第179話 『助けを呼ぶ声』
アーシュラはギニディア修道院を出てすぐに道にしゃがみ込む。
先ほどの老人の話によれば、エミルは白髪の少女と共にこの修道院から出て行ったとのことだった。
(エミル様と同じくらいの年頃の少女と言っていた。ということは足の尺寸も歩幅もそれほど大きくないはず)
修道院正門前の篝火に照らし出されているとはいえ、道に残された足跡を夜の闇の中で探し当てるのは至難の業だ。
集中しているとすぐに後方からプリシラが追いついてきた。
弟のエミルが少し前までこの修道院にいたことを知ったプリシラは、胸中穏やかではいられないだろう。
その胸に宿る切望や焦燥が黒髪術者であるアーシュラには手に取るように感じられた。
「プリシラ。目的が達成されそうな時こそ、落とし穴があるものです。落ち着きましょう」
背中越しにそう言うアーシュラにプリシラは己の心が見透かされていると思い、思わず背すじを伸ばした。
その時だった。
遠くで唐突に爆発音がして2人とも顔を上げる。
互いに顔を見合わせていると、すぐに鐘の音が遠くから響いてきた。
アーシュラがその顔に警戒心を滲ませる。
「これは……非常事態を告げる鐘です」
鐘の音はすぐに広がりを見せ、徐々に海から離れたこの北東部にまで伝わって来た。
街中に分布している物見櫓に備えつけられた鐘が、次々と打ち鳴らされているのだろう。
プリシラは怪訝な顔で音の響いてくる方角の空を見つめた。
「港の方で何かあったんですかね?」
「おそらく……!」
その時、不意にアーシュラの頭の中に一滴の黒い雫が零れ落ちた。
アーシュラがハッと息を飲む気配が伝わって来て、プリシラは敏感に反応する。
「アーシュラ隊長? もしかしてエミルを……エミルを感じたんですか?」
「静かに」
アーシュラはプリシラの言葉を遮ると、神経を研ぎ澄ませる。
そんな彼女の頭の中に薄っすらと声が響いてきた。
(……誰か……誰か)
アーシュラは両目を大きく見開き、その顔をプリシラに向けた。
「プリシラ。エミル様が……エミル様が呼んでいます」
アーシュラの言葉の意味をプリシラはすぐに理解する。
黒髪術者の力でエミルが助けを求めているのを、アーシュラが感じ取ったのだ。
「まだそう遠くないです。プリシラ。決して焦らずに追いますよ」
アーシュラは冷静さを欠いてはいなかった。
すぐさま懐から一枚の紙と鉛筆を取り出すと、何やら走り書きをする。
そしてその紙を修道院の正門近くの地面に置き、小さな釘を刺して固定した。
【目標発見。港方面へ追跡中】
そう書かれた書き置きは、他の場所を捜索している仲間たちへの伝言だ。
隊員たちにはあらかじめ言ってある。
担当した施設にエミルがいなかった場合は、ギニディア修道院にいるアーシュラの元へ集まるようにと。
この書き置きを見れば、きっと彼女らは状況を理解し、駆けつけてくれるだろう。
「さあプリシラ。行きますよ」
「はい!」
2人は修道院の門を離れ、アーシュラの先導で走り出した。
目的地がその目に見えてくると、人間はどうしても急ぎ足になり、思考も逸りがちだ。
そして勇み足の時は失敗も多い。
アーシュラはエミルの影を追う。
距離を保ちながらじっくりと獲物を追う肉食獣のように。
だがアーシュラにはそうした感情と行動の制御が出来ても、若いプリシラにはそれが難しかった。
「隊長。エミルはどんな状況なんですか?」
アーシュラの走る速度に合わせているプリシラは、彼女なりに必死に焦りを抑えた口調で尋ねる。
だが本当は全力で駆けていきたいのだろう。
その焦燥感がアーシュラにはヒシヒシと伝わってきていた。
ゆえにアーシュラは真相を話すことはしない。
エミルが必死に助けを求めるほど状況が切迫していると知れば、プリシラは我慢できずに暴走してしまう恐れがある。
「落ち着いていますよ。とにかく追いましょう。向かう方角は掴めていますから」
そう言いながらアーシュラは港町に起きているであろう何らかの混乱が、エミル救出に吉と出るか凶と出るかを胸の内で推し量る。
(やはり方角的に港方面に向かっている。今は出入港が一時的に停止されている状況だけど……)
港で何が起きているのか、ここからではハッキリと分からない。
だがアーシュラは感じ取っていた。
大勢の人間の恐怖と……殺意を。
そして深夜の街中には、爆発音と鐘の音に驚いて起きてきた住民たちが、家から出てきて通りに集まりつつあった。
皆一様に不安な表情を浮かべている。
通りに人が多くなってきたことで、プリシラとアーシュラは走る速度を上げられなかった。
そうこうしている間にもアーシュラが感じているエミルの力は遠ざかっている。
その遠ざかる速さから、どうやらエミルは馬車で移動しているようだと推測したアーシュラは足を止め、プリシラを呼び止めた。
「プリシラ。このまま走っても追いつけません。上です」
そう言うとアーシュラは家屋と家屋の間の細い路地に身を滑り込ませる。
そして壁を器用に這い上ると、あっという間に屋根の上に出た。
それを見たプリシラも彼女に倣って身軽に屋根の上に上る。
2人は屋根から屋根へと飛び移りながら、エミルを追った。
「これなら往来で人を避けながら走らずに済みます」
この方法によりエミルとの距離が少しずつ縮まっているのをアーシュラは感じる。
人の増えてきた道路を走るしかない馬車に対して、こちらは屋根が続いている家屋密集地しか走れないという一定の制約は受けるものの、それを補って余りある距離短縮を図れるからだ。
そして屋根の上に上がるとよく分かる。
港の方角の空が赤く染まっていた。
明らかに港で何らかの騒乱が起きている。
だがプリシラもアーシュラも今は敢えてそちらを気にしないようにした。
今はエミルのこと以外は眼中にない。
アーシュラは馬車の進行方向を先回りするべく進むが、やがて前方に大きな川が見えてきた。
このバラーディオを南北に隔てる河川だ。
そこで当然のように家屋の屋根は途切れる。
2人は立ち止まった。
アーシュラは目を凝らしつつ、気配を探る。
川にはいくつもの橋がかけられており、鐘の音で目を覚ました人々が行き交っていた。
さらには数台の馬車があちこちの橋を通行している。
そして……。
(……見つけた)
川にかかる数本の橋のうちの1つを今まさに渡っている最中の馬車に、アーシュラは目を付けた。
その馬車からエミルの気配が伝わってくるのだ。
その馬車が進む橋の先には港へと向かう道が通っていて、その途中には船倉庫の建ち並ぶ一角が見える。
「プリシラ。落ち着いて聞いて下さい」
アーシュラはそう言うと前方を指差す。
「あの橋をもうすぐ渡り終えるあの馬車。あれにエミル様が乗っています」
「あ、あの馬車に……」
そう言うプリシラの拳を握る手に力が籠る。
アーシュラはその拳に手を当てた。
「こちらが追っていることに気付かれれば、向こうは全力で逃げていきます。距離を少しずつ詰めますよ。あの馬車にエミル様と少女以外に誰が乗っているのかもまだ分かりませんから」
そう言うアーシュラにプリシラは頷き、2人は屋根の上から川原の道へと身を躍らせるのだった。




