第十二話:騎士と、労りの風
歓喜に沸くバッカス亭の熱気を冷ますように、夜の湿った風が重厚な木扉を押し開けた。
現れたのは、磨き上げられた銀の胸当てに、この一帯を治めるロズウェル男爵家の紋章――「金色の天秤と剣」を刻んだ一人の騎士だった。
「……随分と騒がしいな。だが、表まで漂っていたこの香りは、ただの酒場のものとは思えん」
鋭い眼光が店内を射抜く。その威圧感に、バッカス達の喧騒が一瞬で静まり返った。
バッカスさんが警戒して、カウンターの下に隠した斧の柄に手をかけたが、俺は手元のグラスを磨きながら、それを静かに制した。
(……アイリス、こいつをスキャンしろ。敵意か、それとも…?)
【個体呼称『エドワード』を確認。筋肉の緊張度は高いですが、攻撃的なアドレナリン放出は認められません。……むしろ、血中のコルチゾール値が異常です。慢性的な過労と、精神的な極限状態。……端的に言えば、この男は『魂』が飢えています】
騎士の目は、鋭いがどこか悲痛な色を帯びていた。それは略奪者の飢えではなく、守るべきものを指の間から零し落としそうになっている者の、切実な渇きだ。
「いらっしゃいませ。生憎、看板の時間ではありますが……。騎士様のような方が、どうしてもとおっしゃるのであれば、私にできる限りの一皿をお出ししましょうか?」
俺は努めて穏やかに、バーテンダーとしての最高のホスピタリティを込めて問いかけた。
騎士は無言で、吸い寄せられるようにカウンターの隅へと腰を下ろした。俺は魔法冷蔵庫の最深部、氷の結晶が幾何学模様を描く強冷層から、最後に残しておいた真鯛の切り身を取り出す。
「ラモンさん、恐縮ですが例のスパイスをもう一度お借りできますか。……それからガレン、あなたの薬草ストックから、香りの高いミント系と、神経を鎮めるものを数種、お願いできますでしょうか」
「ああ、これか。全部持っていけ」
「……わかった。アルフレッド、無理はするなよ」
ガレンは丁寧に乾燥させた薬草をカウンターに並べた。
俺は真鯛の身に、雪の結晶のように細かい岩塩をパラリと振る。
「……その魚、死んでいるのか? まるで今さっき海から跳ね上がったような輝きだが……」
エドワードが、吸い込まれるような真鯛の「艶」に目を見張った。
「魔法冷蔵庫の力ですよ。腐敗を、一時的に止めているんです」
先ほどのスズキのような力強いポワレとは違い、今のこの男に必要なのは胃に突き刺さるような衝撃ではない。俺はフライパンではなく、昨夜のコンソメをベースにした出汁で「蒸し煮」にする選択をした。
小鍋に、深みのある黄金――マリーゴールド色のコンソメ・ドールを注ぎ、ラモンから借りた赤い実のスパイスを数粒、包丁の腹でパチンと軽快に潰して放り込む。
(アイリス、液温を摂氏 85 度で完全固定。沸騰の気泡による物理的ダメージを排除し、スープの微細な振動だけで熱を伝えろ)
【承認:熱源出力を 0.1 度単位で最適化。……素材のタンパク質が凝固を始める直前の、最も柔軟な状態を維持。アミノ酸の結合を緩めつつ、旨味の流出を最小限に抑えます】
スープが、まるで呼吸をするように微かに揺らぎ始めた。
俺は真鯛の切り身を優しく沈め、その上にガレンから受け取った清涼な薬草を数葉、羽を休める小鳥のように載せて蓋をした。
エドワードは、俺が「火」を使っているにもかかわらず、鍋の中が鏡のように静まり返っていることに、驚きを通り越して畏怖の念を抱いたようだった。
「煮立てないのか……? それでは、芯まで火が通らぬだろう。生煮えの魚は、騎士の胃を壊すぞ」
「沸騰は、素材の細胞を破壊する暴力です。静かな、しかし深い熱こそが、魚の身を最も柔らかく『解く』んですよ。……少々お待ちを。その間に、あなたの渇きを癒やす一杯を」
俺は、バーテンダーとしての本領を発揮すべく、鈍い銀の光を放つシェイカーを手に取った。
ベースはラモンが持ってきた南方の強い蒸留酒。そこに、スパイスの種をじっくりと漬け込んで香りを移した特製シロップと、冷やし抜いたライムの絞り汁を加える。
(アイリス、液中の成分を均一化。アルコールの『角』を魔力振動で微細化し、揮発成分を液体に閉じ込めろ。彼が一口飲んだ瞬間、南国の情景が浮かぶように)
【承認:分子構造の再編を開始。……攪拌による酸素供給を最大化し、香りの粒子を磨き上げます】
「――……シャカ、シャカシャカ……」
静まり返った店内に、氷が銀の壁を叩く、澄んだ音が響き渡る。
その一連の流れるような、無駄のない所作。
エドワードは、祈りの儀式を見守る神官のような真剣な顔をして、俺の指先を追っていた。
「……魔法の、儀式か。酒を振ることで、これほどまでに澄んだ音がするものなのか。まるで、遠い雪山の氷が解ける音のようだ」
「お待たせいたしました。カクテル『サザン・ブリーズ(南風)』。そして……」
俺は静かに鍋の蓋を開けた。
瞬間、立ち上ったのは、魚の臭みを一切消し去った、芳醇なコンソメと爽やかな薬草の香り。
真っ白に、しかし瑞々しい真珠のような光沢を保って仕上がった真鯛を皿に盛り、スープを乳化させた淡いサンセット・オレンジのソースを回しかける。
「『真鯛のコンソメ蒸し、薬草の調べ』です。どうぞ、冷めないうちに」
騎士はまず、薄橙色のカクテルを一口、慎重に啜った。
「――っ!? ……な、なんだこれは。喉を通る瞬間に、南国の熱い風が吹き抜けたような感覚だ……。なのに後味は、驚くほど清涼で、凍り付いていた身体の芯が、内側からじんわりと解けていく……」
エドワードの強張っていた肩の力が、目に見えて抜けていく。
彼は震える手でフォークを取り、真鯛に添えた。
力を入れるまでもなく、身は自ら解けるように、ホロリと崩れた。
「……っ! 優しい……。だが、なんと力強い旨味だ。……噛むたびに、真鯛の淡い甘みがコンソメのコクと混ざり合い、スープとして身体に染み渡る。……これは、ただの食事ではない。身体の隅々にまで行き渡る『労わり』だ。神官の魔法を幾度受けても消えなかった私の疲労が、この一皿で消えていく……」
エドワードは最後の一口まで、拝むようにして食べた。
皿の上のソースをパンで一滴残らず拭い、飲み干すと、彼は背筋を伸ばして俺を真っ直ぐに見つめた。
「私の名はエドワード。ロズウェル男爵に仕える、近衛の長だ。……アルフレッド殿、貴殿に、命懸けの頼みがある」
「……何でしょうか。私にできることであれば」
「我が主の令嬢、フェリシア様を救っていただきたい。……あの方は今、死の淵におられる」
ガレンが横から、苦い表情で口を挟んだ。
「フェリシア様……。私が先日伺った時は、もはやなすすべ無しと宣告するしかなかった。あのお方は、あらゆる薬も、滋養強壮のスープも受け付けないはずだ」
エドワードの話によれば、フェリシア・ロズウェルは弱冠 18 歳。
身長 165 センチという恵まれた体格でありながら、その体重は、わずか 32 キロ。
骨と皮ばかりに痩せこけ、食べ物はおろか、水すらも拒絶し、文字通り死を待つばかりの状態にあるという。
「…… 32 キロ。それは、飢餓状態を通り越して、内臓の機能そのものが停止しかかっています。無理に栄養を与えれば、心臓が止まる……いわゆるリフィーディング症候群を引き起こす、極めて危険な段階ですね」
(アイリス、算出できるか? 現状のデータから彼女を救うためのプロセスを)
【……。現在の推計データより解析。……栄養導入初期におけるリン、カリウム、マグネシウムの急激な細胞内移動に伴う、致死的な不整脈のリスク 85 %。……ただし、マスターの『暴飲暴食の聖域』による 1.0 ミリグラム単位の微量元素調整があれば、生存確率は 92 % まで上昇します】
「……神官の魔法も、当家の料理人が作るスープも、すべて彼女の喉を通らぬ。だが、今、私が貴殿の料理で感じたこの『生命の熱』なら、あるいは……。このままでは、彼女はただ、枯れ木のように死んでしまう」
エドワードの声が、かすかに震えていた。
俺はグラスを磨き上げ、カウンターに静かに置いた。
( 32 キロ、か。……前世、俺が不摂生で身体を壊して死にかけた時、ベッドの隣にいた奴もそんな姿だったな。……『食いたいのに食えない』絶望。それは、食い過ぎて身体を壊した俺には、最も重い罰のように見えたよ)
「いいでしょう。俺はバーテンダーです。客が『飲みたい』と言うなら、それが死の淵であっても、最高の、そして『生きるための一杯』を届けるのが仕事ですから。……彼女を、診させてもらいます」
エドワード騎士は、椅子から立ち上がると、一人の戦士としてではなく、一人の人間として、深く、深く頭を下げた。
「感謝する。……明日、早朝に馬車を差し向けよう。……アルフレッド殿、貴殿が我が家の光となってくれることを切に願う」
騎士が去った後、バッカス亭には静寂が戻った。
ラモンとバッカス、そしてセラさんは、俺がこれから挑む事の重さを感じ取ったのか、静かに俺を見守っていた。
(アイリス、準備だ。……糖質、アミノ酸、電解質の、完璧な『再構築』レシピを構築しろ。……俺の、本当の仕事はここからだ)
【了解。……レシピ構築を開始します。マスター、今夜は十分な睡眠を。あなたの集中力が、彼女の寿命を左右します。……肉体、精神共に最高状態で臨むことを推奨します】
(……わかってるよ。)
セラさん、明日は少し、朝が早くなりそうです。手伝っていただけますか?」
「はい。……アル様。私、全力でお支えします。何でもおっしゃってくださいね」
セラさんの真っ直ぐな瞳に見送られながら、俺は次の戦場へと想いを馳せた。
それは魔物との戦いよりも遥かに繊細で、しかし何よりもやりがいのある、一人の女性の「生命の再起」を懸けた闘いになるだろう。
しっかし花粉がひどいですね。
鼻にティッシュを詰めてたのにそれを全て濡らしきって垂れました。
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