第168話 『ヤブランの暗躍』
ギニディア修道院。
ヤブランは中庭を抜けて本館へと向かっていた。
あの老人から本館には決して近付いてはいけないと言われていたが、つい先ほどその理由の一端を見たヤブランは、この状況をエミルとの脱出に利用できるのではないかと考えたのだ。
(本館の扉は壊れている。あそこから収容されている人たちが出て来たんだ。もっとたくさん出てくれば混乱の状況がつくり出せる。後は……扉の鍵だわ)
ヤブランは足音を立てぬように本館に近付くと、先ほど修道士らが出て来た扉に近付いた。
そして中の様子に耳をそばだてる。
時折、建物の奥から奇妙な叫び声が聞こえてくるが、それ以外に人の喋る声などは聞こえない。
ヤブランは周囲をよく見回し、近付いてくる人などがいないか確認してからそっと扉を手で押してみた。
鍵が壊れていると修道士らが言っていた通り、施錠はされていない。
そしてわずかに開いた扉の隙間から中の様子を窺い見た。
深夜だが、建物の中には等間隔で明かりが設けられており、建物の中を明るく照らし出している。
ヤブランは目に見える範囲に人がいないか、中から近付いてくる足音がしないかを確かめ、本館の中に身を滑り込ませた。
本館の中は修道士たちが焚く香の強い香りが立ち込めており、ヤブランは思わず顔をしかめる。
入った扉の先は冷たい石床の廊下が続いており、外から見たよりも広い印象を受けた。
人の姿はないが、呻き声などは絶えず遠くから聞こえてきており、不気味な雰囲気にヤブランは思わず身震いする。
それでも彼女は勇気を持って足を踏み出した。
廊下の突き当たりはT字路になっていて、ヤブランはその手前の曲がり角の縁でしゃがみ込むと、そこから頭だけを出して左右の様子を窺う。
そこから先は壁にいくつもの扉が等間隔で設けられているのが見えた。
(修道士たちの部屋かな?)
T字路の一番奥は左右どちらも階段の踊り場となっていて、上階下階への階段が見えた。
どうやら地下室があるようで、呻き声は地下から聞こえてきているのだと耳のいいヤブランは即座に悟る。
(収容者たちは地下にいるんだわ。でもさっきみたいに建物の外に出られるということは、拘束や幽閉はされていないってことかな)
ヤブランがそんなことを考えていると、並んだ扉の一つが開き、中から1人の修道士が姿を現した。
ヤブランは慌てて廊下を戻ろうと思ったが、咄嗟に思い留まった。
今から外に出るには走らねばならず足音で気付かれてしまうだろう。
そうこうするうちにも修道士は歩いて近付いてきた。
ヤブランは神に祈るような気持ちで曲がり角の陰にうずくまる。
(お願い。こっちに来ないで)
すると修道士の足音が止まる。
そして小さく遠慮がちなノックの音がわずかに聞こえてきた。
修道士はヤブランのうずくまるT字路の数メートル手前で立ち止まると、別の部屋の扉を叩いたのだ。
ヤブランがこっそり角から覗くと、扉を叩いたのは若い修道士だった。
(さっきの人だ……)
ヤブランがつい先ほど中庭で見た修道士の男だ。
外から帰ってきて扉に施錠をした彼は自室に戻った後、何かの包みを持って別の誰かの部屋を訪れたのだ。
ほどなくしてノックされた部屋の扉が開き、中年の修道士が顔を出す。
その中年の男は若い男が手にした包みを見るとニヤリと笑った。
ヤブランは目を凝らす。
若い男が持っている茶色い包みの端から瓶の口が顔を出していた。
(お酒だ……)
共和国における修道士は飲酒や喫煙を固く禁じられている。
だがそれは建前の話であって、実際には隠れてそれらを嗜む修道士は腐るほどいるとヤブランも知っている。
あの男たちは夜な夜な部屋で隠れて酒を飲んでいるのだろう。
(じゃああの若い方の修道士は酒を買いに外へ?)
中年の修道士は若い修道士を招き入れると、音を立てぬよう静かに扉を閉めた。
ヤブランはホッと息をつくと、再び耳をそばだてる。
それから1分ほど経過しても、廊下には誰も出てこなかった。
時間も時間なのでもう眠っている者が多いのだろう。
(これは……絶好の機会かもしれない)
ヤブランはそう思うと立ち上がり、先ほど若い修道士が出て来た部屋へと足音を立てぬように歩み寄った。
そしてほんの小さな音で扉をノックしてみる。
そしてすぐさま再びT字路の曲がり角へと引き返して姿を隠した。
もしあの部屋が数人で使う共同部屋ならば、同室者が出てくるはずだ。
しかし1分ほど待ってみても誰も出てこない。
(部屋には誰もいない……)
ヤブランは意を決してもう一度、修道士の部屋の前に立つと、静かに扉を押し開く。
扉は内側に開いた。
部屋の中は薄暗かったが、カーテン越しに外から明かりが入り、うっすらと室内を見渡せた。
ベッドが1つ。
机も1つ。
家具が極端に少ない、極めて質素な部屋だった。
(1人部屋だ……)
ヤブランは部屋に入り、扉を静かに閉めると、足音を立てぬように机に歩み寄る。
目当ては表門近くの通用口の鍵だ。
机の引き出しをいくつか開けてみた。
入っているのは筆記用具や紙の束、学術書などの書籍だった。
ヤブランは字こそ読めるものの、本に書かれた内容についてはサッパリ分からなかったので、パラパラとページをめくる。
(本の間には何も挟まってないな)
ヤブランはそうした本を手に取る前に配置を覚えておき、調べた後はそれを元通りにしておいた。
後でこの部屋の主である修道士に不審がられて警戒されたら困るからだ。
誰に教えられたわけではないが、彼女は自然とそうした所作を身に着けている。
おそらく小間使いをしながら、上司であるシジマの神経質なまでに慎重な仕事ぶりを見ていたからだろう。
(鍵……鍵……)
そう念じながら机の中を漁っていたヤブランは、上から3段目の引き出しの側面に、鍵を引っ掛けるためのフックがいくつも付いた金具が設置されているのを発見した。
だがそこには6つもの鍵が掛けられている。
(え? 6つも? どれだろう……表の通用口の鍵は)
ヤブランは念の為、それらの鍵の特徴と置かれた順番を覚える。
全部持って行って実際に開くかどうか確かめなければならないが、終わったら元に戻しておかなければならないだろう。
もしかしたら目当ての鍵はこの中には無く、すべてハズレかもしれないからだ。
ヤブランは手を伸ばし、慎重に音を立てぬよう鍵のひとつを掴んだ。
その時だった。
廊下から足音が聞こえてきたのだ。
それは足音を出来る限り立てぬよう気を遣ったそれだったが、耳の良いヤブランにはかろうじて聞き取れた。
(え? こっちに来る? もしかして戻ってくる?)
ヤブランは青ざめた。
慌てて部屋の中を見回すが、そもそも家具の少ない部屋なので隠れられる場所もほとんどない。
ヤブランは心臓が口から飛び出しそうなほど焦った。
(ど、どうしよう……見つかっちゃう)
もう足音は扉のすぐ傍まで迫っており、そして……扉の前で止まった。
ヤブランは息を飲む。
そして彼女は意を決して身を翻した。
部屋の扉が静かに開かれたのは、そのわずか数秒後のことだった。




