011 おっす、マリちゃん
田原清士郎は極楽寺モンドの元を訪れていた。
つまり現在の彼はモンドが所有するオフィスビルの一室にいる。なんならソファーに腰掛けていた。
清士郎の目には、対面するモンドというより、その後ろにある木目のキャビネットが見えている。
調度品として高級感に溢れており、そこに飾りさえすれば、どんなガラクタだって一級品に見えそうに思えた。
あるいは、この部屋自体がそうなのかもしれない。などと清士郎は考えていた。
この部屋でソファーに座ってさえいれば、どんなに自信が無い人間だって、自分をいっぱしの人間だと思い込めることだろう。
エリート社会人になったような気分を楽しみつつ、清士郎は密かにモンドの視線から逃れようとしていた。
なぜなら彼は自分から言い出した任務に失敗したからだ。あれだけ成功を約束しておきながら、このザマである。
だから清士郎は視線を直接モンドに向けないように、出来る限り遠回りさせていた。
内側から見る窓ガラスは青みがかって見える。外から見た時は鏡のようになっていたので、きっと特殊な物なのだろうと清士郎は思った。
なお、清士郎が見ている窓ガラスは熱線反射ガラスというもので、外光による室温上昇を防ぐことを目的としている。
明るい日中は外から内側が見えないけれど、暗い夜になると、逆に内側から外が見えなくなるような特徴を持っていた。
調度品を一通り見終えてしまうと、清士郎は想像を広げる。こんな部屋で仕事をする人物は一体どんな心理を持つのだろうか。
やはり自分自身を一流の人間だと感じたり、エリート感覚を味わいながら日々を過ごすのだろうか。
ただの雑用で訪れている自分だって、それに似たものを覚えるのだ。きっと、そういう事なのだろう。
などと現実逃避をしていても話が前に進まないので、仕方なく、清士郎は説明のために口を開いた。
「えっとですね、その……」
清士郎は片桐リナの説得について、その結果をモンドに報告しようとしている。
結果というか、どちらかと言えば過程かもしれないと清士郎は考えた。
説得のために仕掛けた勝負が引き分けに終わっている。そういうワケで、本題であるアルバイトの斡旋まで話が進んでいない。
片桐リナとの三本勝負は本来の目的では無いのだ。本来の目的のための事前運動みたいなもんである。
いわば、片桐リナの説得はまだ始まってすらいないし、終わってもいない。
だからまだ失敗ではないと言うことも出来た。なぜなら、失敗する段階まで話が進んでいないからだ。
それを目の前のモンドに伝えたらどうなるだろうか。
脳内でシミュレーションした結果、清士郎は結論する。
モンドはきっとこう言うだろう。キミは何をするために片桐リナの所に行ったのかと。
説得をするために出かけておいて、実は説得してきませんでしたと答えるのは、自分自身でも意味不明の行動だと思う。
説得を試してすらいないのだから、失敗するより、なお酷い。
そういうワケで清士郎が説明に困っていると、モンドが、一見して優し気な表情で口を開いた。
「どうやら、無事に失敗したようだね」
彼はニッコリと笑っていた。
その笑みは、獲物をいたぶる時のネコ科動物を連想させる。それも大型のやつだ。
清士郎は冷や汗を流しながら思った。なぜ極楽寺モンドは、俺が失敗したことを知っているのか。
この男は一体どこから情報を聞きつけたんだ?
ふと、清士郎は、目の前にいる男がレモンの近辺を調査していることを思い出した。
まさか自分に対しても、密偵か何かを使って情報収集をしているのだろうか。
現代を跋扈するスーツ姿の忍者たち。そんな怖い想像をする清士郎。
自分の娘を迷い無く調査する男、極楽寺モンドは、ニコニコと笑いながら説明を付け足した。
「キミの活躍ついては、妻から色々と聞いたよ。料理勝負で破れたらしいね」
なんだよ奥さんからかよぉぉ!
心の中で叫びつつ、清士郎は、レモンとそのお母さんが普段から連絡を取り合っている事を思い出す。
おそらくは彼女たちの会話の中で、片桐リナの説得が出来ていないことが話題になったのだろう。
変に心配して損した、と思いつつ清士郎は言った。
「まあ、説得に関しては、引き分けと言ったところでしたが……」
モンドは笑い声を上げながら言葉を返す。
「説得という行動に対して、引き分けという状態は何を意味しているのかな。私には、よく分からないな」
ぐうの音も出ないとはこの事だ。
説得には成功と失敗があるだけで、説得の引き分けという概念は存在しない。
あるいは、相手を敵でも味方でも無い状態に持っていければ引き分けと言えるかもしれないけど、今回はそういう話でもない。
清士郎は苦し紛れの弁解をした。
「相手は大学生ですからね、大学生には大学生なりの説得のやり方があるんですよ」
「ふむ。まあ、そういうものかね」
さして気にした感じもなく、モンドは淡々と受け入れた。
そして、清士郎が思わずオゾマシイと感じるほどの凄みのある笑みを浮かべる。
モンドはとても嬉しそうな様子で、清士郎の弁解を否定してみせた。
「だが、どちらにしろキミが失敗した事実に変わりは無い」
全く何も言い返せない。
説得には成功と失敗があるわけで、清士郎はどちらかと言えば失敗しているだろう。
さらに言えば、この話は清士郎から提案した事でもあるのだ。
モンドが怒るのも当然のことである。自分が彼の立場だったら絶対にそうすると考えた清士郎は、即座に謝ることにした。
「おっしゃる通りです!」
頭を下げながら、清士郎が感じていたのは不思議な特権意識だった。
この部屋にいると、頭を下げるような時でもエリート気分に浸れるものなんだなと思う。
エリート社員の気分に浸りながら、清士郎は顔を上げる。
そしてこの空間にふさわしい有能な社員をイメージし、それらしく感じるセリフを言った。
「この次はきっと! きっと、説得して参ります!」
そんな清士郎の様子を眺めながら、モンドは笑顔を浮かべていた。
しかしこの男は普段から笑顔を作るので、面白いと感じているのか、それともツマラナイと感じているのか、そのどちらか読み取れない。
判断に迷える清士郎の前で、モンドは、なるほどと頷いた。さらには、キミの決意は分かったよと口にする。
そして柔和な笑みを崩さないまま話を続けた。
「私は寛大な男だ。失敗も三度までは許そう」
おお、マジか。許された。
そう思って清士郎は、仕事の失敗をリカバリーした有能社員の気分で安堵しかけた。
そこにモンドは冷や水を浴びせてくる。
モンドは笑顔のまま右手の人差し指を立てると、
「まず一度目の失敗。キミにはアパート管理を任せているんだが、先々月の家賃の受け取りに失敗しているね」
「そ、それは……!」
有能な経営者であるモンドは、冷淡な態度で清士郎の失敗を数え始めた。
今度は中指を立てながら言う。
「二つ目。先月の家賃の取り立てにも失敗している」
「それは二つ目にカウントされるんですか!?」
心外だと言わんばかりに叫ぶ清士郎。
それに対しモンドは、そりゃあそうだろうと答えた。
社会的に考えても妥当な判断だろう。同じ種類の失敗ならカウントされないというものではない。
失敗とは積み重ねた回数が問題なのだから。
同じ種類の失敗を繰り返すのだとしたら、なおさら悪いと言える。
そしてまさに清士郎は同じ種類の失敗を繰り返している状態なのだ。
他人の弱点をじわじわと責める事が好きなモンドは、こういう時には、あえて怒らない。
出来の悪い部下に言い聞かせるように、実に優し気な口調で言う。
「そもそも、先々月のアパート代は二人、先月のアパート代は三人が滞納している。おや、この時点でキミの失敗は五回だね」
モンドは右手の指を全部開いた。
五回の失敗を五本の指で表しているのだろう。
そんなモンドの態度によって、清士郎が感じていたエリート意識や安堵感は吹き飛んでいた。
愕然とした表情を浮かべる清士郎に対し、モンドはとうとう高笑いを始める。
「ははは、どうしたものかね。私は寛大な男を自負してはいるが、失敗を何度も見過ごす事はできないよ。寛大ではあっても、甘い男には成りたくないと考えているからね」
正論過ぎて何も言い返せない。
清士郎は何も言えずにダラダラと脂汗を流す。
窮地に立たされた清士郎に対し、モンドは逆に助け船を出した。
「だが、キミのお陰で得たものもある」
はて、何の事だろう、と考える清士郎。
モンドはその答えをあっさりと提示した。
「久しぶりに娘と一緒に食事を取る事ができた。その事を、私はキミへの評価としたい」
片桐リナとの勝負が終わった後、清士郎たちは安原の車でレモンの実家に引き返していた。
レモンの母であるマーガレットさんからのディナーのお誘いを、正式には断っていなかったからだ。
その際にレモンが久々に実家で夕食を取ると言い、レモンをその場に残して解散した。清士郎には知り得ぬことだったが、その後にモンドが帰宅し、久々に家族三人がそろった状態で夕食を楽しんだらしい。
ただし、モンドは詳しくは説明しなかった。清士郎が理解しようが、そうでなかろうが、どっちでも良いのだろう。意地悪くニコニコと笑いながら話を続ける。
「私としては失敗を無かったことにしても良いと思うんだが、それではちょっと甘すぎるだろう。そこで、片桐リナという子の説得に関する一件を、一度目の失敗という事にしておこう。その方がキミにとっても納得しやすいだろう?」
その上で片桐リナの説得に成功すれば失敗を無かったことにするという話になった。
アパートの管理に関しては失敗から帳消し扱いなので、かなり温情のある判断だ。
思わず清士郎はその場で起立し、頭を深々と下げながら言った。
「あ、ありがとうゴザイマス!」
「うん、まあ、励みたまえ」
どうでも良さそうな態度でモンドは答える。
彼にしてみれば、清士郎の行動や片桐リナの事については、さして興味は無い。
清士郎にしろ、片桐リナにしろ、娘に悪影響を与えそうなら即座に排除するだけだからだ。
そのための穏当な方法なんて幾らでも思い付くし、なんなら既に計画を動かせる状態にまで持ってきている。
準備している計画を実行すれば、さらに娘から嫌われる結果になるかもしれない。
しかし、モンドは自分のやり方を変える気はなかった。
自分が傷つくことで娘が守れるのなら、それでいい。
それがモンドの出している答えだ。
そんな事を思っていると、ふと、モンドは清士郎から聞いたヤマアラシの親子の話を思い出した。
あれはどうとでも受け取れる話だったが、と思いつつ、モンドは一つの物語を連想する。
それは、自分が守ろうとした行動で、逆に相手が傷ついてしまうというイメージだ。
今にも消えてしまいそうな気配を予感させる作り笑い。そんな表情を浮かべる過去のレモンの姿を連想して、決意がわずかに揺らぐのをモンドは感じていた。
久々に顔を合わせた娘のレモンは、かつてとは違い、快活な笑みを浮かべていた事を思い出す。
モンドは、目の前に座る清士郎の顔を見た。
この何の取り柄もない、しょうもないだけの青年は、それでも私の娘を笑顔にさせるだけのチカラがあるのかもしれない。
モンドは少々、声を硬いものに変えてから語り出した。
「田原清士郎くん。私はキミ自身のことを、欠片も信用していない」
清士郎はその言葉の内容には驚かなかった。
ただし、モンドがそういう事を言い出したことには驚いていた。
この男は常に本心を隠していると考えていたからだ。
わざわざ本音を語り出したモンドに対し、清士郎は態度を改めながら言葉を返した。
「やけにストレートな物言いですね」
そう言われて、モンド自身も不思議に感じていた。
なぜ自分は本心を吐露してしまったのだろうか。
まあ、そういう気分の日もあるかと、一人で納得する。
どうせならと思い、モンドは最後まで言い切ることにした。
「すまない、キミの事を責めているワケではない。相手がキミでなかったとしても、一介の大学生に対して私が信頼を覚える要素など無いと言える。それが、どれだけ優秀な学生だったとしてもだ」
モンドは人間性など信じない。
それは幾らでも嘘を吐けるし、なおかつ、不確かなものだからだ。
だけど問題はそこでは無い。モンドはさらに語る。
「将来性があるという事は、現在の信用を裏付けるものでは無い。私はそう考えている」
モンドは将来性に価値を見出さない。
現在の自分自身が、どれだけの成果やリターンを相手に与えられるのかどうか。モンドが求めている視点はそれだ。
目標と願望を履き違えている連中の、一体何を信用しろと言うのか。
信頼とは、言葉や気持ちで示すものではなく、取り引き相手の利益を確保することで生まれるというのが、モンドの考え方だった。
「それでもなお、私がキミに仕事を依頼するのは、私が信頼するに足る要素がキミにあるからだ」
清士郎は真面目に話を聞き、そして真面目に考えた。
俺の事を信用してないけど、俺の事を信頼する要素があるという事か。
……話がつながって無いような?
本音らしき事を真摯に語るモンドに対して、ボケるワケにも行かず、清士郎は素直に問うてみた。
「あのー、すみません。よく分かんないんですが、なんか話が違ってきてませんか?」
しょうもない青年と評される程度には、間の抜けた顔で質問する清士郎。
今はまだ何者にもなっていない青年に対し、極楽寺モンドは冷酷とも取れる回答を示した。
「私が信頼しているのはキミでは無い。キミの家柄だという事だよ」
それは田原家という一般家庭の話では無い、と告げながら、モンドは話を続ける。
「キミが西園家と親戚関係にあると知った時には、中々に驚かされた。世間は狭いものだと感じたものだ」
西園家。それは清士郎の母親の実家だった。
清士郎はその家のことを金持ちだとしか認識していなかったが、極楽寺モンドにとってはそれ以上の意味がありそうだ。
ポカンとした表情を浮かべながら、清士郎は言った。
「なんで突然、そんな話を?」
「近々、西園と一緒に動かす予定のプロジェクトがあってね。まあ、そんな事はキミには関係ないんだが……」
韜晦するようにして本心をボカす。
そうかと思えば、モンドは全く別の角度から話を再開した。
「私がキミの話に耳を傾けるのは、西園家あっての事だと伝えておこうと思ってね。例えキミ自身が平凡な人間で、言っている事が何一つ信用できず、さらには自信満々に成功を約束した取り組みについて、華麗なまでに失敗してみせたとしても……」
メッチャ言ってくるやん。
鼻白む清士郎に対し、モンドは笑顔で告げる。
「こうしてキミとの関係性を築くことには、私にとって意味が生まれてくる。キミがどんな人間であろうと、西園家の縁者であるという事に変わりは無いのだからね」
それは、ある意味で人格の全否定だった。尊厳を破壊されてしまいかねない。
口元をヒクつかせる清士郎に対し、極楽寺モンドは、お構いなしの笑顔で告げた。
「ついでに言えば、だ。キミ自身がどう在りたいかと言う事と、周りからのキミへの評価という物は、キミが思うよりは一致しないものなんだよ」
言葉の意味を、モンドは詳しく説明しなかった。
清士郎が理解しようが、そうでなかろうが、どちらでも良いのだろう。
そして、これだけ理解できれば良いとでも言うように、優しさを欠片も感じさせない言葉を振り下ろした。
「私がキミの失敗を大目に見るのは、キミに期待しているからではない。それが西園家への貸しになるからだ」
なぜここまで言われなければいけないのか?
清士郎は腑に落ちないものの、納得しましたの態度を返しておく。
それは形だけのジェスチャー。
心を置き去りにする関係性は、冷たいビルをサバイバルなジャングルへと変える気がした。
シビアなビジネスの予感が、ほんのりとだけど、エリートごっこの名残を感じさせる。
清士郎は怒りを抑えて、ビジネス界のジャングルの掟に従おうとした。
エリート空間にはエリート社員のやり方があるのだ。
モンドの意向がどうであるにしろ、自分にチャンスが残された事に変わりは無いだろう。清士郎は前向きに検討していく所存だった。
清士郎が部屋を立ち去った後に、極楽寺モンドは自身のスマホを取り出した。
そして『現世虚構:ホロウ・リアクション』のアプリを起動して部屋の中を映す。
そこにはトンガリ帽子を被り、本の上に座った猫のような存在が映っていた。
モンドはそれをスマホの画面越しに眺めながら、独り言のように呟く。
「世の中には、家柄は関係ないだとか、自分自身のチカラだけでやりたいと言う人間もいる。私はね、そういう人間を甘い人間だと考えているんだよ。何かを成し遂げようとするのなら、己の全てを賭けるべきだ」
肉眼では見えない猫が、ジッとモンドの方を見つめている。
監視されている事を気にもせず、モンドは言葉を続けた。
「本気になって取り組んだ時に、人は自分自身にどれだけチカラが無いのかを実感するだろう。そういう人間は、軽々しく将来性など語らない。軽々しく、自分自身の価値など誇らない。そして、そういう人間は、利用できるものは全て利用しようとする。頼れるものなら、親類縁者の全てを頼るんだよ。その気が無い人間に、私は必死さを感じ取れない。本気で生きていない人間に、私が時間を割くべき理由は無い」
猫は、被った帽子をピクリとも動かさないままモンドの語りを聞いている。
モンドは幻のような猫のことも、会社の運営のことも、その場に満ちる空気をも無視して、思い付きを吐露した。
「あの青年は、そういう意味では時間を割くべき相手であるのかもしれんな……」
結局のところ、モンド自身のチカラでは彼の娘を救う事ができなかった。
娘を救うために利用した青年は、モンドが期待していた以上の成果を上げてくれたと言えるだろう。
それが出来た理由をモンドは考える。清士郎という青年にも成し遂げたい事があり、そのためにあの青年は、彼を取り巻く全ての存在を頼っているのかもしれない。
偶然と運命に思いを馳せる。クツクツと笑いながら、極楽寺モンドは猫のような存在にメッセージを伝えた。
「キミも、もう少し本気になるべきではないかな?」
言葉の先にいる相手が誰なのかは分からない。それはこの際、関係なかった。
帽子を被った猫は、モンドの言葉が終わるか終わらないかの瞬間に、スマホの画面から消えていった。どうやら立ち去ったのだろう。
耳に痛い話をしてしまったのだろうか。たまには、そういう話を聞くべきだと思う。
これは老婆心と言うものだろうかと考えながら、モンドはひとしきり笑うと、寂しそうな笑みを浮かべる。
「子供が出来ると、親は弱いな……。甘い男には成りたく無いと思っていたが、まさか気まぐれで助言を与えてしまうとは」
全てを利用すると心に誓っておきながら、このザマだ。
自嘲を込めた笑いの中で、しかしモンドの心には清々しい気分もあった。
「まあ、悪い気分ではない。似合わない行動というのも、たまには取ってみるべきだろう」
そんなように極楽寺モンドが悦に入っている頃、田原清士郎は苛立ちを抱えながら街を歩いていた。
「くっそ、ボロクソに言いやがって……!」
俺が何をしたって言うんだ。そう清士郎は思った。
ただ単に、アパートの管理の仕事を真面目にせず、自信満々で挑んだ片桐リナの説得に成功していないだけだ。
決して失敗ではない。成功していないだけなのだ。
清士郎は片桐リナの説得を諦めていなかった。諦める段階まで話が進んでいなかったからだ。
失敗が無ければ成功は無いと言うじゃないか、と清士郎は考える。
失敗とは成功につなげるための過程なのかもしれない。
いや、むしろそうあるべきだ。
つまり、今は片桐リナの説得に成功しつつある段階だと清士郎は結論した。
極楽寺モンドとの関係が切れなかったのは良い事なのだと清士郎は思う。
全てが丸く収まるかもしれない。
少なくとも、その可能性は残された。
やはり俺はエリートなのだろうかと、清士郎が街路を歩きながら考えていると、
「清士郎お兄ちゃん」
そう言って後ろから駆け寄ってくる少女がいた。
街角で兄と妹が偶然に出会う可能性はどれくらいのものだろうか。
それは低い確率であるのだろうけど、もっと大事なことがある。
その偶然を幸運だと感じるのか、そうじゃないかの違いだ。
例えば兄妹の仲が良い場合、街角で出会うことを嬉しいと感じることだろう。
逆に妹が兄を嫌っていたり、それを敏感に兄が感じ取っている場合、偶然の出会いは最悪の出来事に捉えられるかもしれない。
ちなみに清士郎と、走り寄って来る少女の関係性は、悪いものでは無かった。
むしろ少女から清士郎に対して好意すら向けられている。好感度に関する問題は特に無い。
問題があるとすれば、それは清士郎が一人っ子だという事だろう。
戸籍上に存在しないはずの妹は、小走りで清士郎の所までやって来た。
少し息を切らしている。吐息と共に揺れる長い黒髪。それは光の反射の具合で栗色に艶めいて見えた。
それが天然の髪色であることを清士郎は知っている。苦手意識を表に出さないように苦心しながら、清士郎は口を開いた。
「おっす、マリちゃん」
清士郎は、彼の従妹である西園マリの名前を呼ぶ。
つまり清士郎の母の兄、その娘である、中学三年生の少女がそこに立っていた。