第三十一章
『アリア』の存在に、ビートルは大いにたじろいだ。『アリア』は確かに少女の顔をしていたが、髪も眉毛も、これといった特徴もなかった。あるのは頭と胴体のみで、両肩と下半身のところに無数のケーブルが繋がれ、ケーブルは後頭部からも伸びていた。驚きのあまり数歩下がってしまったビートルは置いてあった機材にぶつかって、機材からレンチが落ちた。ドクトルは愛おしそうに『アリア』を見つめていたが、その音に振り返ると、「恐れなくていい」といつもの陽気な声で言った。
「『不気味の谷現象』という現象があってね。アリアは残念ながらまだその域を出られていない。このご時世に旧世紀のアンドロイドたちほど精巧な顔を作るにはリソース不足だ。だから君がアリアを恐れるのも無理はないんだ」
ビートルは無言だった。『アリア』は目を閉じ、眠っているかのように見えた。その姿は人間というよりも人形に近く、とても彼女がキャシーのように振る舞っているところは想像できない。「もっとも、そのリソース不足を解消してくれるのがキキの存在というわけなんだがね」とドクトルは続け、なんでもないことのように『アリア』の頬を撫でた。
「アリアを生き返らせることに成功すれば、いずれ君のご両親も同じ手順で生き返らせることができる。素晴らしいことだとは思わないか」
熱に浮かされたようなドクトルに、否定的な言葉を使うのは危険だとビートルは瞬時に判断した。ビートルはとりあえず無言でがくがくと頭を動かすと、「それで、キキをどうするつもりなの?」と話題を繋ぐために聞いた。「分解するんだよ」とドクトルは即答した。
「私が最も欲しがっているのはキキに内蔵されている心臓部に当たるチップだ。キキの発言や思考、行動の演算をすべて行っているところだね。あれがなくては、人間に限りなく近い振る舞いを再現できない。逆に言えば、あれが手に入りさえすれば、研究に研究を重ねて複製することもできるかもしれない」
ドクトルはどんどん饒舌になっていった。その瞬間、ビーッという音がしてビートルは飛び上がった。振り返るとガラス越しにレイダーボットによく似た、ただし二足歩行のロボットが立っており、二体のロボットの後ろにはコンテナが連結されていた。「ああ、ちょうどよかった」とドクトルは嬉しそうに言うと、大股にドアへ向かうと先程と同じ手順でドアを開き、「君たちはもうよろしい」と二体のロボットに命令した。ロボットたちは従順に廊下を帰っていくと、その場にコンテナだけが残される。「私の新しい助手くん、早速初仕事だ」とドクトルはコンテナの後ろに回って言った。ビートルはドクトルの助手になったつもりは毛頭なかったが、ここでドクトルを怒らせてしまえば自分の身が危ういことも分かっていたので、ケーブルを踏んだり引っ掛けたりしないように慌ててコンテナのほうへ走った。ドクトルと一緒に、コンテナをぐいぐいと押して部屋の中に入れると、ドクトルが今度こそ鼻歌を歌いながらコンテナについている鍵を外す。コンテナを開けると転がり出てきたのはキャシーで、キャシーはコンテナから飛び出るとうつ伏せに地面に突っ伏した。ビートルは驚いて、「キャシー!」と甲高い声を上げた。キャシーはうつ伏せのまま顔だけ回してドクトルを睨んだ。
「どういうつもりですか」
「二つ目的がある。一つは、運良くキキが君に入れ込んでいて、君を助けるためにここまで辿り着いてくれること。もう一つは、リソースとしての君を有効活用することだ」
ドクトルの説明に、キャシーは眉根を寄せる。「わたしを分解するおつもりですね」とキャシーが唸ると、ドクトルはいかにも、と満足そうに頷いた。
「いくら君が旧世紀の堅物アンドロイドだからといって、アリアに転用出来る部品はごまんと持っているはずだ。そうじゃなくても、君の外側の部分はビートルの母上を作るのに十分利用できる」
ビートルはその言葉にドクトルを見、それからキャシーを見た。ゆっくりと立ち上がったキャシーも同じようにドクトルを見てからビートルを見たが、表情は険しいものだった。「ビートル、本当にこれでいいんですか」とキャシーは詰め寄るように言う。それでも、ビートルはドクトルに逆らうことができなかった。『ハイウェイ・エイティ』で学んだのは、下手に権力者に真っ向から逆らってはいけないということだけだ。ビートルは頷くと、ドクトルはキャシーの首裏の端子を狙ってケーブルを差し込んだ。ビートルを見ていたキャシーには、何の反応も出来なかった。ビートルがはっと息を呑む間に、キャシーは大きく目を見開いて両手と両足を突っ張らせ、そのうちに両足で立ったままだらりと首と両腕を垂らすと、目を開いたまま動かなくなってしまった。ビートルはドクトルに「何をしたんだ」と思わず聞いた。
「初期化だよ。この際、彼女の自我は面倒なだけだからね」
ドクトルはふんふんと鼻歌の続きを歌いながら、ドアを再び開いて巡回していたロボットを止める。ドクトルはロボットにキャシーを収容するように指示すると、キャシーはロボットに両脇を抱えられてずるずると引きずられていってしまった。ビートルにはもう、何もできなかった。
「行動するなら早いほうが良い」
立ち上がったキキははきはきと話し始めた。「あの博物館のマップはなんとなく分かる。わたしにはわたしが知らないだけで、使える機能がたくさんあるみたいなんだ」と話すキキには、もう迷いの色はなかった。アンジーも立ち上がり、両手で涙を拭ってみせると、まだ涙の溜まった目でキキを見ていたが、その顔には勇敢さが宿っていた。「正面突破は得策じゃない、そうでしょう」とキキはケルビンを見、ケルビンは頷いた。
「あんなロボットを作り出すだけの技術者だ。博物館の中にどんな脅威があるか知れたもんじゃない」
「あいつの狙いはわたし。あいつはわたしに不必要な損傷を負わせたくないはず。わたしが先に行く。三人はわたしの後ろについて」
キキは三人をぐるりと見渡すと、「本当は連れて行きたくないけど、わたし一人じゃキャシーを取り返せない」と付け足した。アンジーは「構わないわ」と強い口調で言う。「無茶なお願いをしているのはこっちなの」とアンジーが続けると、キキは首を振って「そんなことないよ」と優しい声をかけた。
「わたしが何であっても、お祖父ちゃんを、わたしの大切な人を殺したのはあいつ。わたしが何であっても、わたしはあいつを許さないから」
俯きがちに話していたキキは両手を固く握ると、きっとその顔を上げる。「博物館に行こう」というキキの合図に、アンダーソンは「そうこなくっちゃ」と笑った。
博物館に辿り着くには、ルートに気を使う必要があった。キキが不必要に有名になってしまっていたため、人の多い場所を通ることができなかったのだ。それでも博物館までは小一時間ほどで辿り着くことができ、四人は前回のように前から侵入することはせず、代わりに博物館の裏手にあった半開きのドアを見つけた。ドアの蝶番はしっかりと錆び付いていて、キキが少し力を加えただけでは開かなかったが、キキは一旦力を緩めると、集中してから思いきり力を入れてドアを開いた。ドアの蝶番が一つ吹っ飛んだが、キキはもう驚かなかった。「とんだ馬鹿力だ」というケルビンの言葉に、少し笑ってみせたほどだった。キキは三人を振り返り、「用意はいいね」と聞く。ケルビンとアンジーはそれぞれライフルを、アンダーソンは拳銃を取り出すと、ばらばらに頷いた。キキはそれを見て頷き返すと慎重にドアの中に入り、三人がその後に続いた。




