第一話 調律師とサンドイッチ
「もんもんぐんぐん」
その八文字を書き残して、人が消えた。
消えた人物は髙山あきら。ゴスロリ衣装で出演する怪奇系動画配信者として知られていた。
彼女がライブ配信中に忽然と姿を消した当初は、ヤラセだという意見が大半だった。しかしその後、何日経っても配信が再開されず、フォロワーが通報したことで事態が明らかになった。
警察が訪れた時には外鍵だけでなく、内側からも鍵がかけられた所謂完全密室。
部屋の中に物は多いが、荒らされた形跡もなく、手がかりになりそうなものは何も残されていなかった——その書き置きを除いて。
規制線の前で、えるまは食べかけのサンドイッチを口に押し込んでいた。
パンが分厚い。自分の顔より大きいのではないかという代物で、えるまはそれを両手で抱えるようにして齧っていた。
「ちょっと、そこの方」
制服の警官が近づいてきた。えるまはもぐもぐしながら振り返った。
「ここは関係者以外——」
えるまは無言でコートのポケットから名刺を一枚取り出して差し出した。咀嚼は続いている。
警官が名刺を見た。眉を寄せた。
「……調律師?」
えるまはパンをゴクリと飲み込むと、「そうです」と言った。
「調律師って、楽器の?」
「まあそんなようなものです」
「いや、まあそんなようなものでは困りますよ。ここは捜査現場で——」
押し問答が続いた。えるまは特に急ぐ様子もなく、その間もサンドイッチを齧り続けた。警官が二人になり、三人になりかけたところで、奥からスーツ姿の女性が歩いてきた。
久米歩警視。キャリアである彼女がこんな現場に現れるのは珍しいことだった。
「何か問題でも?」
「これは、久米警視!」
その場にいた警官たちの背筋が伸びる。
久米は警官たちに囲まれたえるまを見ると、笑顔を見せた。
「よく来てくれたわね」
「——うん」
えるまはサンドイッチを咀嚼しながら答えた。
「通していいわよ」
「でも、この人は——」
「今回は、もう別案件。領分が違うのよ」
説明はそれだけだったが、ひとりの警官が何かに思い当たったようだった。
「ハッ、それでは失礼いたします!」
敬礼をすると、他の二人の背を押すようにして去っていった。
えるまは、まだ半分残っているサンドイッチを名残惜しそうに袋にもどすと、久米警視に会釈をして規制線をくぐった。
三〇三号室の扉を開けた瞬間、世界が変わった。
視界の端まで染まるような、極彩色の圧。
棚にはぬいぐるみが押し込まれるように並び、モニターやPCがその下を埋めていた。
配信者というのも大変だ。えるまはそんな事を考えつつ中に踏み込む——肌を刺すような違和感。
見えない何かのリズムで微かに震えているような感触。
調律師であるえるまの鋭敏な感覚は、狂った律を捉えていた。
えるまの視線が、机の隅で止まった。
小さなトンボ柄の巾着袋。口が開いていて、中から黒ずんだ石のようなものが半分だけ顔を出している。
極彩色溢れる部屋の中にあって、唯一異質なモノクロな存在だった。
えるまは手帳に残された文字を見た。
「もんもんぐんぐん」
書き残した相手は感じていたのだ。これが鳴り始めた瞬間から。
うまく言葉にできないまま、それでも確かに感じていたから、自分なりの名前をつけた。脈打つ何かを。ぐんぐんと侵食してくる何かを。
調律師としては、なかなか的確な命名だとえるまは思った。
そのとき、脈動が跳ねた。
足元から這い上がってくるような震え。頭の中に直接叩き込まれる不快なリズム。もんもんと揺れて、ぐんぐんと食い込んでくる。
えるまの平衡感覚が狂いはじめ、視界が滲んだ。




