1話「椅子」side高月
――俺は彼を傷つける者が許せない。
――俺は彼を傷つけることが許せない。
――だけど一番許せないのは。
――彼の傷に気づけない俺だった。
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俺が小学生の頃、よく目にした光景があった。
それは、突然キッチンで俯いて震え出す母の姿。そして、その母の両手を握る父の姿だ。父は怯える母を落ち着かせるように、こう言う。
「落ち着いて。大丈夫。そのままでいい。ここは安全だから。――……」
そう静かに、言葉のひとつひとつを噛みしめるように、「いつもの呪文」を母に唱えた。最後のほうは小声でよく聞き取れなかったけど。
すると母は、まるで何かから解放されたかのように、ピタッと震えが収まるのだ。
やがてゆっくりと顔を上げる母。その表情は嵐が去ったあとの晴天のように、決まって穏やかなものだった。
ごめんね、ありがと。
そう言って一息つくと、母は夕食作りを再開した。先ほどのことなどなかったかのように、テキパキと調理を進めていく。
その間も父はまだ心配なのか、母のそばで調理する様子を見守っていた。時折、母の助けになるように、離れた場所にある調味料や皿などを手の届くところに置いてくれている。
そうして母が本調子に戻ったことを確信した父は、何事もなかったかのようにリビングのソファへ戻っていった。
母には不安症という心の病気があるらしく、ときどき突然、強い不安に襲われることがあった。
その理由は母自身にもよくわからないそうだが、幸い発作は家の中で起こることがほとんどだった。
父はそんな母をずっと支えてきた。
最初の頃こそ対処に苦労していたようだけど、今ではすっかり慣れたものだ。父がいつもの呪文を唱えると、母はたちまち落ち着きを取り戻す。
……そんな両親のやり取りをそばで見ていた俺は、父の魔力に驚かされていた。
そこで俺は、呪文と手を握る動作に、何か特別なチカラが宿っているに違いないと踏んだ。
たとえそれら自体に意味がなくとも、父の血が流れる俺なら、その呪文と仕草で誰かを癒せる……今思えばチープな根拠だったけど、当時の俺は本気でそう信じていた。なんなら、すぐにでも試したいと思った。
だから父に聞いた。
「かーさんに言う呪文あるじゃん。最後なんて言ってんの? いつも聞こえない」
再現するにあたって、呪文は全文きちんと頭に入れておきたいところだ。
俺の質問を受けた父は、一瞬目を見開いた。
しかしその後、苦笑しながら「お前にはまだ早い」とあしらわれてしまった。
そのときの不完全燃焼な感じは、今もまだ残っている。
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時は流れ、俺は高校生になった。
ブレザーがかっけえ、という理由だけでこの高校を選んだのはここだけの話。
とはいえ、決して偏差値は低くなく、それどころか難関といえるレベルだ。
この学校を志望していることを周りに話したら、「すげえな」とか「えらいなー」と、なぜか結果を出す前から褒められまくった。まあ、受かったからいいんだけど。
……志望するだけで「偉い」「すごい」に値するものなのかねえ、とやたら斜に構えていた俺は、そんな反応に違和感を覚えていた。
だけど、今になって気づいたことがある。
周りの連中がワッショイしてくれたおかげで、その声援自体が俺の意欲を燃え上がらせる着火剤になっていたんだ。
周囲に目標を公表することが、こんなにも有意義だったとは。俺は心の中で友人たちに感謝した。
そして、入学から二ヶ月が経った。
高校生活も板についてきたこの頃、少しずつ俺の周囲に交友関係が広がってきている。俺の「来るもの拒まず去るもの追わず」のスタンスが、わかりやすく滲み出ていたのだと思う。要は話しかけられやすいってことだ。
いろんな人と会話するなかで、陽気なやつ、世話焼きなやつ、落ち着きのあるやつ……といった具合に、俺のところに集まるメンバーも徐々に固定化されてきた。ここでようやく「いつメン」と呼べる存在ができていたことに気づく。
みんなに囲まれてワイワイ過ごす世界は居心地がいい。進学や進路を気にする前に、この環境をひたすら堪能するのも悪くないなあと、ぼんやり思っていた。
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伊原ケヤキ(いばら けやき)という男がやたら目につくようになったのは、彼からのあるひと言がきっかけだった。
昼休み。いつもどおり、友達と教室の中央で椅子を囲んで駄弁っていたとき、突然後ろから肩を叩かれた。
最初は軽く叩いたようだった。だけど、俺がちょうどそのタイミングで体を揺らして大笑いしていたため、気づけなかった。
もう一度強めに叩かれて、なんだなんだと振り返る。
……立っていたのは、クラスメイトの伊原ケヤキだった。
伊原は座っている俺を無言で見下ろしている。
まず目を引いたのは、その表情だった。
小綺麗な顔立ちに似つかわしくない、憮然とした顔。
心底うんざりしたように眉をひそめ、何か言いたげにしている。
俺、なんかしたかな?
そうオロオロしていると、伊原が口を開いた。
「それ、俺の椅子なんだけど」
今俺が座っている椅子の背もたれに手を置いて、彼はそう言った。
「えっ、あー」
自分が腰掛けている椅子の背もたれに目をやる。
これ、お前の椅子だったのか。誰も座っていなかったから、つい借りてしまっていた。
そうだ、最近席替えがあったから、伊原の席がどこなのか曖昧になっていたんだ。……それにしたってトゲのある言い方だな。
「悪い」
そう言って立ち上がり、椅子を伊原のほうへ押しやる。伊原は黙ったまま背もたれを掴み、自席に戻した。そして、そばの窓へと顔を向ける。なぜか伊原はそこに座ろうとしない。
「使わねえの?」
使わないのなら、今すぐ俺を退かせる必要はなかったはずだ。そう文句を言おうとしたところで、伊原が妙なことを口にした。
「いや、体温が……」
「は?」
体温がなんだよ。誰の体温だよ。
俺は突然飛び出した謎の単語に首を傾げた。
「あんたの体温が残ってるの、なんか嫌だから。冷ましてる」
「……」
そう言った伊原の顔に笑みはない。つまり、冗談で言っているわけではないことが判明してしまった。
さすがに沈黙せざるを得ない。
まあ、他人の体温が移った物に嫌悪感を抱く人はいるかもしれんが……それにしたって歯に衣着せぬ物言いだ。もう少し言い方をなんとかしろよ、と少しイラッとした。
「ハハハ、まー高月の体温は嫌だよなあ〜」
この気まずさをぶち壊そうと声を上げたのが、男友達のひとり、「箕面」だった。
ピリついた空気を軽快なジョークで和らげようという意図が伝わってくる。
箕面には悪いけど、どうしても俺は伊原に一言申さずにはいられなかった。
「冷ますってなんだよ、感じ悪いな」
そう口をついて出た頃には、もう空気は冷え切っていたわけで。
「……と言われても、生理的に嫌なんで」
先ほどと声音を変えず、淡々と伊原は言い放つ。
おまけに、こちらに目もくれないその生意気な態度に、さらなる苛立ちを覚えた。
「え? 何、そんなに椅子使われたの嫌だったのか? だったら椅子にクッションでも付けて、わかるようにしろよ」
そう早口でまくし立てると、伊原はようやくこちらを見た。
「……」
なぜかキョトンとした表情をしている。どうした。
「っ、なんだよ?」
次はどんな文句が飛び出すのだろう。そう身構えていたら、伊原はフンと鼻を鳴らし、ようやく椅子に座った。
その後、無表情で何か書き物を始めていた。いつも伊原がやっていることだ。
……別に何か大きなやらかしをしたわけじゃない。間違って借りていた椅子を返しただけ。
それなのに、その些細な出来事の不快指数を底上げしたコイツの言動が頭に残る。
周りの友人たちは、俺の不服そうな様子を見て「まあまあ」とたしなめてくれていた。
「落ち着けって。ほら、伊原って誰に対してもあんなんだし、さ」
「高月さんの気持ちはわかります。ですが、そういう人なのだと割り切りましょう」
友人たちが口々にフォローしてくれる。その温かさに、俺は気分が落ち着いていくのを感じた。
……まあ、コレについては気にしないでおくか。大人にならないとな。
そう決着をつけたものの、俺の頭の中には未だに伊原のキョトン顔が浮かんでいた。
あいつ、結構かわいい顔してるんだなあ。
いつも憮然としているというか、「近寄るな」と言わんばかりの雰囲気を醸し出しているだけあって、珍しい表情を見られた気がする。だからなんだという感じではあるが。
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次の日、俺は伊原の座席を見て盛大に吹き出すこととなった。
なぜって、椅子の座面にきっちりクッションを敷いてきてたもんだから。




