第三十一話:漂う香りは
ガレンの診療所を満たしていた、液体窒素の発生による身を切るような白煙と冷気。
そこから一枚の扉を隔てて隣の店舗へ戻ると、そこには『新生バッカス亭』特有の、深く温かみのあるオールド・オークの香りと、仕込みのスープから立ち上る芳醇な匂いが満ちていた。
「ふぅ……。やっぱり、この匂いを嗅ぐと落ち着くな」
俺は小さく息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。
フォンテーヌ伯爵領での、一歩間違えれば数千人の命が消え去っていたパンデミックの死闘。そして、絶対に失敗の許されない大貴族の生誕祭でのフルコース提供。
怒涛の数日間を駆け抜け、ついに俺は自分の城(雇われ)へと帰還したのだ。
「アル様、お疲れ様です。ガレン先生、液体窒素にすっかり夢中になっておられましたね」
背後から、静かな、しかし確かな温もりを帯びたセラの声が続く。
彼女もまた、あの地獄のような現場を共に駆け抜け、俺の右腕として完璧な働きを見せてくれた。その洗練された佇まいと、内側から溢れるような生命力は、数ヶ月前にガレンの地下室で震えていたガリガリの少女の面影など微塵も残っていない。
「あいつのことだ、きっと寝食を忘れて研究に没頭するだろうさ。……さて、表の営業準備を手伝うとするか」
オープンキッチンの方へ視線を向けると、巨漢の店主であるバッカスさんが、カウンターを丁寧に布巾で拭き上げているところだった。
「お、アル坊。ガレンの野郎との話は終わったか?」
俺の足音に気づいたバッカスさんが、布巾を置いて豪快な笑みを浮かべた。
「ええ。相変わらず素直じゃないですが、良いお土産を渡せましたよ。……バッカスさん、留守の間、ご迷惑をおかけしました」
「馬鹿野郎、水臭いこと言うな! 祭りはまだ終わってねぇはずなのに、伯爵領からこっちに逃げてきた行商人が居てな?『あっちで恐ろしい病が蔓延したらしい!』って不穏な噂を聞かされてよ! 生きた心地がしなかったぜ! 全員、無事で良かった!」
バッカスさんの言葉に、俺は少し目を丸くした。
「……なるほど、避難してきた商人たちから噂が伝わっていたんですね。ええ、色々ありましたが、結果的に最高の報酬と、新しい『戦利品』を手に入れて帰ってきましたよ」
「戦利品だぁ? 伯爵様からたんまり金貨でも貰ってきたのか?」
「金貨以上の価値があるものですよ。それと――」
俺が答えようとした、その時だった。
俺の背中のすぐ後ろ、死角になっていた場所からトコトコと軽い足音を立てて『彼女』が姿を現した。
透き通るような純白の髪に、色素を持たない真っ白な瞳。完全なアルビノの容姿を持つ、見た目年齢七、八歳ほどの幼女。
アイリスの花の意匠(紫と黄色のグラデーション)が施された未来的な白いワンピースを纏った彼女は、俺のズボンの裾を小さな手できゅっと掴み、感情の読めない瞳でじっとバッカスさんを見つめた。
俺の脳内に宿る超演算AIであり、俺の魔法そのものが実体化した存在――システム幼女、アイリスだ。彼女はずっと俺の中で視覚を共有していたため、この店もバッカスさんのことも初見ではない。
だが、こうして実体化して真正面からバッカスさんを見据えるのは初めてだった。
「…………ん?」
バッカスさんの動きが、文字通り石像のようにピタリと固まった。
(アイリス、どうした?)
俺が念話で問いかけると、アイリスはシステム音声を脳内に響かせた。
【報告。空間波長内に、高位のエネルギー残滓を検出。……解析不能。データベースにも該当なし。……でも、不快じゃない】
解析不能の高位エネルギー?
俺がその異質な報告に眉をひそめた直後。
「お前っ、たった数日の出張で『隠し子』をこさえて連れて帰ってきたのかァァァッ!?」
店内に響き渡るバッカスさんの大絶叫。
いくらなんでも年齢的に計算が合わないだろう、と俺がツッコミを入れた、その瞬間だった。
「……」「……」
俺のすぐ横から、一瞬にして周囲の気温を氷点下まで引き下げるような『絶対零度の殺気』と、空間そのものを押し潰すような『得体の知れない重圧』が同時に立ち上った。
「……バッカスさん。アル様が、外でそのような不誠実な真似をするはずがありません。冗談であっても、即座に訂正を要求します」
セラの薄藍色の瞳が、ハイライトを完全に失い、物理的な温度を奪うように冷え切っていた。その手にはいつの間にか、厨房の奥にあったはずの鋭いペティナイフが握られている。
「うふふ……バッカス様。少しばかり、笑えない冗談ですわね?」
そして、出張の手仕舞いを終えて合流したフェリシア様が、いつの間にか背後に立っていた。彼女は満面の笑みを浮かべているが、その圧倒的な豊満さから放たれる本来なら心地よいはずの母性的なオーラが、今は完全に『怒れる聖母(あるいは魔王)』の威圧感へと反転し、バッカスさんをロックオンしている。
「ひっ……! じょ、冗談だ! 悪かった! 俺が悪かったから、その物騒なモンをしまってくれ!」
百戦錬磨の酒場の親父であるバッカスさんが、二人の少女の圧力に完全に耐えきれず、顔を引きつらせてカウンターの奥へ後ずさった。
「まったく……。バッカスさん、この子はアイリス。俺のもう一人の『相棒』ですよ。俺の固有魔法が、わけあって実体を持てるようになったんです」
俺が溜息をつきながら説明すると、バッカスさんは大げさに息を吐いた。
「ま、魔法の実体化……? 驚かせやがって、本当かよそれ」
巨体でキョドるバッカスさんに対し、アイリスは俺のズボンの裾から手を離し、トコトコと短い足で歩み寄った。
そして、巨漢のバッカスさんの足元まで来ると、スッと無表情なまま彼を見上げた。
くんくんと匂いを嗅ぐように、小さな鼻をヒクつかせる。
「……ん。大きくて、温かい。……マスターと同じ匂いがする。悪くない」
そして、日向の特等席を見つけた仔猫のように、バッカスさんの丸太のような太い足にすり寄り、両手でぎゅっと抱きついたのだ。
「――――ッ!!」
その瞬間、いかついバッカスさんの顔面が、まるで沸騰したヤカンのように真っ赤に染まった。アイリスの底知れなさに警戒していた様子など一瞬で吹き飛んでいる。
「お、おおお……っ! な、なんだこの生き物は! めちゃくちゃ可愛ぇじゃねえか……っ!」
普段の豪快な面影は一瞬にして消え失せ、そこには完全に『初めて孫を抱いて理性を失った好々爺』と化した大男の姿があった。
「よしよし、嬢ちゃん! 名前はなんて言うんだ? 腹は減ってねえか!?」
バッカスさんのデレデレな問いかけに対し、アイリスは彼に向けて小さな両手をスッと伸ばした。
「回答。アイリスはお腹はすかない、でも味は判別できる……よって甘味を所望する……ん」
「おおそうかそうかアイリスちゃんか! おじちゃんがいっぱい食わせてやるからな! 厨房の奥に、こないだ焼いたクッキーの残りがあるぞ! 果実のジュースも絞ってやろうな!」
「……ん。食べる。提案を承諾」
バッカスさんはアイリスを軽々と、まるで壊れ物を扱うようにそっと抱き上げると、頬ずりせんばかりの勢いで厨房の奥へと消えていった。アイリスも全く抵抗せず、むしろ居心地が良さそうにバッカスさんの太い腕の中にすっぽりと収まっている。
「……やれやれ。俺の超絶演算システムが、すっかり甘やかされてしまったな。食事なんて必要ないはずなのに」
俺が呆れて肩をすくめると、いつの間にか殺気を収めていたフェリシア様がふわりと微笑み、俺の腕にそっと両手を添えてきた。
「ふふっ。バッカス様は本当にお優しくて、大きくて温かい器を持った方ですから。アイリスちゃんも、それが理屈ではなく直感で分かったのでしょうね。……アルフレッド様、長旅、本当にお疲れ様でした」
フェリシア様の密着した腕から、布越しでもはっきりと分かる圧倒的な柔らかさと、心を溶かすような上品な花の香りが伝わってくる。
「アル様。荷物の整理は私が済ませておきます。アル様はどうか、そちらでお座りになってお休みください。……今日の厨房は、私が回しますから」
セラもまた、いつもの完璧な右腕としての働きを見せる。
表の厄介事をすべて引き受けてくれる心強いフェリシア様と、厨房で俺の意図を完璧に汲み取る右腕のセラ。そして、甘えん坊のシステム幼女と、頼れる親父と、隣には天才の悪友。
(……この温かい場所と仲間たちがいるからこそ、俺は最高のカクテルを振り続けることができるんだな)
俺はカウンターの内側へと足を踏み入れ、愛用の道具たちにそっと触れた。
そして、厨房の片隅に置かれた木箱へと視線を向ける。
あの極上の『幻の魚』は、時間停止機能のついた魔法袋を持つラモンがそのまま王都へ向かってしまったため持ち帰れなかったが、常温でも一日持つという『本山葵』だけは、しっかりとこの男爵領まで持ち帰ってきていた。
「……休んでいる暇はないな。これを使って、バッカス亭の新しい看板メニューの試作が山積みだ。この街の連中の胃袋を、もっとデカく揺さぶってやらないと」
異世界での俺のバーテンダー生活の『第2ラウンド』が、ここから本格的に始まろうとしていた。
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