炎の花
背丈ほどの切り立った岩場と、その上から見下ろしてくるエルドの姿を前に、僕は眉間に皺を寄せていた。
周りを見ても、登れそうな道はない。
彼は身軽なのか、岩場の小さな足掛りを利用して、さっさと上に登ってしまったけど。
エルドは見下ろしてくるだけで、助けてくれる気配はなかった。
僕だって父さんと旅してたときは、結構身軽に動けてたはずなんだけど、やっぱり体力落ちちゃったな……。
ぬめる岩肌に指を掛け、足掛りを探って体重を掛け切る前に、腹に力を入れて手を移動させる。
呼吸を止めて、滑り落ちそうになりながら、一息に岩場の上に手を掛けた。
腹這いで岩場の上に登り、地面に両手を突いて荒く呼吸する。
「……旅人っつー割には、苦戦してねーか?」
余裕げに見下ろしてくるエルドを、横目で少し睨む。
「旅を、やめてた、期間が、あった、から。そもそも、なんでこんな険しい場所を行くんです……行くの?」
「この道が一番近いからに決まってるだろ」
「いや、ここは、道ですらない──」
顔を上げた瞬間、前方から濃い腐臭が漂ってきて、体を強ばらせる。
遠くの方で胞子の塊が、黒く蠢いているのが見えた。
唾を飲んで、エルドに声を掛けようとした時、彼の体がかすみ、地面がひび割れ、紅く燃えたかと思うと、赤い狼が胞子の中へと疾走して行った。
「なっ……何?」
目を見開いて狼の動きを追う。
彼の前足が胞子の塊に振り下ろされ炎の花が咲き乱れ、ぱっと散って行く。
その光景を凝視していたら、左目の奥がズキリと痛んだ。
「炎の……花?」
左目を押さえて、右目だけで前方を見る。
炎を纏った前足が、腐怪の群れを燃やしていた。
左目に残る炎花の残像は、どこにも存在しなかった。
「というか、何やってんの!?」
腐怪に突っ込んで行くなんて有り得ない! 自分の力を過信してるのはエルドの方なんじゃないの!? 僕は治すことしかできないんだよ……。彼が致命傷を負いませんように!
焚き火が燃え尽きたような匂いで、涙目になりながら立ち上がり、服の泥を払う。
耳を割くような腐怪の鳴き声と、炎が爆ぜる音を聞きながら、岩や樹に隠れてじりじりと近寄る。
やっと近くまで辿り着いた時には、既に腐怪の群れは丸焼きにされて、エルドの前足で掻き集められていた。
「……怪我は、してないみたいで良かった。けど、何、やってるんですか……?」
もしかして──。
「肉だ。村に持ってく」
エルドが人の姿に戻って、前方を目線で示してくる。
つられて前方を見ると、遠くの景色が揺らいでいるのが見えた。
その晴れた景色の中、青々とした葉を繁らせている、一本の細い樹木が光を浴びていた。
「……あれは」
「神木だ。まだ芽吹いたばっかりだって言えば分かるか?」
──芽吹いたばかり……。
無意識に胸元の小瓶を握り締めた。
「どなたの……神木名は何て言うんですか?」
「……あー。ルミア様だとよ」
耳に入ってきたその名を心の中で呟く。
境界は遠目から見ても大きく揺らいで不安定なのに、ルミア様は風に吹かれても、しなやかに葉を揺らして舞っているようだった。
綺麗で目が離せない。
無事に芽吹くことができたルミア様が──。
「……羨ましい」
父さんもいつか……ルミア様のように……芽吹いてくれるかな……。
「羨ましい? 危ねーの間違いだろ」
「……危ない?」
ぼんやりしながらエルドを見ると、彼は肉を入れた袋を肩に持ち上げて、こちらに視線を向けていた。
「いつ、腐怪にやられるか分からねーだろーが」
目を瞬く。
もう一度、神木の方に視線を向ける。
境界が腐敗に押され、明るい場所が遠ざかる。
目を見開いて息を呑む。
「安全じゃない……」
そうだ。分かってたのに、どこの境界も安全じゃないって。アレースも、ニライも、シオンの境界ですら揺れてたのに。まして、芽吹いたばかりのルミアの境界は、狭くて小さい。
ルミアの地は、いつ消えてもおかしくないんだ。
「そーだ。安全じゃねえ。で、あそこが俺の目的地だ」
エルドがルミアに向かって歩き出す。
慌ててその後を追いながら口を開く。
「ルミアの地の人なんですか……?」
「いや、ちげーよ。何でそーなる」
「だって、目的地だって今言ったじゃないですか」
ルミアの神木の地で生活してるんだと思っても、おかしくないでしょ……。
「たまたま見つけただけだっつーの。ちょっと居座ってたらやべー腐怪は来るし、ニナはどっか行っちまうし、あん時は本気で……まじ、あの腐怪やろー、一生許さねぇ!」
エルドはぶつぶつと呟いた後、唐突に頭を掻き毟って叫んだ。
「ちょっ、びっくりするから、いきなり叫ばないでください! 叫ぶならせめて境界内で叫んで欲しいんですけど」
「……悪りぃ。つーか、境界内で叫んでたらヤベー奴だろ……」
一瞬、足が止まりかけた。
──え? 腐敗の地で叫んでる方がやばくないのかな?
顎に指を当てて首を傾げながら、ルミアの地に向かって歩いた。




