第十三話:死の淵の令嬢と、雪解けの気配
翌朝、バッカス亭の前に現れたのは、漆黒の漆塗りに重厚な銀の装飾が施された、ロズウェル男爵家の馬車だった。
御者が恭しく扉を開ける。その動き一つにまで、歴史ある貴族家の格式が染み付いている。
「バッカスさん、留守をお願いします。……ガレン、あなたはもし急患が出た時のために診療所に残っていてください。今回は俺とセラさんの二人で行きます」
「ああ、気をつけてな。領主邸の奴らは、俺たちみたいな街の住人には排他的だ。……特にお抱えの料理人は、自分たちの聖域を荒らされるのを嫌うからな」
ガレンの忠告に、俺は短く頷いた。
カバンには最低限のカクテルセットと、昨夜から念入りに研ぎ澄ましたペティナイフ。
俺はバーテンダーとしての誇りと、一人の「命を救う」覚悟を胸に、セラを伴って馬車へと乗り込んだ。
揺れる馬車の中で、俺は窓の外を流れる男爵領の豊かな田園風景を眺めていた。
隣に座るセラは、膝の上に置いた小さな調理道具の包みを、指先で静かになぞっている。
「……アル様。心拍が少し、上がっていらっしゃいますか」
セラがこちらを見ず、静かな、波紋一つない湖面のような声で言った。
バーテンダーとしてのポーカーフェイスを維持しているつもりだったが、彼女の観察眼を欺くのは難しい。
「緊張というより、脳内レシピのシミュレーションですよ。……セラさん、あなたは平気ですか? 領主の館なんて、普通の女の子なら足がすくむ場所でしょう」
セラは視線を窓の外へ移し、氷のように涼やかな表情のまま答えた。
「場所がどこであれ、私のやることは変わりません。……でも、そのお嬢様には、少し興味があります」
「十八歳だそうだ。……身長は百六十五センチもあるのに、体重は今の君の半分ほどしかないという」
その言葉に、セラの薄藍色の瞳がわずかに揺れた。
「……半分。それは、もはや生きているのが不思議な数値です。……彼女にとって、世界はもう、味を失って久しいのでしょうね」
「俺のいた場所でも、心が折れたことで身体が食べ物を受け付けなくなる人はいたんだ。……セラさん、俺が『調合』に集中している間、君には彼女の『隣』にいてもらいたい。今の彼女には、大人たちの必死な顔より、君のその落ち着いた佇まいが必要なんです」
セラは一瞬、俺の手元に視線を落とし、小さく頷いた。
「理解しました、アル様。私はただ、彼女が『不快』に感じない空気の一部になります。……あなたが、彼女に世界を味わせるために」
馬車が大きな轍を越え、豪華な石造りの正門が見えてくる。
男爵邸――通称「白亜の牢獄」。そう呼びたくなるほど、その建物からは生命の躍動が感じられなかった。
「さて……バーテンダーの真骨頂を見せるとするか。……セラ、行くぞ」
「はい。……お供します、アル様」
扉が開かれると、重苦しい空気を纏ったロズウェル男爵が広間で待ち構えていた。
エドワード騎士が跪き、俺たちを紹介する。
「……エドワードが連れてきたのが、これほど若い男だとはな。神官ですらお手上げの娘を、酒場の料理人ごときが救えると本気で思っているのか?」
男爵の目は冷ややかで、深い絶望の裏返しとしての警戒が張り付いていた。
「救えるかどうかは、お嬢様次第です。私はただ、彼女の身体が今、悲鳴を上げて『欲しがっているもの』を、バーテンダーとして正しく差し出すだけですから」
不遜とも取れる俺の言葉に男爵は眉をひそめたが、俺は構わず本題に入った。
「失礼ですが男爵。お嬢様がこのような状態になられた『きっかけ』を、詳しく伺えますか? 栄養不足には必ず、原因となるエチオロジー(病因論)が存在します」
男爵は苦渋に満ちた表情で、重い口を開いた。
「……半年前、彼女の母親が病で亡くなった。その直後だ。この男爵家を支えねばという責任感からか、彼女は無理をして社交界に立ち続けた。ある晩の晩餐会で、完璧主義の彼女は『己の体型が、亡き母の気品を汚しているのではないか』という強迫観念に囚われた。……最初は、ごく僅かな食事制限だったのだ」
だが、それは止まらなかったという。
社交辞令で囁かれた「少しお痩せになりましたね」という言葉が、呪いのように彼女を縛り付けた。
やがて、彼女を支えていた唯一の理解者であった家庭教師までが不慮の事故で世を去り、フェリシア様は「食べる」という本能そのものを、罪悪感と共に封印してしまった。
(……拒食症の典型的な悪化スパイラルだ。そして、それに追い打ちをかけたのが『貴族としてのプライド』か)
「一度、お嬢様に会わせていただけますか?」
「……こっちだ」
俺たちはフェリシア様の寝室へと通された。
そこに横たわっていたのは、白磁の彫刻のようになす術もなく痩せこけた少女だった。
百六十五センチ。かつては凛としていたであろう長い四肢は、筋肉を失い、皮一枚で骨を繋ぎ止めている。
その体重、三十二キロ。生ける骸、という言葉がこれほど残酷に当てはまる光景はない。
俺はベッドの傍らに立ち、静かに目を閉じて彼女の呼吸に意識を集中させた。
(アイリス、『生化学の眼』を展開。……生体組織の構成成分および、代謝異常の根本原因を特定しろ)
【承認:『生化学の眼』起動。……対象のバイタルスキャンを開始。……完了。血液データおよび粘膜組織の視覚化に成功しました。……極めて危険な状態です】
視界の端に、浮遊する半透明のグラフや、血中のミネラル濃度が罗列される。
神官の魔法でも見抜けなかった、彼女の身体の「内側の声」が、冷徹なデータとなって脳内に直接流れ込んできた。
【警告:重度の『リフィーディング症候群(再給餌症候群)』の兆候を検知。長期の飢餓により、細胞内のリン、マグネシウム、カリウムが限界まで枯渇しています。この状態で高栄養価の食事を摂取させると、インスリンの急上昇に伴う細胞内への電解質移動により、心不全を誘発する恐れがあります】
「……なるほど。これまでの料理人たちが作った『精のつく料理』こそが、彼女を死の淵に追い込んでいたわけだ」
脂の乗った肉、濃厚なコンソメ。その贅の限りを尽くした「優しさ」が、彼女の心臓を止める最後の一押しになっていた皮肉。
【対処シークエンスを提示します:
第一フェーズ:代謝の再起動。
浸透圧を 290mOsmLに調整した電解質液の経口投与。
第二フェーズ:胃粘膜の保護と血流改善。
微量のカプサイシン誘導体による内臓温度の緩やかな上昇。
第三フェーズ:アミノ酸の段階的導入。
以上のシークエンスにより、細胞が『栄養』を認識できる土壌を再構築することを推奨します】
(……了解。レシピは書けた)
俺は、男爵に向けられていた鋭い視線を緩め、隣に立つセラに短く合図を送った。
「セラさん。お嬢様は『食べたくない』のではありません。……あまりの冬の長さに、身体が『春の受け入れ方』を忘れてしまっただけなんです」
セラは表情を変えず、ただ静かに、フェリシア様の枯れ木のような指先をそっと包み込んだ。
その手の温もりに、少女の睫毛が微かに震える。
「……理解しました、アル様。彼女の身体に、雪解けが始まったことを教えてあげるのですね」
「ええ。……男爵、厨房をお借りします。今から俺が作るのは、華やかな料理ではありません。彼女が明日を生きるための、『生命の起動スイッチ』です」
俺は翻り、セラを伴って厨房へと向かった。
背後で男爵が何かを言いかけたが、それを聞く余裕はない。
俺の頭の中では、すでにミリグラム単位の電解質調合と、秒単位の加熱プロセスが、アイリスの演算によって完璧な図面へと組み上げられていた。
コンタック鼻炎Zの効きがよすぎてこの数十年で一番鼻の調子がいいです。
香りが楽しめないと食事は楽しく有りませんからね。
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