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8.父

牢での仕事を終え、白い息で冷たい指先をあたためながら帰宅したダニエラは、ドアを開けた瞬間、ピタリと動きを止めた。全身が硬直する。


家の床には、泥のついた大きな足跡が、廊下に無遠慮に刻まれている。玄関から、母の部屋へと向かっているその痕跡が、まるで不吉な呪文のようにダニエラの心を凍らせた。


(どうして…こんな時に…)


恐怖と嫌悪、怒りと諦めの入り混じった感情を胸に押し込め、母の部屋のドアを開ける。


「やっと帰ってきたか、可愛いダニエラ。さて、金はどこにある?」


それは、記憶の中に封じたはずの父の声。やつれ、崩れた顔。それでも、その卑しさだけは変わっていなかった。


母エイメリーは、ベッドにぼんやりと座っていた。


「キッチンでこれだけは見つけたんだが、これっぽっちなわけはないよな?」


父はダニエラがキッチンへ保管しておいた、家賃が入った封筒を、ひらひらと揺らした。


ベッドに腰かけていたエイメリーが、突然立ち上がる。


「こんなに少ないなんて…フィリップががっかりしちゃうじゃない!」


母の叫び声が突き刺さる。


その手が飛んできた瞬間、ダニエラは咄嗟に身を引くことができなかった。乾いた音とともに、頬に焼けるような痛みが走る。


「なんで、こんなに少ないの!?フィリップががっかりしちゃうじゃない!」

「お、お母様…」

「毎日牢で働いてるって言ってたわよね?もう半年以上働いているわよね?それでこれだけ?足りない、全然足りないのよ!」


もう一度母の手がダニエラの頬を打った。長く伸びた爪が、ダニエラの頬を傷つける。


「しかもフィリップに向かってお金を返せだなんて!あなたの父親なのよ!娘なら父親に従って、父親のために尽くすべきでしょう!」

「お母様…お願…」


エイメリーはフィリップを見て、甘えた声を出す。


「そうよね、フィリップ?」

「ああ、そうだな」

「ごめんなさいね、私はちゃんとしつけているつもりだったんだけど、この子ったら…」


エイメリーは鬼のような形相をダニエラに向ける。


「あなたのせいで私がフィリップに捨てられるじゃないの!」

「お母様…もうやめて…」

「やめてほしいなら、どうしたらやめてもらえるか考えなさい!」

「ごめんなさい…お父様、お金は持って行ってください。そして私は…私は…もっとお金を稼げるように頑張ります」


ーーー

翌朝。牢の厨房で、ダニエラは何も言わず調理に打ち込んでいた。何かに集中していれば、家でのことは忘れられる。これまでもそうだったように。


(仕事があってよかったわ)


ダニエラの頬には、赤みと生々しい引っ掻き傷が残っている。


「猫に引っかかれただけです」


繰り返すその言葉が、虚しく厨房に響く。誰の目にも明らかだった。あれは猫の仕業じゃない。だが、それ以上誰も踏み込めない雰囲気が、ダニエラを包んでいた。


「ノアさん、お食事の時間です」

「その顔、どうした?」

「猫に引っ掛かれました」

「嘘だな」


その一言が、ダニエラの中の何かを刺激した。胸の奥に押し込めていた感情が、いっきに吹き出す。


「だったらどうだっていうんですか!?」


いつになく攻撃的な返答をしてきたダニエラに、ノアは何も言わず、しばらく彼女を見つめていた。


「嘘だったら、嘘をつく理由を知りたい」

「どうしてですか?」

「頼ってほしいからだよ」


ノアの低い声。その優しさが、痛かった。その優しさすら、信じたくなかった。


「頼ったら、私を助けてくれるんですか?」

「ああ、俺が…」


ノアは顔を上げたダニエラを見て、言葉を切った。ダニエラはノアを睨みつけている。


「ノアさんが?どうやって助けてくれるんですか?あの家から私を連れ出してくれるんですか?どこか安全なところへ?できないでしょ?あなたはここから出られない囚人だもの」

「それは…」

「誰も私を助けてくれる人なんていないの!跪いて願っても、誰も助けてなんてくれない!だって…私は助ける価値のない人間だから。何もできないのに無責任なこと言わないでよ!」


言ってしまってからダニエラは我に返ってノアに背を向け、「大きな声を出して申し訳ありませんでした」と小さく震える声で謝って、キッチンに戻った。


周りの囚人たちが、責めるような視線をノアに向ける。


ノアは壁にもたれて、天井を見上げて「くそ…まだかよ、遅えんだよ」とつぶやいた。

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