第1話 可憐な聖女と、地味な婚約者
王都アルカイン。魔導列車が走り、浮遊灯が夜空を染めるこの都市は、今、ある少女の話題で持ちきりだ。
「聖女様がまた井戸を浄化なさったって!」
「手を洗う“せっけん”ってのを配ってくれてね、ほら、この手。前より白くなったろ?」
宮廷の回廊を歩けば、侍女たちのさざめきが自然と耳に入る。
黒髪の“落ち人”――アリス・ミカド。
異世界から落ちてきた彼女は、煮沸や保存食、読み書きの教室、簡単な裁縫や帳面の作り方……。そんなささやかな知恵で、たくさんの人を助けている。眼に見える結果。人の命が助かり、笑顔が増える。だから人々は彼女を「聖女」と呼ぶ。
アレクシス王太子殿下も、よく彼女の手を取って人前に立たれる。
殿下が笑うと、彼女は恥ずかしそうに目を伏せる。そのやり取りは絵のように美しく、私は少し遠い場所から、それを見ていた。
「リアンナ様、財務局から資料が届いております」
「ありがとう。応接間へ」
私は侯爵令嬢。殿下の婚約者として、閣僚たちとの会議に同席し、予算の帳尻を合わせ、貴族議会の根回しをし、地方の陳情を整理する。
派手さはない。拍手も、歓声もない。けれど、国を回すために必要な歯車の一つだと信じている。
会議室の窓の外で、子どもたちの笑い声がした。アリスの読み書き教室だ。
黒髪の少女が、ひらがな……いえ、この世界の文字を板書している。
彼女の周りに集まる子どもたちの瞳は、星みたいにきらきらしていた。
(素敵ね)
本当に、そう思った。
私は彼女が好きではない。彼女の隣で殿下が笑うたび、胸が痛む。
でも、彼女がしていること自体は、とても良いことだ。
「リアンナ様、殿下がお呼びです」
侍従が扉を叩く。私は資料を閉じて立ち上がった。
大広間の前で立ち止まり、鏡に映る自分の襟を直す。
――私は、殿下の婚約者。役目を果たせば、きっと。
扉が開く。光の中、アレクシス殿下とアリスがこちらを向く。
殿下の目は柔らかく、けれどどこか遠い。
「リアンナ。今日は市井の視察に同行できるか?」
「本日の議会資料の整理が――」
「また書類か。……君は相変わらずだな」
殿下の声に棘はない。ただ事実を言っただけ。
私は微笑んで一礼した。
「役目が終わり次第、追いつきます」
アリスがふわりと頭を下げる。
「リアンナ様、いつもお忙しいのですね。立派です」
立派、という言葉が胸の内で少しだけ空回りした。
⸻
夜、屋敷に戻ると、母が出迎えてくれた。
淡い桃色のドレス、柔らかい瞳。母はいつも私の味方だ。
「おかえりなさい、リアンナ。顔色が……」
「大丈夫よ。少し、疲れただけ」
「無理はなさらないで」と母は私の手を包む。
ほどなくして父がやってきて、肩を抱くように笑った。
「王都は今、浮き足立っておる。聖女様のおかげだと皆が言う。
……だが、この国を回しているのは、見えないところで働く者たちだ。おまえのようにな」
「父上……」
「姉上!」
階段を駆け下りてきた弟のノエルが、両手を広げて抱きついてくる。
まだ少年らしさの残る顔で、むっと唇を尖らせた。
「殿下はひどい!最近、聖女のことばかり。」
「ノエル」母がたしなめる。
「……いいのよ」私は笑って頭を撫でた。
「私は私の仕事をする。役に立てるなら、それで」
寝室に戻り、鏡台の前で髪を梳く。
殿下が笑えば、私も嬉しい。幼い頃から私は、殿下の隣で微笑む練習をして、歩幅を合わせてきた。
今日も、明日も。
――役目を果たせば、きっと。
そう呟き、蝋燭を吹き消した。