第185話 『若者たちの成長』
アーシュラを殴り倒したチェルシーはさらに頭上から降り注ぐ矢を剣で払い落とす。
後方から迫る赤毛の女たちはもう200メートルほどの距離まで近付いていた。
そして先ほど蹴り飛ばしたプリシラもすでに起き上がっている。
「残念だけど今日はここまでね」
即時の決断を迫られたチェルシーはエミルの顎付近をいきなり拳で殴りつけた。
脳を激しく揺さぶられたエミルは一瞬で意識を刈り取られ、膝から崩れ落ちる。
チェルシーはその体を受け止めると、肩に担いだ。
殴られて倒れているアーシュラが苦しげな顔で必死に起き上がろうとしている。
プリシラは腰帯の短剣を抜いてチェルシーに向かって来た。
「エミルを放しなさい!」
だがそんなプリシラの怒声をかき消すように発砲音が響き渡る。
後方でシジマと共に状況を見守っていたオニユリがプリシラに向けて拳銃を放ったのだ。
その動きを察知したプリシラは直前で身をよじったが、弾丸は彼女の肩を掠める。
「ぐっ!」
プリシラは痛みに呻くが、それでも止まらずにチェルシーに向かっていく。
オニユリはそんなプリシラに追撃を加えようとしたが、そこで彼女は自分に迫る奇妙な物音を聞いた。
獣の息遣いと地面を駆ける音だ。
そしてオニユリはいきなり真横から何者かに襲われた。
「ガウッ!」
夜の闇に溶け込むような漆黒の何かが、オニユリに真横から飛び付いて押し倒す。
それは巨体を誇る黒い毛並みの獣だった。
「きゃあっ!」
予期せぬ襲撃者に思わず悲鳴を上げるオニユリに、その獣は食らいつこうとする。
だがシジマがその獣を蹴り飛ばした。
「ギャン!」
悲鳴を上げて獣は飛び退く。
星明かりに照らし出されたその姿を見て、シジマは驚きの表情を浮かべた。
黒く艶やかな毛並みを持つ、熊にも見紛う大型の狼が牙を剥いている。
「黒熊狼……こんな街中に?」
シジマはその黒熊狼に対して杭を投げ放とうとしたが、今度はそんなシジマに向けて矢が飛んでくる。
迫り来る赤毛の女たちから放たれたものだ。
さらには彼女らによる投石も続く。
シジマは舌打ちをして声を荒げた。
「鬱陶しい! オニユリ! 撤退するぞ!」
だがオニユリは兄の声も聞こえていないかのように怒りの形相で拳銃を構え、銃口を黒熊狼に向ける。
「このケダモノ!」
しかしその拳銃を構える手首を投石が襲った。
オニユリはその衝撃に拳銃を取り落としてしまう。
「ぐっ!」
手首に響く痛みに顔をしかめながらオニユリは拳銃を拾い上げると、今度はすぐ目の前に拳大の石が飛んできており、必死に身をよじってこれを避けた。
見るとすでに100メールほど先まで赤毛の女たちが迫っている。
「構うなオニユリ! 撤退だ!」
ピシャリとしたシジマの声にオニユリは唇を噛み締め、その場から離れていく。
するとちょうどその時、前方20メートルほどのところに1台の馬車が駆け込んで来て停まった。
御者台には頭に粗末な布を被った2人の若い男が乗っている。
ヒバリとキツツキが先回りをしてきたのだ。
手綱を握るヒバリの隣で松明を煌々と焚いたキツツキが手を上げるのを見たシジマは声を上げる。
「閣下! 離脱を!」
そう叫ぶとシジマはオニユリを引っ張って馬車へと駆けていく。
後方からはダニアの女たちが矢や石礫を雨あられと放ってくるが、2人は必死に馬車に乗り込んだ。
一方、チェルシーは左手でエミルを担いだまま、右手で剣を振るってプリシラの相手をしている。
プリシラは短剣を振るい必死の形相でチェルシーに向かってくるが、片手とはいえ長剣を持つチェルシー相手に懐まで切り込めずにいる。
チェルシーは軽やかな足取りで後退していき、さらに馬車の上からオニユリが援護射撃でプリシラを狙う。
プリシラは咄嗟に地面に転がって被弾を避けるが、その間にチェルシーは馬車へと飛び乗った。
途端にヒバリが馬に鞭を入れて馬車を急発進させる。
プリシラはこれを必死に追おうとするが、オニユリの銃撃に邪魔をされて前に進むことが出来ない。
馬車はあっという間に遠ざかっていく。
「エミル! エミル!」
弟の名を叫び、それでも必死に追おうとするプリシラの肩に誰かが手を置く。
プリシラが思わず怒りの形相で振り返ると、そこには傷付いたアーシュラが立っていた。
「落ち着きなさい。この街にいる以上、彼らがどこに逃げようとも袋のネズミです」
そう言うアーシュラはチェルシーに殴られて顔を赤く腫らしている。
そしてまだ目眩がするのか、前のめりに倒れそうになった。
慌ててプリシラは彼女の体を支える。
「隊長! しっかり!」
「大丈夫。それよりプリシラ。エミル様をお救いする機会はまだあります。チェルシーたちはこの街から脱出を図るでしょう。ですが今や、街中に彼女たちの存在が知れ渡ろうとしています」
アーシュラの言う通りだった。
すでにダニア駐留部隊をまとめるダルシーの元へも報せは届いているだろう。
そうなればこの街の赤毛の女たちや共和国軍兵士らによる包囲網が形成される。
簡単には逃げられない。
目の前で再びエミルを奪われてしまった悔しさを必死に押し殺し、プリシラは気持ちを切り替えた。
ちょうどそこで仲間たちが駆け付けてくれた。
「隊長!」
「プリシラ!」
エリカやハリエットは心配そうに2人に駆け寄り、傷の具合を見る。
チェルシーに殴られたアーシュラの左頬は痛々しく腫れ上がっていて、頭の出血は止まっていたが、巻いている布は血で赤く染まっている。
一方のプリシラは肩などに銃撃を受けたもののいずれも掠り傷で、軽傷だ。
「先に隊長の手当てを」
エステルはすぐに背負っている袋から応急処置用の医療具を取り出し、アーシュラの手当てを始めた。
すぐに後方から共和国軍の兵士らが駆け付け、アーシュラは手当てを受けながら彼らに状況を報告する。
街からチェルシーらを逃さぬよう包囲網を敷くべく、兵士らはすぐに散っていった。
そんな兵士らを見送りながらアーシュラは手当てをしてくれているエステルに問いかける。
「エステル。この街の地図は覚えましたか?」
「ええ。敵が脱出を果たすとしたら、警備の薄い地下水路からか、あるいは騒ぎに乗じて港から強行突破でしょう。おそらく今、港で起きている騒ぎは敵の手によるものです。それも共和国軍の兵士たちには伝えました。手を打ってくれるはずです」
アーシュラの頭の布を取り替えながらそう説明するエステルに、アーシュラは満足げに頷いた。
自身の知識量や地頭の良さに溺れて頭でっかちになりがちなエステルだが、実際の作戦行動を経験して少しずつ、しかし着実に成長している。
まだまだ任せるには危なっかしいが、アーシュラは彼女の10年後の成長した姿を想像できるようになり、わずかな安堵を覚える。
そんなアーシュラのもとに黒熊狼のバラモンを連れたオリアーナが寄ってきた。
アーシュラは果敢に戦ったバラモンに労いの言葉をかける。
「バラモン。見事でした。さすがダニアの一員ですね。オリアーナも見事な投石技術でしたよ」
アーシュラは見ていた。
オリアーナが懸命に投げた小石がオニユリの手首に命中し、拳銃で撃たれようとしていたバラモンの命を救うのを。
そしてアーシュラは最後にネルに目を向ける。
「ネル。少しは勘が戻ってきたようですね」
ネルは口を尖らせ、アーシュラと目を合わさずに鼻を鳴らした。
「フンッ。隊長にはさんざんコケにされましたからね。アタシの腕を認めさせるまで、勝手に死んでもらっちゃ困るんすよ」
ネルが居心地悪そうにそう言っているその後方から、エリカとハリエットか1台の馬車を引いてきた。
「共和国軍の人たちから1台もらえたわよ。これで移動しましょ。隊長もう走れないでしょ」
そう言うとハリエットはエリカを伴って御者台に乗った。
「ほら。みんな乗って! 追うわよ。王国の連中に好きにさせてたまるもんですか!」
「このまま逃げられたんじゃ笑いものになる。絶対に逃さないわ」
エリカとハリエットが気勢を上げる。
アーシュラの手当てを終えたエステルはプリシラに声をかけた。
「プリシラ。あなたの手当ては移動しながらします」
全員、これっぽっちも意気消沈していない。
チェルシーという強敵を前にしても微塵も臆していない。
アーシュラは若者たちの顔に精悍さが増してきたことを感じ、痛む体を奮い立たせた。
「では参りましょう。エミル様を必ず助け出しますよ」
アーシュラの言葉に大きな声で応じ、プリシラと赤毛の女たちは次々と馬車に乗り込むのだった。




