第170話 『修道院の闇』
「……っ!」
いきなり目の前に現れた大きな男にヤブランは思わず悲鳴を上げそうになり、必死に口を手で押さえてそれを堪えた。
男は背が高く、体も大きい。
小柄なヤブランからしたら、覆いかぶさってくる山のようだ。
だが、その顔には奇妙なほどに敵意はなく、満面の笑みをたたえている。
これまで誰にも見つからずに行動してきたヤブランは立ち尽くしたまま、頭の中が真っ白になった。
(だ、誰? 修道士……の服装じゃない。ここの収容者?)
そうしている間にも地下からは修道士らが階段を上がってくる音が近付いてくる。
絶体絶命のヤブランはいよいよ観念した。
(も、もうダメだ。ここに入り込んだそれらしい言い訳をしないと……)
だが、その時だった。
目の前の男がニッと笑みを深くして、いきなりヤブランの手を取ったのだ。
ヤブランは驚きのあまり声も出ないが必死に抵抗しようとする。
だが男は笑みを浮かべたまま上に向かう階段を指差し、ヤブランをそちらに引っ張っていく。
(えっ? 上? 上に逃げるってこと?)
これ以上ここに留まっても下から来る者たちに見つかるだけなので、ヤブランは危険を承知で大男に手を引かれるまま2階へと上がった。
2階は調度品や絵画などが各所に飾られており、明らかに1階とは異なる格調高い雰囲気を醸し出している。
2階の廊下の先にもいくつもの部屋の扉が設けられていた。
おそらくは神父や位の高い修道士らの部屋だろう。
ここもいつ誰が出てくるか分からないため安心は出来ない。
ヤブランの手を引いて2階に到達すると、男はその場で立ち止まった。
ヤブランは息を殺して耳を済ませ、下の階の様子を窺う。
地下から上がってきた修道士らは話をしながらそのまま1階の廊下の方向へ向かっていった。
おそらく1階にある自室に向かったのだろう。
とりあえずは見つからずに済んだヤブランだが、いまだ自分の手を握ったままの大男を見上げた。
そして手を振りほどこうとする。
それに気付いて男は彼女の手を放した。
そして満面の笑みを浮かべてヤブランに尋ねる。
「キミだれ?」
そう問われてヤブランは思わず答えに詰まる。
だが、その男はヤブランの答えを待つことなくポケットから何かを取り出した。
それは小さな包み紙だ。
「おかし食べる?」
「え? お菓子? い、いらないわ」
「そう。じゃあ僕、食べちゃお〜っと」
そう言うと男は目の前で包み紙から小さな焼き菓子を取り出し、それを自分の口に放り込みモグモグと食べ始めた。
男の年齢はどう見ても中年だが、それにしてはまるで子供のような振る舞いだ。
ヤブランはすぐに感じ取った。
(この人……ここの患者だ)
お菓子をおいしそうに頬張る男にヤブランは恐る恐る声をかけた。
「私、ここの客人なの」
「きゃくじん?」
「お客さんってこと」
「お客さんかぁ、いらっしゃい。御用は何ですか?」
無邪気な子供が店遊びに興じるような口調と表情でそう言う中年の大男に、ヤブランは言葉を選びながら話を続けた。
「この建物の見学に来たの。あなたは何をしているの?」
「おさんぽ」
「そうなんだ。あなたたちは自由にお散歩できるの?」
「ボクは縄のほどき方が分かるからできるよ。ほかのみんなはできない」
彼の話を聞くうちにヤブランは少しずつ落ち着きを取り戻した。
(この人に助けてもらおう)
ヤブランは冷静に頭の中で大男への質問を組み立てていく。
「みんなは地下にいるの?」
「いるよ」
「地下から叫び声が聞こえてくるけど大丈夫なの?」
「お外に出たくて泣いている子がいるんだ」
大男は感情の一部が欠落しているのか、その話をしながらもニコニコとしている。
ヤブランは質問を間違えぬよう慎重に吟味しながら口を開いた。
「私も地下を見せてもらえる?」
「いいよ」
「でも修道士の人たちに見つかっちゃうと怒られちゃうから、見つからないように出来る?」
「うーん。今なら出来ると思う。オジサンたち休憩中だから」
大男は両手の指をせわしなく動かしながらヤブランに言った。
「案内するよぉ」
☆☆☆☆☆☆
大男に案内されヤブランは地下へと階段を下りていく。
下からは今度は誰も上がって来なかったが、地下に降りるにつれ叫び声がより大きく聞こえてきてヤブランは胸がざわつくのを抑えられなかった。
それでも彼女は足を止めない。
階段を下りて地下に到達したヤブランは思わず顔をしかめる。
1階とは明らかに違う臭気が地下には充満していたからだ。
(何このニオイ……)
ヤブランはその臭いの正体が分からなかったが、戦場経験のある者ならば誰もが知っている。
それは血のニオイだった。
そしてそれはすぐにヤブランも知るところとなる。
地下の廊下を歩くうちに床のそこかしこに血の跡が残されているのだ。
しかもそれはまだ生々しく乾き切っていない。
「こ、これ……」
ヤブランはそう言ったきり絶句した。
1階や2階と違い、地下の廊下には扉がひとつもない。
代わりに鉄格子が続き、その間から無数の腕が突き出ている。
鉄格子の向こう側、檻の中に入れられているのは、虚ろな目をした男たちや女たちだ。
彼らは鉄格子の間から腕を伸ばし、口々に呻き声を発しながらヤブランをじっと見つめている。
「こ、ここにいる人たちは外に出してもらえないの?」
ヤブランは動揺に上擦った声で大男に尋ねる。
「出してもらえるよ。僕みたいに順番になったら」
そう言うと大男は頭髪をすっかり剃り上げられた頭を手で撫でた。
そんな彼を見てヤブランはハッとすると檻の中の人々を見た。
髪の毛が伸びている男性、髪の毛のない女性。
それだけではない。
歯が一本もない男もいれば、頬の皮膚の一部が剥がし取られた女もいる。
「ひどい……」
ヤブランは彼らの様子にそう呟いたきり言葉を失ってしまう。
そんな彼女に大男は屈託の無い笑みを浮かべて言った。
「僕たちの体は他の誰かが使ってくれるんだって」
「体を……他の誰かに?」
死者の体の一部を、王国貴族や豪商、豪農などの富裕層らが再利用するという話は聞いたことがある。
髪はかつらに、歯は入れ歯に、皮膚は火傷痕などの治療に使われることはヤブランも知っている。
そしておそらくヤブランが知らないような恐ろしいこともここでは行われているのだろう。
それがこの血の跡や先ほどまで聞こえていた叫び声の正体なのだと悟り、ヤブランは吐き気をもよおした。
(ここは……まるで地獄だわ)
苦々しい思いで唇を噛むヤブランの視線の前方に、数十人の男女の姿が見えてきた。
全員、白い薄布の粗末な服を着せられた彼らは檻の中には入っておらず、壁の金具に結び付けられた縄によって腰を縛られ、壁際に立たされていた。
皆一様に怯える小動物のように、不安げな表情を浮かべている。
「次の順番のみんなだよ」
大男はニコニコしたままそう言った。
この修道院の闇を見た思いのヤブランだが、嫌悪感の渦巻く胸の内とは裏腹に、頭の中ではこれは大きな好機だと冷静に分析していた。




