最後の下準備
ニードとサナの村を出て二日目の夜。ついに明日、白水晶のあるエレナへと到着する。新たに加わった二人も天使としての力を操れるまではその日暮らしの旅人だったようで、食料の配分や飲み水の確保、雪こそ降っていないがしっかりとした防寒対策をしている。今日も川辺で野宿をしており、今はもう月の光しかない夜の暗闇で、一人、キセルを吹かしていた。
「となり、いいですか」
川辺にあった大きく平らな岩に座っていたところへ、ニードがミルクの入った皮袋を二つ持ってきた。別にかまわない、そう、なんとなくぼうっとしながら迎えてやる。皮袋の片方をいりますかと差し出してくるが、甘いのは苦手だから遠慮した。
「酒が飲みてぇな……」
アインヘルムを出てからというもの、というよりはスノウを拾ってアインヘルムで過ごしてきた日々から、ろくに酒を飲んでいない。金はいつだったかの馬鹿勝ちがあるので買えるのだが、いつもなにかしらの問題があって飲めなかった。
「お酒、好きなんですね。なにを飲まれるんです?」
「なにって、そりゃ……」
どういうわけか、好きな酒と聞かれてパッと出てこない。無論、葡萄酒も蜂蜜酒も苺酒も好きだが、一番が決められない。腕を組んで唸ってみても、答えは出ない。
――いや、根本的に間違っているのではないか。
酒浸りだったころは悪魔の力などなく、数人で金目の物を盗んだり奪ったりして食い物や酒に変えてきた。それが生きる手段で、酒はその時の――逃げ道、だったのかもしれない。
誰にも愛されず、徒党を組んでもどこか孤独感が拭えず、大きくなるまでは亜人に虐げられてきた。そんなクソッタレな日常を忘れさせてくれるから酒を飲んでいたと、今ならなんとなく分かる。
ああ、そうか。今も『あの頃』も、一人じゃなかった。誰かがそばにいて、話し相手がいて、面倒を見る奴がいる。つまり、酒によって忘れたい現実がないから飲まなくてもいいのだ。存外、酒好きではなかったようだと、旅も大詰めになって気がついた。
「女二人は、どうしている?」
「もう寝ちゃいましたよ。サナが抱き着いて離れないのが悔しいですけれど」
「言っておくが、手を出したらタダじゃすまさねぇぞ」
分かっていますよ。ニードは心からの微笑でカイムへ答える。
「なんだ、ずいぶん機嫌がいいな。なにかあったか」
「そのなにかが、もう目前だからでしょうか。白水晶で双子間の結婚を王国に認めさせて、ついでに村の人々みたいな奴隷を解放するんです」
その人間が、一昔前まではエルフやドワーフたちを奴隷にしていたと言ってやれば、だからこそですと意気込んでいる。
「もう、いいじゃないですか。どっちが奴隷だとか、どっちが純血で混血だとか……もう、そんなものを気にしないで、みんな一緒に生きていく。そんな世界で、いいじゃないですか」
なるほど、流石は天使だ。カイムの様に自らのことだけではなく、世界全てを救おうとしている。白水晶を手にしてスノウと自分の夢を叶えたら、ニードにアドバイスをもらいながら世界を変えてもいい。むしろそうするべきだと、カイムはキセルを吸いながら思っていた。
「お前も吸うか?」
崇高な理想を掲げるニードのような真面目な奴にかぎって、溜めこんでいる物が多かったりする。そうして差し出すが、サナへキスした時に臭いと言われたら嫌だからと断られた。
「美味いのにな」
「もっと老けたら、試してみますよ」
「おい待て、この前確認したが、俺たち同い年だろ。その言い方だと、俺が老けてるってことになるだろうが」
「いえいえ、顔には、その人の人生が浮かびあがるものです。たくさん苦労して、無理をして、我慢して……それでも生きている。生き続けようとしている。その一生が、顔を老けさせるんですよ。老けている分、苦難を乗り越えてきた強い人なんです」
そういう点では、サナも同意していたらしい。よほど辛い人生だったのだと、同情も感じているようだ。実際に話す時からは考えられないことだが、言葉が全てではない。想い、という奴だ。それが、カイムに向けられていた。不器用なので素直になれないが、後で礼を伝えておいてくれと、微笑んでいるニードに任せた。
そのまましばらくは、二人で小河の流れを見ながら、キセルを吸っていた。もうそろそろ寝るかと立ち上がろうとしたら、聞いていいですかと、ニードが止めた。
「あなたの願いとは、なんなのですか?」
このタイミングを狙っていたのか、ニードは本気の眼差しだ。世界征服、などと答えたら、四人での旅は終わるだろう。しかし、願いか。
「……願いじゃなく、夢だ。それも簡単な」
世界も、差別も、人間も亜人も、全く関係ない。カイム一人が喜ぶ夢なのだ。
「俺は今、悪い夢を見ている。スノウがいても、こうして生きていても、どうしても埋まらない心に空いた穴。それが悪夢を見せ続けている。俺はそんな夢を終わらせて、幸せな夢を見ていたい。それだけだ。分かったらとっとと寝るぞ。明日は決戦だ」
そうですね。ニードはカイムの言葉を真面目に受けて、今見ている悪夢を終わらせるためにも、力になると言ってくれた。
「天使の僕たちだけが幸せで、悪魔であるあなたが不幸では、不公平ですから」
なかなか、グッとくることを言ってくれる。ほんの少しの笑みを浮かべて、木の下に敷いてある厚い布に包まった。そして無意識に手を伸ばしそうになって、それをひっこめる。もう、虚空は掴まないと決めたのだから。
朝が来て、川の水で顔を洗って、焚火で焼いた魚を食べる。全員なにも喋らずに食べ終えたら、いよいよ行く時が来たのだと、ニードとサナは深呼吸し、スノウはカイムの裾を握った。
「一つだけ、お願いしても、いい?」
「白水晶を手にしたらか?」
「違う。この後のこと」
スノウはカイムを見上げて、少し背が伸びたな、などと感慨に耽っていたら、こっちを見てと視線が向けられる。
「この後、きっと戦いになる。あの怖いドワーフと、人間みたいな、怖い人と」
「そのためにここまで来た。今更止める気か?」
「半分は、正解」
半分? と聞き返せば、コクリと頷いた。
「戦いになって、勝てそうになかったら、逃げて。無理をしないで、カイムは生きて。それだけが、このまえ欲深になれって言われた時の、答えだから」
こんな小さな子が、大の大人を心配している。ふつう逆であろう立場に不甲斐なさを感じつつも、それが願いなら叶えないといけない。
「お前の願いは受け取った。だがな、逃げるのは本当の本当に最後だ。俺は夢を叶えるためなら、魔王すら殺してやるつもりだからな。それと、一つ忘れているぞ」
なにが? とスノウは分かっていないが、これだけはハッキリさせておこう。
「俺を誰だと思ってる」
魔王ルシファーを殺した悪魔の子供で、シックスと肉弾戦なら互角にやり合えるほどの力。その強さを一番近くで見てきたのは、誰だったか。
「俺を信じろ。ここにいる四人は誰も死なせずに、白水晶を手にする。今回ばかりは最初から本気を出すから。お前の助太刀は天使二人にわけてやれ」
スノウは黙っていたが、分かったと確かに口にして、カイムを信じると決めた。
「大丈夫よ、スノウ。あなたは私が守るから。なんなら、その先も一緒にいてあげるわよ?」
サナの面倒な絡みに対し、スノウはカイムと一緒がいいと寄り添ってきた。サナの視線が少し強くなる。
「私も守るけれど、あんたもよ。死なせたら、タダじゃおかないから」
スノウの安否に関しては、カイムと似たような台詞を口にしている。とはいえ、言われなくてもそのつもりだ。カイムは決戦を前にスノウを守ることを誓い、最後の一服とキセルを取り出して刻みタバコをいつも入れている小袋から摘まもうとしたが、ほんのわずかにしか残っていなかった。正真正銘、最後の一服となりそうだ。
「ふぅ……」
最後の戦いが行われる空模様は、生憎と鈍色だ。ニードとサナが雪は降らないと言うが、どうもさっぱりしない。
「面倒事は、もう御免だからな」
誰に言うでもなく白い煙を吐き出して、カイムは赤いロングコートに身を包み、剣を携える。返り血を浴びてもいいように買った赤いロングコートだが、この旅では血を見る機会がほとんどなかった。この後もそうでありたいと願いつつ、戦いになるのは覚悟して、歩きだす。もうエレナは目の前だ。