5
喫茶店を出ると、あたしとミキはまた歩き始める。
「意外と楽しかったですね」
たいしたことはできなかったが、それでも、ミキは楽しんでくれたようだ。彼が楽しい時間を過ごせたなら何よりである。
「あら。意外、なのね」
目を細めながら言ってやると、ミキは慌てて首を左右に振る。
「あっ、いえ! すみません! その、あ、そういう意味じゃなく……!」
少し面白い。
「ふ。慌てているわね」
「えっ?」
「面白いわ、ミキ」
「え?」
「冗談に本気で返してくるところ、嫌いじゃないわ。面白くて見飽きない」
すると、ミキは突然大声を出す。
「え! 冗談だったんですか!?」
目を限界まで見開き、顎が外れそうなくらい口を開けている。どうやら彼は、あたしの発言を冗談だと理解できていなかったようだ。
あたしからすると、あたしの発言が冗談と理解されていなかったことが、一番の驚きだ。
顔つきや声色で察してくれるものと思っていたから。
けれど、よく考えてみれば、真剣に受け取る人がいてもおかしくはない。人は皆、感覚が違うのだから。
「冗談なら冗談だって先に言って下さいよー!」
「あら。先に言ったら面白くないじゃない」
「びっくりしたじゃないですかー!」
ミキは両の拳を握り締めながら必死に訴えてくる。
懸命さが初々しい。
「ごめんごめん」
「驚かさないで下さいよ。心臓に悪いです」
「老人みたいなことを言うのね」
「心臓の強さと若さは話が別です」
「……そうね!」
失ったものもあり、奪われたものもあり。けれども、今はこうして普通に話していられる。それは、様々なことを乗り越えてきたからこそ今ここにあるもの。
すべては無駄ではなかったのだと、そう信じたい。
過ちも、悲しみや苦しみも、なかったことにはできないけれど、それを越えたから今の平穏があるのだと、あたしは信じていたいと思う。
「若くても弱い人もいれば、年老いていても強い人もいるわよね」
「はい」
「ま、ミキは見るからに弱そうだけど」
「なっ! これでも武道経験はあるんですよ!?」
あたしたちが話しているのは、世界を揺るがすような大きな話題ではなく、道行く人誰もが気にしないような小さな話題。
だがそれでも、こうして話していると、案外楽しく感じるものだ。
特に今日は、快適な気温だから、なおさら心地よい。
「あたしは、武道経験の有無について言っているわけじゃないわよ?」
「それはそうですけど、弱そうと言われると悔しいです」
「……意外と素直ね」
「僕は元々正直者です!」
雲一つない澄んだ空は、あたしたちをそっと見下ろしている。
まるで、子を温かく見守る母親のようだ。
「ふふっ。そうだったわね」
「特にルナさんには、嘘をついたりするわけにはいきません」
「あら。なぜかしら」
そう問うと、ミキは微かに視線を下げた。
「そんなことをしたら……マモルさんに怒られてしまいます」
ミキは相変わらず真面目だ。
もっとも、今さら言うようなことではないのだけれど。
「マモルさんには、生前、とても良くしていただきました。それに、僕は今でも、彼を尊敬しているんです」
「そうだったの」
すると、ミキの瞳に光が溢れる。
「はい。グラウンド八十周の時にいつも泣いていた僕に、マモルさんは『大丈夫。俺も二歳の頃は、卵を割るのを十九個連続で失敗したりした』と、慰めてくれて。その時から、いつかマモルさんの部下になりたいと思っていたんです。それで……」
物凄い勢いでマモルの話を始めるミキ。その表情は、今までにないくらい輝いていた。その様は、まるで、将来の夢について語る子どものようだ。
「ついにマモルさんの部下になった日、会議の後に、『僕のこと覚えていますか?』と聞いてみたんです。そうしたら、『え? あ、あぁ、もちろん。三番街のパウンドケーキ店で前後に並んだことあったよな』って」
「覚えていなかったのね……」
「はい。あれは悲しかったです。今では笑い話ですけど」
そう、過去は遠ざかる。
悲しかったことも、いつかは薄れてゆく。
記憶が消えてしまうことはなくとも、傷が完全に癒えることはなくとも、進んでゆくことはできる。
あたしたちを待つ未来は、明るいだろうか。
そこに、悲しみは存在しないのだろうか。
——それはまだ、誰も知らないけれど。
◆終わり◆