第8話:岬のパレット
夜明け前の紫色の闇を切り裂くように、私は車を走らせた。
助手席には、描きかけのキャンバスと、父のニコン、そして母の絵の具箱。
昨日までの迷いは、もうない。
私の指先には、父の遺した「色の配合表」が熱を持って刻み込まれていた。
『風の岬』に到着した時、東の空がようやく白み始めていた。
海と空の境界線が曖昧な、深い群青色の世界。
私はイーゼルを立て、母が三十五年前に筆を止めたあの場所に、キャンバスを据えた。
「……来たね」
背後から、聞き慣れた声がした。
パナマ帽を被った神野さんが、水筒を手に立っていた。
「おはようございます、神野さん」
「いい顔になった。昭三さんがレンズを覗く時と同じ、獲物を狙う鷹のような目だ」
私は微笑み、パレットに絵の具を広げた。
父がメモに遺した『コバルトブルー 6、ヴィリジャン 3』。
母が愛し、父が記憶し続けたその色を、私は迷わずキャンバスの「空白」へと乗せていく。
ぬるりとした感触。筆が走るたびに、三十五年前の母の筆跡と、私の筆跡が溶け合っていく。
それは、断絶されていた家族の時間が、一つの旋律になって奏でられ始めるような感覚だった。
太陽が水平線から顔を出し、世界を一気に黄金色に染め上げた。
その瞬間、私は父のニコンを手に取り、ファインダーを覗いた。
眩しい。
レンズが捉えたのは、単なる風景ではない。波頭に砕ける光の粒子、風にそよぐ草の緑、そして、それらすべてを優しく包み込む「生命の温度」だ。
「お父さん、見てて」
私はカメラを置き、再び筆を握った。
ここからは、父の配合表にも、母の記憶にもない「私の色」の時間だ。
私はパレットの端にある「レモンイエロー」を、たっぷりと筆に含ませた。
父が守り抜いた銀塩の光。
母が封印した油彩の情熱。
その二つを繋ぎ合わせるのは、今、この場所で生きている私の「希望」でなければならない。
私は、母の描いた深い青の海の上に、鋭い光の一閃を叩きつけるように描いた。
それは、闇を突き抜けて差し込む、朝日のような一筋の道。
神野さんが、隣で息を呑むのがわかった。
「……素晴らしい。佐和子さんの繊細さと、昭三さんの力強さ。それが君の手の中で、新しい命になっている」
私は夢中で筆を動かした。
腕が痛い。
溶剤の匂いで頭が揺れる。
けれど、こんなにも「生きている」と感じたことはなかった。
一筆ごとに、父の怒鳴り声が、母の悲しげな微笑みが、すべて愛おしい記憶へと昇華されていく。
数時間後。
太陽が高く昇り、岬全体が輝きに満たされた頃。
私は、最後の一筆をキャンバスから離した。
そこには、かつての「未完のブルー」はもうなかった。
重なり合う色彩の向こう側に、光り輝く未来へと続く海が広がっていた。
父のニコンが、胸元で静かに光っている。
まるで、「よくやった」と、あの無骨な声で囁かれたような気がした。
「神野さん、ありがとうございました。私、これを持って……お母さんのところへ行きます」
私は、まだ乾ききらないキャンバスを、宝物のように両手で抱えた。
風の岬に吹く風は、驚くほど爽やかで、私の背中を優しく押し出していた。




