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第十六話:食べる雲、飲むサファイア

 フェリシアが本来の、いや、それ以上の輝きを持って「完成」したその夜、男爵邸の厨房は、静謐な歓喜と、ある種の「教室」のような熱気に包まれていた。


数時間前までアルフレッドをよそ者扱いしていた料理人たちは、今や一言も聞き漏らすまいと、彼の手元を食い入るように見つめている。


「料理長、いいですか。これは魔法ではありません。ただの理屈です。……この銀鱗岩魚の身は、摂氏 50℃を超えたあたりからタンパク質が固まり始め、 60℃を超えると中の水分が外へ逃げ出そうとします。だから、火を入れるときは常にその境界線を意識してください」


アルフレッドは、コンロの火力を細かく調整しながら、この世界の料理人が経験則だけで行っていた「火入れ」を言語化していく。彼の手元では、岩魚の皮目がフライパンの熱を受け、パチパチと小さな、しかし小気味よい音を立てていた。


「皮目をパリッとさせるのは、細胞の中の水分を逃がし、油と置き換える作業です。……ほら、ここです。この色が変わった瞬間が、裏返すタイミングだ」


「……信じられん。これほどまでに論理的で、かつ精密な火の扱い……。アルフレッド殿、あなたは料理人としても、我々のはるか先を行っている」


料理長が感嘆の声を漏らす。アルフレッドはそれを「バーテンダーの嗜みですよ」と軽く受け流しながら、仕上げの盛り付けに入った。


(アイリス、フェリシアさんの嗅覚と味覚の感度を再確認しろ。半年間の飢餓状態を経て、神経系は過敏になっているはずだ)


【了解:個体名フェリシア・ロズウェルの味覚および嗅覚受容体の活性化を確認。……現在のポワレの香気成分は、脳内に強烈なドーパミン放出を促すと予測されます。……提示された盛り付け、および構成は麻薬級です】


アルフレッドは内心でアイリスの報告を聞き届け、一皿を完成させた。


銀鱗岩魚のポワレが運ばれてくると、フェリシアはその芳香だけで、鼻腔の奥が熱くなるのを感じていた。

半年間、液体すら受け付けなかった彼女の胃壁が、かつてないほど激しく「食」を求めて拍動している。

ナイフを手に取るその指先はわずかに震えていたが、それは恐怖ではなく、生命の根源的な飢えだった。


銀色の皮目にナイフの刃を立てると、まるで薄い氷が割れるような、繊細で小気味よい音が響いた。一切れを口に運んだ瞬間、フェリシアの思考は白く塗りつぶされた。


まず訪れたのは、極限までカリカリに焼き上げられた皮の香ばしさ。そして、次の瞬間には、舌の上で岩魚の身が文字通り「雲」のように解けて消えた。


「……っ!?」


あまりの柔らかさに、彼女は思わず目を見開いた。噛むという行為が、これほどまでに官能的で、幸福な衝撃を伴うものだとは。岩魚の脂は、この地の清流そのもののように澄み渡りながらも、野生の力強い旨味を秘めている。噛み締めるたびに、皮下組織に蓄えられたゼラチン質が熱で溶け出し、濃厚なソースとなって喉を滑り落ちていく。


「あ……美味しい。……私、今、自分の歯で、この命を食べています……」


彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは味覚の感動を超え、自らの肉体が再構築され、世界と再び繋がったことへの歓喜だった。


セラのカッティングによる根菜の甘み、そしてアルフレッドの完璧な火入れ。それらが混ざり合い、彼女の血管の隅々にまで熱いエネルギーを送り込んでいく。彼女は一噛み、また一噛みと、噛み締めることの快楽を全身で味わい尽くしていた。


食後、アルフレッドは彼女の目の前で、重厚な輝きを放つバロン・シェイカーを手に取った。これまでの治療用の工程とは明らかに違う、洗練されたバーテンダーとしての所作。


アルフレッドはシェイカーに、角を落とし、表面を磨き上げた極上の氷と、深い青色を帯びたハーブのエッセンス、そして一欠片の魔力結晶を滑り込ませた。


――カシャカシャ、キンッ、キンキンッ!


静まり返った部屋に、高く、硬質な金属音が響き渡る。氷がシェイカーの肉厚な壁面に叩きつけられ、液体を急冷しながら空気を細かく含んでいく音だ。あの野菜を潰したときの「グシュ、ズシュ……」という重い破壊音とは似ても似つかない、まるでお祝いの鐘を鳴らすような澄んだ旋律。アルフレッドの手首の動きに合わせ、氷がシェイカー内部を最短距離で滑り、完璧な対流を生み出していく。


「おめでとうございます、フェリシアさん。……今のあなたにふさわしい、新生のサファイアです」


クリスタルグラスに注がれたのは、彼女の瞳と同じ、深く透き通ったサファイアブルー。そこにアルフレッドがライムを一絞り加えると、液面から底へと向かって、魔法のように鮮やかなパープルへと色が溶け込んでいった。


「あぁ、綺麗…まるで魔法のようです…」


フェリシアがそのグラスを口に含むと、まずライムの鋭い爽快感が鼻を抜け、続いてハーブの奥深い森の香りが舌を包み込んだ。キンと冷えた液体が、まだ食事の熱を帯びた喉を心地よく愛撫していく。魔力結晶の微細な粒子が、炭酸とは違う繊細な刺激でパチパチと弾け、彼女の神経を優しく解きほぐした。


「冷たいのに……身体の奥が、温かくなっていくみたいです。……これが食べることの…生きることの…喜びなのですね…」


彼女はグラスを握る手の温もりを感じながら、その一杯を慈しむように飲み干した。サファイアからパープルへと移り変わるその色は、彼女の閉ざされていた過去から、輝かしい未来への転換を象徴しているようだった。


アルフレッドは、内心でアイリスが告げる「栄養吸収率:完璧」という無機質な報告を聞きながら、満足げに微笑む彼女を見つめた。自身の最適化された体質が、彼女に与えたエネルギーを余さず血肉に変えていくのを確信しながら。


「……アルフレッド様。私、いつか、あなたがいるあの店へ……バッカス様のお店へ、必ず伺います」


「ええ。最高のおもてなしをお約束します。」


二人の間に流れるのは、もはや患者と施術者のそれではなく、一人の淑女と、彼女の人生を再定義した至高のバーテンダーとしての、静かな絆だった。


◇◇◇


翌朝、アルフレッドは男爵の書斎に呼ばれていた。テーブルの上には金貨の袋が用意されていたが、男爵はそれを差し出そうとして、ふと手を止めた。


「アルフレッド殿。……昨夜、料理長から聞いた。君は自らの持つ、あの恐るべき調理技術を、惜しみなく我が家の料理人たちに伝えたそうだな。……本来なら、あれだけで城が建つほどの価値がある技術だ。金貨だけで済む話ではない」


アルフレッドは、窓の外の景色を見つめながら静かに答えた。


「俺はバッカス亭の雇われバーテンダーです。もし報酬をいただけるのであれば、俺個人ではなく、店と……そして知人のために手配をお願いしたい」


「……知人、か。それは誰かね?」


「行商人のラモンです。彼はこの土地に無い遠方の海産物を仕入れる能力があります。そして仕入れが出来ると言うことは逆に運ぶことも出来ます。……男爵、この男爵領には山や川の特産品が多くあります…この意味が男爵ならお分かりいただけますよね?ラモンが夢として語る商会に、男爵家としての公式な出資と後ろ盾をいただけませんか?」


男爵は少し目を見開いたが、やがて得心したように頷いた。

「なるほど、海産物…。そして物流…我が領の発展にも繋がる…か…。承知した。彼には私から使いを出し、商会設立の勅命を伝えよう。……では、バッカス亭への礼はどうすればいい?」


「バッカス亭を、ロズウェル男爵家公認の店として認めていただきたい。そして、バッカスが店を広げたいと言い出したなら、そのための資金と人員の融通を。」


男爵はしばらくアルフレッドを見つめていた。その瞳には、金銭や名誉に執着せず、ただ「自分の居場所」と「人」ひいては「男爵領」のために権利を行使する男への、深い敬意が宿っていた。


「なんと…ふはは…まったく君という男は、底が知れないな。すべて約束しようではないか」


◇◇◇


正午。アルフレッドとセラを乗せた馬車が、男爵邸の門をくぐり抜ける。

バルコニーからはフェリシアが、そして厨房の入り口からは料理長たちが、名残惜しそうに手を振っていた。


「……アル様。ラモンさん、突然の商会設立の話に、きっと椅子から転げ落ちますよ」


セラが隣でクスクスと笑う。アルフレッドは、揺れる馬車の中で目を閉じた。

皆さんから見て面白い話を書けてるかわかりませんが毎話ごとに魅力的なタイトルを決めるのに苦戦しています。

短い言葉であれば有るほど難しいですねぇ…


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