9話 というわけでお帰り願います
「ついてこないでいいですよ」
「いやいや、そういうわけにはいかんだろ」
レティカは早足で廊下を進みながら振り返ると、ダストが彼にしては珍しい神妙な顔でしつこく後をついてきていた。
「昔自分を捨てた婚約者が今さら会いにきたとか、何があったか気になるじゃねえかよ。……それともお前さん、その婚約者にまだ未練でもあんのか?」
「いーえ、全然!」
レティカは目を吊り上げながら即答する。
こちらはようやく新しい生活に慣れてきた所なのに、どうして向こうの方からやって来るのか。
「じゃあ、なおさら俺がついていった方がいいだろ。……面白そうだし」
「面白がらないでください!」
どこか取って付け加えたような口ぶりのダストにツッコミを入れながら、レティカは応接間の扉を勢いよく開くと、そこにはよく知る青年がソファーに座っていた。
「レティカ! 迎えに来たよ!」
「うわぁ……本当にいたよ……」
青年ことオルダはこちらの姿を確認すると、にこやかな笑顔で手を広げて歩み寄ってくる。
当然ながらレティカは反射的に後ずさり、壁際まで大きく距離を取った。
「レ、レティカ! どうしたんだい?」
オルダが首をかしげ、本気で困惑した顔をする。
だが、困惑しているのはむしろこっちだ。
あれほど一方的な婚約破棄を突きつけ、冤罪まで被せて追い出した男が、謝罪ならまだしも、なぜこんな親し気な態度を取れるのか。
レティカは目の前の男の正気を本気で疑った。
「申し訳ありませんが、オルダ様。私とあなたの婚約関係は既に解消されています。今さら話す事などないと思いますが」
「ああ、なるほど。それで怒っているんだね! それらは全て悲しいすれ違い。……全て誤解だったんだよ!」
「はあ?」
思わず声に出してしまい、レティカの背筋に寒気が走る。
(なんか怒りとか通り越して 本気で怖くなってきたんですけど……!)
「いやいや、言っていたじゃないですか。真実の愛を見つけたとか」
「何が真実か偽りとか些末な事だと私は思う! それを決めるのは僕たち自身! レティカ、僕と共に真実の愛を作ろうじゃないか!」
「? ? ?」
さっきから会話がまるで噛み合わない。
訳の分からない事をベラベラと熱っぽく訴えてくるオルダに、レティカはなんとか翻訳しようと懸命に頭をフル回転させるが、一向に彼の言っていることが理解できなかった。
これなら魔物の方がまだ意思疎通できた。
ちらりとダストの方を見てみると、不機嫌そうに眉間にしわを寄せながら掌を開け閉めしている。
どうやらオルダの言動に苛立っているらしい。
てっきり、面白がっているだろうと思ったら意外である。
――もう、コイツぶん殴っていいか?
そう視線で訴えてくるダストに、レティカは慌てて首を横に振った。
――いや待てよ? ダスト……そうだ!
「オ、オルダ様。残念ですが、私は貴方の気持ちに応えることはできません」
「そ、そんな⁉ な、なぜだ! 理由を聞かせてくれ!」
レティカは傍にいたダストの腕を掴んで、ぐいと引き寄せ、己の腕と絡めた。
「わ、私はこの方……ダストさんと結婚を前提に交際してるんです!」
苦し紛れのレティカのその宣言は応接間の時間を停止させる。
「へ?」
「は?」
「「……はああああ⁉」」
呆けたような声を漏らしたダストとオルダは、次の瞬間も、ほぼ同時に声を上げた。
「ああダスト、私の愛しい人……!」
畳みかけるようにレティカはダストの耳元に顔を寄せる。
(ちょっ――お前⁉)
(お願いですから話を合わせてください!)
目を丸くして慌てふためくダストをよそに、当のレティカはオルダに必死に頼み込む。
「ここに来て間もない頃、傷心して生きる気力を失っていた私をこの人はその優しさで包み込み、そして癒してくれたのです。もう私にはこの人しか考えられません」
「いや。お前、最初に会った時からわりかし元気だったじゃん……イダッ!」
レティカは余計な事を言うダストの足を思いきり踏んづける。
「そ、そんな嘘だ! 嘘に決まってる!」
現実を受け入れられないオルダが顔を赤らめて抗議する。
「残念ですが、オルダ様。全ては手遅れだったのです。ですが、あなたのおかげで、私は真実の愛に巡り合えました。そこは感謝しております」
「俺の背に隠れながら、煽るように言うのやめてくんね?」
盾にされたダストは目の前のオルダを見てみると、屈辱と怒りに塗れた顔でこちらを見ていたため、これはまずいと冷や汗をかく。
ついさっきまで、ぶん殴ってやろうかと思っていた相手だが、まさかこんな形で敵意と憎悪を向けられるとは思わなかった。
「レティカ、君は僕というものがありながら、不貞を重ねていたというのかい⁉ そこの君も人の婚約者を寝取るとか……恥というものを知っているのか!」
激昂したオルダがひたすら罵倒してくるが、レティカの中でなんだかすごい量のブーメランが飛び交う光景が幻視された。
「せっかく君と真実の愛を育んでやろうと思ったのに。裏切るのか!」
――裏切るってあなたが言うんですか⁉
この最後の一言には、レティカもさすがにカチンと来た。
「とりあえず言いたい事は色々ありますが。真実の愛ってこういうのじゃないですかね?」
全てを失うも、新天地でやり直して、こうして新しい生活と恋人を得る。
……最後こそ嘘だが、割とそれっぽいんじゃないかと思う。
「こ、この浮気女めっ――!」
逆上したオルダは襲いかかるも、その前にダストが彼の腕を掴み、あっさりと捻り上げる。
「イダダダダダ! 離せ下民がぁ!」
「すいませんねえ。誰であろうと我が婚約者に手をあげるというのなら看過はできませんよっと」
涙目で喚くオルダを飄々と受け流しながら嘯くダスト。
「くそぉ! 私を誰だと思ってる! かのモルノン侯爵家……いたぁい!」
怒り狂ったと思ったら、今度は子供のように泣き喚く。
忙しい男であった。
――昔はもう少しまともでいい子だと思ったんですけどねえ。
「あ、そうだ。ダストそのまま押さえておいてください」
「レ、レティカ、何を……ほべぇ!」
身動きの取れなくなったオルダへ、チャンスとばかりにレティカは彼の頬に一発張り手を見舞う。
「ふぅ。少しだけスッキリしました」
頬に赤い手形を作りフラつかせているオルダをよそに、かつてない程に良い顔をするレティカ。
その時、屋敷の外から馬の蹄の音が聞こえ、玄関の方を確認してみると、騎士団の制服を着た男たちが慌ただしく入って来ていた。
「失礼します。ここにオルダ・モルノンはいらっしゃいますか?」
先頭の騎士がこちらを確認すると、レティカに敬礼しながら尋ねた。
「彼ならここにいますけど……何か?」
「はっ! 王都からの命令で、彼の拘束に参りました!」
「へ? へ? な、何をするんだ。私はモルノン侯爵家の長男だぞ。ここには婚約者に会いに――助けてくれレティカアァーー!」
まるで以前パーティーでやらかした某子爵家令嬢のように、騎士たちに連れて行かれるオルダをレティカたちは黙って見送った。
「お騒がせしました。詳しい経緯は追って後日説明いたします」
最後に隊長っぽい騎士は深く頭を下げながらそう言い残すと、部下を連れて部屋へと走っていく。
「あのボンボン。やっぱり向こうでも何かやらかしてたのか」
「……でしょうね。自業自得でしょうが」
呆れるダストは同意するレティカを伴って、応接間を出る。
いまだに背後の方でオルダの「待ってくれ! これは何かの間違いだ!」という叫びが虚しく響く。
やがてその声も聞こえなくなると、レティカはこれでようやく終わったとばかりに小さく息をついた。
「――で、俺と交際ってのは?」
そうは問屋が卸さないらしい、ダストはさっきのお返しとばかりにニヤニヤと彼女を見てくる。
「何の事でしょう?」
「いや、そりゃねえだろ。あんなに情熱的な事言っといてよ」
「あーあー、聞こえませーん。知りませーん。覚えてませーん」
「おーい!」
ダストの追及を、耳を塞いで防ぐレティカの頬は僅かに赤みが差していた。