって、調子が狂うタイプではなさそうだ。
そして、箕面が勢いよくゴール地点のコーンを横切ったところで、ストップウォッチが止められた。
しかし。
「11.86秒……あれ?」
計測係が手元のストップウォッチを見て声を上げた。納得がいかないような表情を浮かべ、「うーん?」と唸っている。
ほどなくして、ゴール地点の先まで走り抜けた箕面が、計測係のところへ戻ってきた。
「ん? どうしたー?」
「いや……なんかタイム落ちたなって」
「え?」
どれ、と箕面が係の持つストップウォッチを覗き込む。そして、表示を確認した彼が眉を上げた。
「あれ、ほんとだ」
「計測ミスかな……いつもより0.4秒遅い?」
「……」
原因を考えているのか、箕面は思案するように顔を上へ向ける。
……少し離れた位置から俺も様子を見ていたが、正直、彼の走りに違和感はなかった。コンディションに問題があるようにも見えない。
ならば、計測側のミスだろうか?
俺がそんなことを考えていると、箕面が人差し指を立てて「もう一回走るわ」と列の先頭へ戻っていった。
「行くぞー」
「よーい……」
係の合図で、箕面は再び走り出す。
その姿に、やはり異常は見受けられなかった。
やがて、ゴールに合わせて係がストップウォッチのボタンを押したのだが……。
「……やっぱり遅い?」
「え?」
計測係がストップウォッチを、走り終えた箕面に見えるように差し出した。すると彼は露骨に眉をひそめる。
「さっきより0.07秒しか速くなってない!?」
あまりの衝撃からか、箕面の声が大きくなる。周囲の部員も口々に「どうした、大丈夫か」などと心配していた。
すると。
「……落ちたものだな」
俺の前にいた名田が唐突に口を開いた。大声ではなかったが、はっきりとした物言いに、部員達が一斉に振り向く。
名田はゆっくりと箕面のもとへ歩み寄り、言葉を続けた。
「トップランカーとして名を馳せていたお前が、こんな体たらくでどうするんだ?」
そう言って、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「は?」
これにはさすがの箕面も苛立ったらしく、目の前に来た名田の顔を鋭い眼差しで見据えた。
「まーたそういうこと言う。仕方ないだろ、こういう日もある」
「妥協か? 呆れた」
乾いた笑い声を上げる名田に、たまらず俺は顔をしかめた。……性格悪すぎだろう、こいつ!
「……箕面を超えようと俺なりに努力してきたのだが、これじゃ意味がない。指南を仰いだ俺が間違いだったようだ」
名田は勝手にそう結論づけると、箕面のもとから立ち去ろうとした。箕面は言い返すこともなく、ばつが悪そうに俯くばかりだった。
俺は無言のまま唇を噛み締めた。
……正直、俺は勝ち負けにこだわるほうではない。
陸上部に入ったのも気分転換で。
ただ刺激をもらいたくて。
だけど今なら思える。
こいつに勝ちたい、と。
「ちょっと、さ!」
中距離組の列へ戻ってくる名田に、俺は声をかけた。
「なんだ」
名田が足を止める。そして俺は彼の真正面に立ち、言いたいことをぶつけた。
「あんた、いちいち人に嫌味言わないと死ぬわけ?」
「はあ?」
不愉快そうに片眉を上げる名田。構わず俺は続ける。
「時間を割いてまで俺に走り方教えてくれた箕面に、『妥協か』なんて言う筋合いないと思うけど? むしろ追求してたんじゃない? 走ることそのものを」
誰かに勝つとかじゃない。ただ前へ進むだけでもない。
箕面は俺のペースに合わせてくれた。だから俺も、自分なりに前へ進もうと思えたんだ。
そんな彼を、0か1かみたいな評価をすることが腹立たしい。
「なんだよ追求って。勝つことに貪欲であるのは当然じゃないか? それを箕面は――」
「まあ、あんたの『勝ちたい』って気持ちも少しわかったけどね」
彼の言葉を遮るようにして、俺は言ってやった。
「俺、あんたには勝ちたくなった」
「は……」
未だ要点が掴めていない名田に俺は追撃するように、言葉をぶつける。
「あんたの負け惜しみが聞きたい」




