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1『食べないでくださーーい!!』

ぴちゃぴちゃ、くちゃくちゃと音がする。眠っていた俺は目を覚まし、横になったままそちらを見た。女がそばに座り込んでいた。真っ赤に染まった両手を口元へ近づけ、獣じみた動きで何かを喰らっている。

嫌な予感がして、自分の体を見た。腹にぽっかりと大きな穴が開いていた。てらてら光る薄桃色の内臓とズタズタになった皮膚と肉の塊とが、どす黒い血の中で混じり合っている。

不思議と痛みはなく、これから死ぬんだという実感も湧かなかった。俺は寝ぼけたまま、俺の内臓を夢中で食っている女の横顔をぼんやりと眺めていた。とうもろこしのヒゲのような白っぽい金髪と、雪のように透き通った肌……美しいと思った。どちらも、返り血で赤黒く染まっているのが残念だ。

視線に気付いたのか、食事を止め、女がこちらを見た。真っ赤な彼女は、瞳まで赤かった。

吸い込まれるようなその色に見とれているうち、少しずつ視界が暗くなってきて、意識を保つことが難しくなっていった。やがて彼女の顔に深い悲しみが浮かび、美しい両目からはらはらと涙が流れ落ちていった。

「許して」

全てが真っ暗になる直前、彼女がそう言った気がした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「という夢を見たんだが」

目が覚めて支度を済まし職員室に入ってからも、俺はまだぶるぶる震えていた。

「だからどうした、グズ」

「いや、超怖かった」

新人のマークは心底馬鹿にしたように俺を笑った。奴とは席が隣なので、割とよく話す。

「子供か、お前は。ローディーは魔術の腕だけでなく、精神も未熟なようだな」

ローディー、というのは俺の名前ではない。レベル1の魔術さえ習得できなかった奴をあざ笑うために使う言葉だ。

「こら、人をローディーって呼んだらいけないんだぞ。それは超失礼なことだ」

「カスをカスと呼んで何が悪い、ローディー。この魔法都市ソフィアにおいて、魔力こそ力の証だ」

俺という先輩のありがたいアドバイスは、残念ながら聞き入れられなかった。まあ、マークの言うことにも一理ある。

俺は世界中から才ある魔術師が集う都市ソフィアにある、オブシディア魔法学校の教授を務めている。魔力の高低というのは本人の努力も多少あるが、ほとんど生まれつきのものだ。だから高い魔力を持った魔術師は希少で、相応の権力を手にすることができる。

魔法学校の教授も、原則としてマスター以上の魔術師が務める事になっている。俺は少し事情があって、最低ランクのローディーながらこの学校で研究することを許されていた。まあ、教授なんて言っても名前だけのもので、同僚だけでなく、生徒でさえ俺を馬鹿にする。

「あ、マーク、後ろ髪跳ねてるぞ」

「……っ、うるさい黙れ!」

「ははは、照れてやんの」

だべりながら始業までの時間を潰していると、急に職員室の扉が開いて、誰かが転がるように駆け込んできた。

「マーク!マーク、どこにいる!パラジウムランプの準備をしておけと言ったろうが!」

怒鳴り声が響く。かんしゃく持ちのモリガンだ。奴はきょろきょろと部屋の中を見回し、俺と話しているマークを見つけると、顔を真っ赤にした。奴の頭にはあまり髪がないから、ちょっとタコみたいだった。パラジウムランプか……あれ、火を入れてから使えるようになるまでに少し時間かかるんだよな。今日は水銀棟で占星術の講義があったはずだから、天井に星空を移すのに使うんだろう。今から準備すると、朝の講義は遅れてしまうかもしれないな。

「アッハイ、今行きますぅ!」

情けない声で言うと、マークはすっ飛んでいった。他の教授にはこき使われている一番下っ端の彼でさえ、俺には冷たい。それでも会話をしてくれるだけ、あいつはまだマシな方なのだった。他の講師はみんな、俺の事を空気のように扱って無視をする。自分でも分かってる、ローディーの講師なんて、本当は存在してはいけない人間なのだ。

「マークッ!!」

そばに来たマークを、モリガンはいきなり殴りつけた。さすがにひどい。

「ごべんなさぁあああい、今日の朝は忙しくてぇ、つい準備を忘れてしまったんですぅ……」

「ローディーと話すなと言ったろうがっ!お前には、マスタークラスとしての誇りがないのか!!」

ああ……殴るくらいキレたのはそっちにか。下らない事で絡んでしまって、マークには悪いことしたな。

泣きそうなマークと目が合った。気まずかったのは一瞬で、すぐ奴の顔に悪意と怒りが満ちていく。……何度も経験してきたことだが、俺はこの、人との関係が壊れる瞬間が嫌いだ。次に自分がどんな目に合うのか想像できてしまって、胸がずんと重くなった。

「あいつが悪いんですぅ!!」

マーク、人を指さすんじゃない。それはそこそこ失礼なことだ。……って、もう言ってやることもできなくなるんだな。

「なにぃ?どういうことだ」

「僕は何度も準備しに行こうとしたんですけどぉ、あいつがなんとかかんとか言って邪魔してきてぇ」

「……何を言われた?」

「そ、それはもう、すったもんだのしどろもどろでぇ……ええと、そうだ、モリガン教授を侮辱していたんですよ!ハゲ野郎とか毛がないとかタコ坊主とか!敬愛する先生を馬鹿にされてしまっては、僕としてもつい言い返さざるを得なくなってしまいましてぇ」

「…………」

急に黙り込んだモリガンがこちらへ向き直り、つかつか近づいてきた。鬼のような顔をしている。

「俺はまだハゲじゃない!薄毛だァ!」

言うが早いか、奴は俺の後ろ髪を掴むと、俺の顔を思い切り机に叩きつけた。顔を抑え、強い痛みを感じながら床に転がる。やべ、はなぢでた。

『猛き火の精霊よ 衝天の柱となり 仇為す者に烈日の裁きを与えよ』

驚いて見上げると、モリガンは詠唱まで始めていた。それほど大きな術ではないが、俺一人を黒焦げにするのに充分な威力はあるだろう。

詠唱を止めようとも、避けようとも思えず、俺はぼーっとそれを眺めていた。

いつかこんな日が来るだろうとは思ってたが、俺は髪の話のせいで死ぬのか。少し、惨めだな。

「フレイムピラー!!」

奴が指さしたのは俺、の机だった。机の下の床が赤く光ったかと思うと、次の瞬間、激しい火柱が昇る。揺れる火の舌が俺のローブの裾を捕らえた。慌てて転がりながら遠のき、燃え移った火を消す。

「今日からここにお前の席はない!ローディーはローディーらしく、かび臭い地下の実験室にでも籠っていろ!」

俺はよろめきながら立ち上がり、書きかけの論文や、読みかけの本や、今日の授業で使う予定の教科書が燃えていくのを、茫然と眺めていた。

さすがにやり過ぎだと思ったのか、周りの教授たちも黙って様子を見ていた。当然、火を消そうなんて奴はいない。そんなことをしたら、そいつは他の教授から立ち直れなくなるまでいじめられることになる。

「フフフ……アハハハハハ!!」

静まり返った教室の空気を、耳障りな笑い声が裂いた。

「いやぁ、いい気味だ!ローディーごときがマスターランクの俺と対等になった気でいるからこうなる!あぁ~さすがですぅモリガン教授ぅ、短い詠唱でこの威力とわぁ!!」

いつの間にかそばに来ていたマークはひとしきり俺を笑いものにした後、揉み手しながらモリガンに媚を売った。するとそれにつられたように、周りも俺の事を小さな声で笑い始めた。誰も俺と目を合わせない。ただ横目にこちらを見ながら、ひそひそと陰口を言っている。

火が他の机に燃え移りそうになると、何人かの教授たちが風魔法を使って火を閉じ込めた。モリガンの放った魔法の火は俺の机と持ち物を喰らい尽くすと、食い物を失って飢えはじめ、風に吹かれてしなびけて、間もなく死んだ。残ったのは小さな灰の山だけだった。


「えー……この、ブリタニア領イベルナ砦を守っていた傭兵団『漆黒の翼』が暴走、国境近くにあったラコニア領アーンゲル砦を襲撃、占拠して中にいたラコニア人たちを兵士、従者、奴隷の見境なく皆殺しにした事件、これを『アーンゲルの罠』という。この事件がきっかけで、今も続くラコニアとの戦争が始まったわけだ。ここ超重要だぞーテストに出るからなー」

魔法学校の新入生は最初の一年、数学や歴史、国語や魔術概論などの教養を学ぶ。魔術の才能がない俺は、もっぱら教養科目の講義を受け持っている。

教壇越しに見る生徒の有様はひどいものだ。ほとんどの生徒は後ろの席に固まり、眠ったり、喋ったり、関係ない本を読んだりしている。教科書を開いて俺の話を聞いている奴なんていない。正直心が折れそうになるが、こんなことでへこたれていたらローディーで教授なんぞやってられない。

「この傭兵団、当然俺たちブリタニアに雇われてたわけなんだが……なんでそんなアホなことしたんだって思わないか?」

反応なし。

「実はな、この傭兵団はラコニア人のスパイだったんだよ。ブリタニアはいつも平和を望んできたが、ラコニアの奴らからしたら、戦争のきっかけが欲しかったわけだな。そのために同胞を殺すなんて、本当に血も涙もない奴らだ。ラコニアは一方的に開戦を通告してきて、『アーンゲルの罠』から三日も経たないうちに国境上にある各地の砦に攻め込んできた。まるで、前々から準備していたみたいにな。ブリタニアは当然これに抗議したんだが無視されて、今に至るってわけだ。

それで、これが起こったのは一昨年、872年の7月4日、いや7月8日……あれ、どっちだったかな。待ってくれ、今教科書を確認して……」

やべ、燃えたんだった。

「あー、えーと、そのー……何日だったっけ。誰か教えてくれないか?」

くすくすと俺を笑うばかりで、誰も教えてくれない。困ってあうあう唸っているうちに、チャイムが鳴った。

「各自、正確な日付を教科書で確認しておくこと。以上、講義終わり!」

救われた気分で言うと、さっきまで静かだった生徒たちは息を吹き返したように騒ぎ出し、足早に教室の外へ向かっていく。

次の授業は……午後に数学か。それまでどこで暇を潰すかな……。

「先生」

職員室は席が無くなっちまったし、俺の研究室は……あいつに占拠されてるしなぁ。

「先生」

広場や休憩所にいると魔力至上主義の奴らに絡まれるから、長居もできないし。全く、ローディーは肩身が狭いぜ。ああ、もういっそのこと家に帰って昼寝でも……。

「エン先生ッ!」

「んッ!?あ、ローラか。悪い、最近は先生なんて呼ばれることがなかったもんでね」

「今回の授業の内容について、抗議したいことがありますの!」

お嬢様っぽい縦ロールをぷりぷり揺らして怒っている彼女は、ラコニアの貴族の生まれだ。戦争が始まる前まで、オブシディアは魔術の才ある者は国籍に関わらず入学を認めていた。

「漆黒の翼の事か?」

「ええ。あの傭兵団は間違いなくブリタニア人です。誇り高きラコニアは間者を使って騙し討ちなどと、卑怯な真似は致しませんわ!」

「俺もそう思うよ」

あっさり頷くと、ローラはぽかんとした顔になった。

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