ナガテ:中篇
* * *
「今日は閉店時間が二時間も延びちゃったわねえ。ほんとみんな、なかなか帰ってくれないんだから……ナガテもお疲れさま」
店仕舞いをしながら、ヤスコさんは俺にも労いの言葉を掛けてくれる。お疲れさま、だなんてもったいない。
俺は親父さんの仕事が好きだから、働けるなら二十四時間でもいいんだが……でもそれじゃあ親父さんの方が倒れてしまうだろうな。
夜シフトのバイトは時間になったら帰宅させるため、店の中には親父さんとヤスコさん、それから長年ここに勤めている俺たちだけだった。
俺はこの気怠い夜の時間も好きだ。精一杯働いたなぁ、という満足感と、今日も一日、事故も怪我もなく過ごせたなぁ、という安心感。
おまけに明日は定休日だ。
ゆっくり休もう……
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翌週も、俺たちは忙しく働いた。
ドジばかりするバイト――カワベとか呼ばれていた――は、必ず一日一回は何かやらかしてくれる。
ドジらなきゃいけない病気か呪いにでもかかってるんじゃないだろうか、と思いながら俺は自分の仕事をこなしていた。
正直なとこ、こいつに麺茹では任せたくねえな……とも考えていた。
何故かというと、来週からカワベが麺茹でを練習するという話があるからだ。
まあ当然、いきなりお客に出すようなことはさせない。
まず親父さんがついて基礎から教え、茹で上がった麺の硬さや、スープへの投入の仕方、いくつもの麺を一度に、時には時間差で茹でなければいけない時のタイミング等、段階を踏んで行くんだが――最初は、見よう見真似でどれくらいできているかという、いわば実技試験ってやつをやるのだ。
それに付き合わなきゃいけない俺は、少し憂鬱だった。
スープも麺も、ラーメンの命そのものだ。
そりゃあ誰だって最初は素人だが、しかしどうしてこいつなんだ……
「カワベはな。あれで、将来自分の店を持ちたいっていう夢があるんだよ」
ある日、仕込みをしながら親父さんがぽつりとつぶやく。
「ナガテは不満があるようだが、堪えてやってくんねえかな……」
親父さんにそんな風に言われたら、俺には何も言えねえ。
ってか、俺が不機嫌なことを何も言わなくても、親父さんは気付いてたってことか。
かなわねえなぁ。
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更に翌週、朝っぱらからカワベが店に来た。
今日からいよいよ麺茹での練習を始めるのだ。
そのためには、親父さんが時間を作れるように、他の雑用を減らす努力をしなければ――と、思ったらしい。
仕込みの邪魔にならないように支度を手伝ってるつもりなんだろうが、どうも俺にはいちいちカワベの雑さが気に障ってしまう。
「ナガテさん、今日からよろしくお願いします!」
カワベは俺にも大声で挨拶した。やる気があるのはいいんだが、俺には不安しかねえ……
カワベは、毎日秘かに自宅で練習していたのだと言った。
「百均のテボなんすけどね」とカバンから取り出すそれは、親父さんの店のテボたちより持ち手が短い。
これに濡れ布巾を入れて、風呂場で練習していたらしい。
「こんなんで慣れたら、逆に手が動かないだろう」と親父さんは呆れるが、その努力は買ったようだった。
「あれえ、新しいお弟子さんですか?」と、製麺屋が配達に来て驚いた。
「いやぁ、弟子じゃねえよ……でも、麺茹でを練習したいっていうんでよ」と、親父さんはいつもより少し不愛想にこたえる。
「へえ……そうなんですかぁ」
製麺屋は、親父さんが照れてると思ったのか、にこにこと楽しそうに笑った。
* * *
「っらっしゃっせー!」
「ちぃーっす」
「こんちわっす!」
タイラとヤマが、肩をぶつけ合いながら、我先にと店に入っていた。
勝負は僅差で――自己申告によると髪の差で――タイラの勝ちだった。
「あれ? カワベさん、この時間からでしたっけ?」
「俺、麺茹での練習するんすよ。よろしくっす!」
タイラが目を丸くして訊くと、カワベはそう挨拶する。まだお客に出せるようになるのは相当先の話なのに、よほど嬉しいんだろうな。
だが、ヤマは無遠慮に顔を歪めた。
「えぇ……オレ、親父さんの麺がいい……」
ともあれ、カワベは一所懸命働いた。
チャーシューは注文を受けた時に必要枚数を先に切り、間違えないようにそれぞれ分けて置いておく。盛り付けする作業台は、滑らないように都度布巾で拭きあげる。
時々「あぁっ」とか「やばっ」とかいう声をあげなければ、傍から見てる分にはなかなかの働きぶりに映っただろう。
俺は麺を茹でながら、カワベの動きを観察していたが、どうにもまだ無駄な動きが多いんだよなぁ。
それから、やはり道具の扱いが雑だ。親父さんがそこを指摘してくれればいいんだがなあ。
さっきも、包丁を使ったあと拭きもせずにまな板の上に放置していた。
チャーシューを切ると脂が付くから、洗うまでじゃなくても濡れ布巾で拭うように、と親父さんは教えてたはずなんだが。
どうやら溜まった洗い物に気を取られたらしい。
親父さんも、お客の前で叱るようなことはしない人だから黙ってフォローする。その結果手伝いを増やすどころか、親父さんの手を余計に煩わせることになっちまう。
「すんません、親父さん……丼洗い終わったら、すぐやりますから」
段々手が行き届かなくなって来たらしい。カワベはわたわたと洗い物を済ませようとするが「――どんなに忙しくても、丼が汚れてたら意味がねえ」と、親父さんは洗い物を優先させた。
もっとも、やろうと思えば親父さんひとりでも繁忙な時間帯を乗り越えられるのだ。手際のよさは一級だからな。
親父さんも、カワベをあえてこの時間帯に入れたのかも知れない。
どうやらカワベは、一度にいくつものことをこなすのが苦手らしい。そんなんでラーメン屋になれるんだろうか。他人事ながら心配してしまう。
まぁ、そういう俺も、麺茹で一筋なんだけどな。
午後二時になる頃にはようやく店内も閑散として来た。
親父さんの店は昼休憩に入るのが他の店より遅く、午後三時からである。
チェーン店などは昼休憩もなしに開けている所もあるらしいが、ここの商店街の個人店主の店で昼休憩がないのは、うちの斜め向かいの、ばあさんと息子でやってる定食屋くらいなもんだ。
カワベは洗い上がった丼を、次々積み上げて行く。
おいおい、そんなに高く積んだら、バランス悪くて崩れんじゃないのか?
こいつ、普段親父さんや他のバイトがどうやっているのか、気にしたことないのかよ……と俺は呆れた。
まな板の正面に積む丼は、見栄えのいいディスプレイも兼ねてる。
だから重ねるのは多くても五つまでと言われていたのに、カワベは積めるだけ積んでいるのだ。
まな板の真後ろ、調理場の奥の棚に丼を収める場所があるのだから、本当はそこに入れなければならないのだ。
「茹でてみっか」と親父さんがカワベに声を掛ける。
自分で最初に茹でた麺を賄いにするのが、ここの伝統みたいなものだった。
「え、いいっすか?」
丼や皿を洗っていたカワベが目を輝かせた。
「じゃあ急いでこれ洗っちゃいますね」と、張り切って皿洗いを続ける。
まあ張り切るのはいいんだが、やはり俺はやつの丼の積み方が気になるなあ。
「慌てんじゃねえぞ。慌てるやつぁ火傷すっから……」
「はい! わかってるっす!」
全然わかってない様子でカワベは親父さんに元気よく答えていた。
親父さんがため息をつくのもしょうがない。こいつにはまだ早かったと思っているのかも知れない。