◇彼女の空蝉
あの日、ボクはアスタの家には泊まらなかった。もうボクにやれることは何もないし、これ以上何をすればいいのかわからなかったのだ。それに、祖母をひとり家に残したままでいることも心配だった。アスタはボクを見送ろうとしたが、それを断った。変にボクに気を使おうとする彼女と一緒にいることが、辛かったのだ。
その後、ボクは夏休み中に彼女と顔を合わせることはなかった。そうして2学期を迎え、登校日となった。本日は金曜日ということもあり、すぐに週末となってしまうためか、妙にみんな浮ついていた。アスタは憑き物が落ちたようにひとを拒絶することなく振る舞っていた。それと常に短く切りそろえられていた彼女の髪は、かすかに伸びていた。また髪を伸ばし始めたのかもしれない。
そんなアスタの変化に気付いたのか、敬遠していたクラスメイト達も彼女との関係を取り繕っていた。早速、彼女たちは一緒に遊ぶ約束をして帰りに何処かへと寄って行くらしい。そんな光景を横目に、ボクはひとり家路を急いだ。アスタはボクを何か言いたげに見ていたが、無視した。あの場所にボクが混じったところで白けるだけなのだ。
とぼとぼと駅へと向かう。始業式ということもあり、まだ昼過ぎだった。このまま帰ってもいいけれど、気が滅入るので今は祖母の家に戻りたくはなかった。だからボクは駅前から青峰ヶ丘病院行きのバスに乗り込んだ。
何となく、あのふたりと話がしたいと思ったのだ。ぼんやりと車窓の外を流れる景色を眺めているうちに、病院にたどり着いた。真っ直ぐに302号室に向かう。慣れたように病室へと入る。しかし、そこはいつもと違っていた。
海部さんが居るはずの奥のベッドは空になっており、綺麗に整えられていた。退院するなんて話は聞いていなかった。親密とは言い切れないので、教えられてなくても不思議はない。それでも少なからずショックを受けた。呆然と病室の入口で立ち尽くしていると、背後から「邪魔なんだけど」と不機嫌そうな声をぶつけられた。
鈍いながらも慌ててその場を退くと、声の主は松葉杖をつきながら右手のカーテンが締め切られたベッドの方へと入っていった。今の彼女に尋ねようかと思ったが、やめた。
病室を後にし、バス停で時刻表を確認する。ついさっき前のバスが出たばかりということもあって、次のバスまでかなりの時間があった。待っても良かったが、今はじっとしていられるような気分ではなかった。仕方なくボクは、歩くことにした。
転入後、初めてアスタと言葉を交わしたあの日と比べれば随分と涼しい。坂道を下り始めて20分、あのときの木の前にまで来ていた。その木を見上げると、セミの抜け殻がぽつんと張り付いていた。何気なく手を伸ばし、それを取った。
矯めつ眇めつしながら「なんで抜け殻は蟻に運ばれないんだろう?」なんてどうでもいいことを思った。空っぽだからかな?そんな雑な答えで納得していると、坂道の下の方から誰かが駆け上がってくるような足音が聞こえた。関係ないからと無視していると、その足音はボクのすぐ側で止まった。ちらりとそちらへ目を向けると、そこにはクラスメイトたちと遊びに出かけたはずのアスタがいた。
彼女は前屈みになってごほごほと息を乱していた。どうにか息を整えた彼女は、ぱっと顔を上げると指を突きつけて声を張り上げた。
「唯理、私はお前を恨むからな。ずっと付きまとって、最後まで恨み続けてやるよ。だから、私から逃げられると思うなよ!」
演技なのがまるわかりだった。ボクは左手人差し指で鼻の頭をちょんちょんと軽く弾いた。その仕草を見た彼女は、ボクの次の発言を気長に待った。
「何でボクがここにいるってわかったのさ。それにクラスのみんなとの約束はいいのか?」
上手い返しが見つからず、誤魔化すように関係のないことを口にした。彼女はそれに対して律儀に答えた。
「駅前で、お前が病院行きのバスに乗るのが見えたからな。あと、みんなには夏休み中に事情はひと通り話してあるから平気だよ」
それを聞いて、何となくだけど救われた気がした。充分に考える時間を得て、ようやくボクは彼女の言葉に応じた。
「アスタの恨みがいつまで続くか見ものだな」
「生きてる限り、ずっとだよ」
呆れたように肩を竦めてみせた。そうしてボクらはふたり並んで坂道を下り始めた。するとアスタが、今更のように「何でボクなんだ?」と言った。晴桜で過ごしている間、一人称はボクだったのだが、アスタにはそう言ってるところを見せたことはなかったというだけの話だった。短くはない沈黙の後、「似合わないか?」と上目遣いで言った。
「いや、その方がしっくり来るけどさ」
と彼女はあっさり同意していた。こんな事なら無駄に猫をかぶることもなかったかな、と手にしていたセミの抜け殻を草木の生い茂る斜面へと向けて投げた。
「何を持ってたんだ?」
先程より長く考えた末に、「さぁ、何だろうな」と曖昧な言葉で濁した。




