ナガテ:後篇
丼を洗い終わり、シンクの清掃も済ませた。やっとカワベの麺茹での練習だ。
「練習ん時は何玉使ってもいいが、まず最初の一杯は最後まで通して作ってみろ。作り方は知ってるな?」
親父さんは厨房の端に椅子を出して、そこから指示をする。
「うっす!」
コイツ、返事だけはいいんだけどなぁ。
麺を茹で、丼にタレを入れ、具材を用意する。スープを濾しながら丼に注ぎ、タレと混ぜ合わせ、茹で上がった麺の湯切り……
見ている分には簡単そうだが、これがタイミングよくとなると意外に難しい。
湯切りをするのでさえ、最初のうちは思うようにいかない。全然切れてなくてスープの味が濁るってこともしばしばある。
トッピング用の具材は、都度切り分けるチャーシューはもちろん、調理用カウンター下の冷蔵庫に保存してある煮卵も、タッパーを出しっぱなしにするのはNGだ。
他の具材も多過ぎず少な過ぎず、適量を一度に素早く取り分けるのには、やはり経験がものをいう。
カワベは何度か深呼吸をし、「オナッシャッス!」と掛け声のように叫んだ。
俺も手助けはしない。親父さんと同じで、ただ黙って見守るだけだ。
火傷や事故がないように……は、カワベが気を付けてくれないとどうしようもない。
タイマーを二つセットして麺を茹で始める。ひとつは麺茹で用の三分間、もうひとつはラーメン一杯を客に提供するまでの時間だが、今日は長めに七分にセットしてある。
「……っす」と言いながら丼をひとつ、山から取った。
カワベがさっきやたら積み上げたせいで、丼の山がぐらぐら揺れる。
「おっと……」とカワベは慌てて押さえるが、それだけでもう十秒以上ロスしてしまった。言わんこっちゃない。
タレを柄杓に一杯分、タレ壺からこぼさないように慎重に丼まで運ぶ。
莫迦だなぁ……丼を壺の近くまで持って行けば早いのに。親父さんはいつもそうしてるだろう? 麺の湯切りばっかり見てて、細かい作業のひとつひとつは気にしたことがないんだろうか。
俺でさえやきもきするんだから、親父さんはなおさらだ。
チャーシューを切り、煮卵を取り出す。タッパーを冷蔵庫にしまうのは忘れなかったようだ。
麺の茹で時間は残り三十秒……いつもなら俺はこのタイミングで一度合図を出すが、今回はあえて出さなかった。
親父さんもそれに気付いたようだ。一瞬、「お?」という表情になる。
カワベがスープを注いでいる最中にタイマーが鳴った。
「あぁ、あぁ、あぁ……」カワベはすっかり動転してしまい、スープ用のレードルを持つ手が震える。タイマーは止めるまで鳴り続けるからなあ。
いや、そこ慌てんなよ。レードルがすくい網から外れるだろ。しっかりスープを濾さなきゃよ。
だがカワベは慌て始めた。こうなると途端に仕事が雑になるのがやつの癖だ。
スープレードルはスープ鍋に引っ掛けなきゃいけないのに鍋にそのまま放り投げ、すくい網は網用の角ボウルではなく洗い物用のシンクに突っ込む。
麺を茹で鍋から上げ、むやみに振り回す……
やめてくれ。あっちこっち湯が飛び散るじゃないか。
結局、湯切りが中途半端なまま――まぁ、湯切りに関しては、慣れてコツがわかるまでしょうがないが――麺が丼に投入される。その時もスープがばしゃんと撥ねたし、俺は、邪魔だとばかりに厨房へ押しやられた。
カワベはもう周りが見えていないようだ……必死の形相で具材を盛り付ける。
チャーシュー、煮卵、ほうれん草……そこでメンマを出すのを忘れていたことに気付き、慌てて冷蔵庫を開ける。バタンと音を立てて冷蔵庫を閉め、調理用カウンターが揺れる。
おいおい、そんな閉め方をしたら、カウンター向こうのお客にまで振動が――なんて呑気に考えていると、親父さんがガタっと椅子から立ち上がった。
「丼――ナガテ!」
え、と見上げると、カワベが阿呆みたいに積み上げた丼が、俺めがけて一斉に崩れて来やがった。なんてこった――
* * *
「――折れてやがる……」
親父さんの悔しそうな声が聞こえる。
「すんません……」
カワベの声も沈んでいるようだ。
俺の目に真っ先に入ったのは、手つかずのラーメン丼だ。カワベが作ってたやつだな。きっともう麺も伸びきってしまってるんじゃないだろうか。
それにしても全身が気持ち悪い。多少凹んだだけならすぐ直るから別にいいんだが――え、そういや、折れてるとか言ってなかったか?
「お父さん! ナガテが折れたって?」
あれ、ヤスコさん、今日は厨房の予定はなかったんじゃ――
「なんで練習にナガテを使わせるのよ! しかも初回に!」
いや、そんなに親父さんを責めないでくださいよ――そりゃあ俺もカワベの雑さには嫌な予感はしてたけど、何事にもタイミングってもんがあるんだから、しょうがないんですよ。
「すんませんヤスコさん……俺、新しいの買って弁償しますから」
「そういう問題じゃないよ! ナガテは、この店が開店した時からずっと使われてたんだから! この店の歴史が沁み込んでるんだから!」
……俺のこと、そんなにまで評価してくれてたんですね、ヤスコさん。
その言葉を聞けただけで、もう俺には充分過ぎる幸せですよ。
俺の同期たちはもっと早くに折れたり、穴が開いたり、カワベみたいなドジなやつに燃やされたこともあったりして、俺がこんなに長い期間、店で現役でいられたことがもう奇蹟みたいなもんなんだから。
あぁ……最期がこんなへっぽこに使われて、しかもまな板の上に放置されたせいで――なんてのは残念だけど、それもまた運命だよなぁ……
ヤスコさんが俺のために悲しんでくれている声と、カワベの情けない反省の言葉、それと親父さんの手のぬくもりの中で、俺の意識は遠のいて行った。
* * * * * *
「――どう? ナガテ」
ヤスコさんの声で、俺は目を覚ます。どう、って?
辺りを見回す。俺の指定席だった麺茹で鍋が見える。
ってことは、ここは客席側じゃないか。
確かもう少し上には、壁掛け時計があったはずだ。
しかし、一体どういうことなんです?
「ちょっとくすぐったいかも知れないけど」とヤスコさんの声。同時に、麺とは違う、カサカサした物が俺の中に入れられる。
「飾るなら本当は、生花の方がいいけど、長持ちしないしね……でも造花なら定期的に交換すればいいだけだし、傷んだりもしないから」
俺には俺の全身が見えないためわからないが、どうやら俺の新しい指定席はここに決まったらしい。
折れた柄は接着剤と雷門柄のテープで補強され、歪んでヒビが入った網は形だけでも元に戻されていた。
わさわさと揺れる何かが入っているが、それがゾウカという物なのだろう。
「ほう、なかなかいいじゃないか」
親父さんがくしゃりと顔を皺だらけにして微笑む。
俺はもう働けないから、用なしになったんだと思ってたんだが――
「ナガテはこれから、ここで第二の人生を送るんだよ。これからもよろしくね」
ヤスコさんはそう言うと、俺の位置を微調整する。
「おはようございまーす」
その声は製麺屋だな。
「あー、ナガテさん、今度はそこにいることになったんですかぁ」
「うん、いいでしょ」
ヤスコさんが俺を見上げる。
「そっすねぇ」
「ヤスコがな、どうしてもって言うんでな……」
「えー、お父さんだって悲しんでたじゃない」
「はは、そうなんすね。あ、じゃあ伝票にサインを――」
仕込みの手伝いをしていた奥さんが、製麺屋の対応をする。
今日も大勢お客が来るといいなぁ。
なんたって、親父さんのラーメンは最高だから。




