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銀塩の嘘、現像される愛 〜不器用な父が遺した、世界で一番優しい「ピントの合わない写真」  作者: かーすけ
第2章 重なり合う色彩(レイヤー)

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最終章:重なり合う肖像画

 施設への帰り道、車の後部座席からは、まだ乾ききらない油絵の具の匂いが立ち込めていた。

 それは、かつての私にとって「母を奪った病」の匂いであり、父が「忌み嫌った過去」の匂いだった。  

 けれど今、その匂いは、私たちの家族がようやく呼吸を始めた、瑞々しい生命の香りに変わっていた。


 面会室のドアを開けると、母は車椅子に揺られながら、夕暮れの色に染まり始めた庭を眺めていた。

「お母さん、持ってきたよ」  

 私は、イーゼル代わりの椅子に、あの一枚を立てかけた。

 母が、ゆっくりと顔を向けた。  

 その瞳が、キャンバスを捉えた瞬間。  

 母の時間が、音を立てて止まった。

「……ああ」


 母の唇が、震えながら言葉を探している。  

 そこにあるのは、母が三十五年前に絶望とともに筆を置いた、あの「未完のブルー」ではなかった。  

 父がその生涯を賭けてフィルムに焼き付け、暗室で願い続けた「光」が。  

 そして、私が今日、岬の風の中で見つけた「新しい朝の色」が。  

 幾重にも重なり合い(レイヤー)、一つの世界として完成されていた。


 母の細い指が、空中に浮いた。

 かつて筆を握っていた時のような、しなやかで力強い動きで、描き足された水平線の光をなぞろうとする。

「……昭三さんが、言っていた通りだわ。この青は、まだ死んでいなかったのね」


 母の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。  

 それは、失われた三十五年への後悔ではなく、娘の筆によって自分の魂が救い上げられたことへの、震えるような歓喜の涙だった。


「ごめんなさい、陽子。あなたに、こんな重いものを背負わせて……」

「いいえ。お父さんとお母さんが、この色を繋いでくれたから、今の私があるの。私は、犠牲になったんじゃない。この色を託されたんだよ」

 私は母の隣に座り、その震える手を力強く握った。  

 母の涙が、私の手の甲に落ちて温かく広がる。  

 ふと、胸元にある父のニコンに目をやると、夕日の反射がファインダーの中でキラリと跳ねた。  

 まるで父が、泣きじゃくる母を見て「泣きすぎだ」と、いつもの無骨な顔で苦笑いしているような気がした。

「陽子……描いてくれて、ありがとう。私ね、あなたを産んで、本当に良かった」

 母は、泣きながら笑った。  その顔は、どの肖像画よりも美しく、輝いていた。


 数ヶ月後。  

 私の新しい個展の案内状には、一枚の写真と一枚の絵が並んで印刷されていた。  

 写真は、父が撮ったピンボケの海。  

 絵は、私が完成させた、あの岬の風景。

 会場の入り口には、父の『ニコン F3』と、母の『絵の具箱』が、一つのガラスケースの中に大切に飾られている。  

 来場者たちは、その物語を知らぬまま、ただそこにある「重なり合う色彩」に足を止め、静かに微笑んでいる。


 私は、展示室の隅からその光景を眺めていた。  

 もう、背中を押される必要はない。  

 父の視線も、母の情熱も、すべては私の一部として、筆先に、そして指先に宿っているからだ。

 私はそっと、手の中にある新しいスケッチブックを開いた。  

 次のページには、何色を置こうか。    

 窓の外には、どこまでも澄み渡った、あの岬の青い空が広がっていた。


(完)

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